混沌の庭

瑞雨ねるね

第一章 青空謳歌

第一話 ようこそ、ヒュペルボレオスへ!

 気が付いた時――少年はひとり、夢の世界へと落ちていた。


 夏の気配を色濃く残す、むせ返るような暑さの暗い夜。

 昼の熱気が残留する、湿り気を帯びた澱んだ空気。それを洗い流すように、一陣の風が空を浚う。清涼な夜風が、暑さに蒸れた肌を心地よく撫でた。


 目の前にあるのは、色のない世界。

 黒と灰で表現された、草原の丘だ。


 暗い夜空に星はなく。黒一色の夜天――その中心にのみ、巨大な銀色の月が一つだけ納まっている。白く濁った曖昧な輝きは、まるで見開かれた目玉のようだ。

 もし仮に夜空を屋根と例えるならば、月はそこに穿たれた穴といったところか。ならば地上に注ぐこの光は、覗きを働く不埒者が放つ眼光だろう。実に気味が悪い。まるで巨大な怪物に凝視されているかのようだった。


 ―――さて、ここは、どこだったか。


 呆然と辺りを見渡して、少年は首を傾げる。

 まだ十になったばかりの幼い子供だった。彼は年相応の、愛嬌のある大きな瞳をゆっくりと瞬かせる。篝火かがりびに似た鮮烈な赤色が、闇の中を探った。

 常人なら何も見えないであろう黒く塗り潰された色のない世界を、少年は静かに四望する。


 少年はあるものを探していた。この世に二つとない、大切なものだ。

 ―――シャーロット、シャーロット。あの娘は一体、どこにいった?


 少年は懸命に探す。何処とも知れない場所で、この世にたったひとりの少女を。

 少年は無心に前へと進む。背丈ほどもある草を掻き分け、何度も足がもつれて転びそうになるけれど。決して、諦めようとはしなかった。


 やがて少年は、草原から抜け出る。

 その先にあったのは、巨大な湖だ。


 草原が途切れた先で、なだらかな土の斜面が顔を出す。その中心に、脈絡なく巨大な湖がぽっかりと口を開けていた。

 生気のない月の光を受けて、黒い水面がてらてらとした有機的な輝きを反射している。時折風が吹く度、虚空に灯る月光が不安定に揺れた。しかし黒い湖面の煌めきは希薄で頼りなく、見る者に、そこには何もないかのような錯覚を抱かせる。

 仄暗い水の底に溜まっているのは闇ばかりで、それはまるで奈落のように不吉だった。


 不意に目の前に現れた異様なほどに黒い湖を、少年は呆然と眺める。


 ―――あはっ! あははははははははっ!


 突如誰かの笑い声が鼓膜を打ち、少年は我に返った。そして笑い声の主を探そうと、慌てた様子で湖の縁に沿って視線を走らせる。

 笑い声の主は、すぐに見付かった。

 暗がりに幼い少女の姿を認め、少年は目を細める。

 齢は十にも届いていないのだろう、その身体は指先で触れればそれだけで倒れてしまいそうなほどに小柄で痩せている。簡素な白いワンピースから覗く肌は病的に白く、それでいて陶器のように艶やかだった。

 彼女は湖の浅瀬に足を付け、水を蹴っては楽しげに笑っている。踊るような動きに合わせて、二つに結ばれた黒髪が跳ね回った。


 ―――……ここに、いたのか。


 安堵し、少年は深く息を吐いた。張り詰めていた気が抜けたせいか、自然と頬が緩み、しかし眉をひそめて困ったような表情を形作る。

 外は危ないから、勝手に出歩くなと言ったのに。

 そんなことを考えながら、少年は静かに少女の許へと歩み寄る。こちらの存在を気取られないよう足音を忍ばせ、背後からゆっくりと近付いた。

 水遊びに興じている少女を後ろから両腕で挟み込み、小さな身体をそっと抱き締める。少女は不思議そうな顔で小首を傾げるが、背後に立つ人物が誰なのか認識すると、途端に破顔した。

 少女は嬉しそうな様子で、首元に回された少年の手にそっと自身の掌を重ねる。

 微風に草原が揺れ、さわさわと涼しげな葉音が耳朶じだへと流れ込む。水面は小さく波紋を広げ、足首を静かにくすぐった。

 冷たい水が肌を撫でる感覚はとても心地が良い。未だ昼間の熱気が残る蒸し暑い夜には、なるほど、確かに水遊びでもしたくなるだろう。その気持ちは分からないでもない。

 だから少年は、少女の行動を咎めなかった。ただ、何事もなく無事に再会できたことを、心から喜んでいる。

「……二度と、お前を離したりしない」

 なにものにも代え難い、とても平和で穏やかな時間。その最中、少年は少女の首筋に顔を埋め、力強い語調で宣誓する。その表情は異様に硬く、悲壮な色すら帯びていた。

 明らかに子供には不相応な、苦悩に染まった面貌。後悔や悲哀などといった暗い激情が逃げ場をなくし、頭の中でぐるぐると渦を巻いている。

 自責の念で追い詰められた彼には、唯一の居場所であったシャーロットの隣すら、今では安息の場とは言い難い。けれど少年は決して少女を手放そうとはしなかった。むしろ先程よりももっと腕に力を込めて、少女の体をより強く抱き締める。

「なあ、シャーロット。俺は……―――」

 語り掛ける声は途切れ、最後まで続かなかった。

 唐突に少女の身体から力が抜け、少年の腕から滑り落ちる。少年は慌てて小さな背中に腕を通して身体を支え、様子を確かめるべくその顔を直視した。

「……っ!?」

 驚愕を露わに目を見開き、少年は絶句し少女の体を取り落す。がしゃり、と音を立て、少女の体が湖に沈んだ。しかし白い肢体は、。水滴の零れる見開かれた暗い瞳が、少年の姿を映し込んだ。


 ―――チクタク、チクタク


 カチャカチャと音を立てて、少女の四角く区切られた口が開閉する。酸欠の魚のように口をぱくぱくと動かす姿は滑稽で、人間の姿からは遠く駆け離れていた。

 そう、これはただのだ。

 シャーロットの姿を模した、球体関節の腹話術人形。。ならば本物のシャーロットはどこに行ってしまったのか――そこまで思考を巡らせると、少年は再び最愛の少女を探しに向かうべく、即座にきびすを返して歩き出す。

 しかし、一歩目を踏み出した途端、強制的に歩みは止められてしまった。


 ―――チクタク、チックタック


 勢いよく何かにぶつかり、少年は人形の腹上に尻餅をついてしまう。衝撃で激しく飛び散った水飛沫を頭から引っ被り、全身がずぶ濡れになってしまった。

 少年は自分が何にぶつかったのか確認しようと顔を上げる。濡れた髪の毛の隙間から、赤い瞳が覗いた。しかしその直後、少年の目が不自然に見開かれる。


 それは、強い恐怖心を抱いた者の表情だった。

 ―――――――チックタック、チックタック


 歯車と発条ゼンマイが奏でる奇怪な音。その発生源は人形ではなく、目の前に立つソレが発している怪音だった。

 夜鷹の頭を象った柄頭のステッキを持ち、黒いタキシードに同色の外套とシルクハットを被っている。

 どこか気取った怪盗を思わせるコミカルな姿だが、しかしその全身には脂肪が貯えられ、ぶくぶくと醜く膨れ上がっている。呼吸に合わせて胸が上下する度、内側から盛り上がる肉に押されて、シャツのボタンがみちみちと悲鳴を上げていた。

 シルエットだけならば、何かのロゴマークやマスコットキャラクターにでも起用できそうな出で立ちではある。けれどその本性はあまりにも醜悪だ。

 礼服の隙間から僅かに覗く肌は異様に血色が悪く、最早生物のそれとは大きく駆け離れている。体内に機械油と冷却液の循環する血管チューブがびっしりと張り巡らされているからか、肌の色はチープなホラー映画に登場するゾンビのように青黒い。

 しかしそれはあくまで彼が人間でないことを裏付ける要素でしかなく、最も目を引くのはソレのだった。

 輪郭やパーツの位置は、丸みが目立つが、人間とそう大した違いはない。

 けれど顔面を覆う肌は研磨された青黒い金属のフレームで、見た目は昆虫の外骨格に程近く見える。しかもその隙間からは皮膚と筋肉、歯車と発条が剥き出しになった内部機構がはみ出していた。

 そして左目がある場所には時計の文字盤が嵌め込まれ、右目は光を反射しない黒ずんだ色の片眼鏡で覆われている。ローラーチェーンで形成された歯列の奥では、奇怪な装飾の振子が左目の時計の動きに合わせて規則的に揺れていた。


 凹凸の綺麗な外殻を髑髏どくろのようにがちがちと打ち鳴らし、異形が嘲笑う。


 ―――――チックタック、チックタック

 それはまさに、時計男チクタクマンとでも呼ぶべき異形の怪人だった。


『こんバンワァ?』

 妙に間の抜けた抑揚の、ノイズの掛かった不気味な合成音声。時計男の喉奥に仕込まれたスピーカーから流れ出る怪音に、少年はビクリと体を震わせた。


 これは、あまりにもひどい夢だ。

 探し求めていた少女は消え、後には人でない形骸と、突如現れた異形が残るのみ。あまりに現実味のない状況だ。ならば、これは現実ではない。ただの夢だ。酷く性質の悪い、悪夢の類だ――と、少年は考える。

 そんな少年の考えを見透かしているのか、カメラの仕組みそのままに、怪人は右目の黒い片眼鏡を上部と下部から迫り出てきたシャッターで半ばほど覆う。その様は嘲笑に顔を歪め、眼を細める人間のソレとよく似ていた。……あるいは、それを模したものなのだろうが。

『オヤァ? 返事がありまセンネェ。これはいケマセン。まったく、先生エレナは子供の躾すらできないのでショウカ? 仕方があリマセン――ネェッ!』

 怪人は嘆くように首を振る。その傲慢な余裕のある態度が、少年にはどうしようもない隙であるように映った。

 今の内に逃げ出してしまおう――そう考え、少年は体を回して這うように移動しようとする。しかしそれを許す怪人ではなかった。彼はステッキの先端で少年の肩を鋭く打ち付け、水底へと強引に押し込む。

「―――ッ!?」

 肩に走る激痛と、急速に体内へと侵入してくる水の不快感と圧迫感に少年はパニックを起こし、水中から脱しようと無我夢中で手足を振るう。しかし体を押さえるステッキはビクともしなかった。

 怪人は肥満した体の全体重をステッキに押し付け、執拗に少年を湖底へ沈める。その表情から読み取れる感情は特にない。子供いぬを躾ける親のように、ただ無心で己が義務感に従い虐待きょういくを施行していた。

『吾輩は貴方に期待しているノデスヨ。くれぐれも早く立派なニンゲンに育ってくダサイネ。何より貴方が生き残る術など、それ以外にないのデスカラ……ネェ?』

 背中に刺さる岩の堅い感触はそのままに、際限なく沈んでいく。

 昏い水底に光は届かず、呼吸も出来ず、その上ひどく寒い。いっそ気を失ってしまえば楽になるのだろうが、肩に刺さる灼熱がそれすら阻害する。自分ではどうすることもできないこの状況――それこそが、少年にとって何よりの恐怖だった。

 口の端から最後の空気が漏れる。赤い瞳は色を失い、虚ろに濁った。

 もうじき意識が途切れ、命すらもが途絶えてしまう。その最中、何故か怪人の声だけは一切せることなく、正確に少年の鼓膜を打った。


『そうでしょう、我ガ人形カチナドール? お前は決して、我々から逃れラレナイ―――!』


 そもそもこの世界は、そういう風にできているのだから!


 謳い上げる道化のように、全てを嘲笑う演説のように。機械の怪物がうそぶく。それを妄言だと笑い飛ばすだけの余裕は、少年には残されていない。ただ倦怠感に身を任せ、固く目を閉ざした。


 そして―――――暗い湖の底へと、沈んでいくように。

 少年の意識は黒く塗りつぶされ、ぷっつりと途切れた。


 * * *


 少年―――アラン・ウィックの意識は、急速に現実へと浮上した。

 がくり、と首が深く垂れた後、ゆっくりとした動作で顔を上げる。


「……ねむい」

 欠伸を一つ漏らし、左手でまぶたを擦る。眠気が抜けていないからか、赤色の瞳は半ばまで伏せられていた。

 ぼやけた視界を放置して、アランは緩慢な動作で長穿のポケットに手を入れる。すると、彼は中から薄型の携帯端末を取り出した。機能美に満ちたシンプルなデザインのソレは、アランの手の中で激しく震え暴れ狂っている。

 律動を繰り返す端末を器用にも片手で操作し、バイヴレーションを切って待ち受け画面を表示する。画面の隅に午前六時を少し過ぎた旨の情報が映し出された。


 ―――チクタク、チクタク


 時計を模した簡易な図形が、軽快な電子音と共に時を刻んでいる。

 一秒毎に時間を区切っていく様には寸分の狂いすら存在せず、実物の時計よりもその精度は正確だ。何より従来のものと違って螺子ネジを巻き直す手間が省ける点を、アランは高く評価している。

 もっとも、それはあくまで時計としての機能に限った話なのだが。

(はじめは便利そうだと思ったんだが……多機能っていうのも考え物だな。操作が複雑でよくわからない。おかげで思ったより早く目が覚めてしまった)

 不満を露に顔をしかめると、アランは携帯端末をポケットへ押し込み、深く息を吐き出す。

 アランの持つ携帯端末は、数時間前に支給されたばかりの新品だ。

 当然、支給時には簡易的な取扱い説明書も渡されたのだが、如何せん、搭載された機能の紹介ばかりで肝心の操作方法があまり詳しく書かれていない。結果として好奇心に任せて物珍しさに弄り倒し、飽きたので放置していたところ、睡眠を妨害されるという事態に陥ったという訳だ。

(まあ……妙な夢から早々に醒められたし、別にいいか)

 ぼんやりとそんなことを考えながら、アランは周囲に注意深く視線を走らせる。

 絶対にありえないだろうが、もしかしたら夢の中に登場したあの怪人がこの近くにいるのではないか――そう思えて仕方がなかったからだ。


 現在、アランは大型の硬式飛行船の中にいた。


 ゴンドラ内に設えられた半円形の広い甲板は、そこが観光客向けに用意された区画であるためか、周囲の景色を展望できるよう壁面のほとんどがガラス張りとなっている。

 辺りには観賞用の植物が左右対称に等間隔で配置され、背凭れのない革張りのベンチが利用しやすい位置に列を作って並んでいた。

 隅々にまで趣向の凝らされた、過剰なほどに豪華な船室。

 けれどそれにまったく気後れすることなく、アランは悠々とした態度でベンチに深く腰掛けている。彼は無人の甲板を一瞥すると、背後の壁に背を預けて再び深く息を吐き出した。


 そして、自身の膝へと視線を落とす。

 そこでは、一人の少女が眠っていた。


 年はアランに程近いが、まだ幼く、あどけなさの残る少女だった。

 髪と肌、瞳の色は彼と共通で、二つに結ばれた細いツインテールは墨を零したかのように黒く、肌はまるで蝋を固めたかのように病的に白い。均整のとれた美しい顔立ちと相まって、ひどく人形じみた容姿だ。しかし生き物特有の瑞々しい質感が、彼女が歴とした人間であることを如実に訴えている。

 そんな美しい容貌の彼女だが、着ているのは実に飾り気のない衣装だった。

 灰色のゆったりとしたブラウスに、黒のコルセットと同色のホットパンツを穿いている。細くしなやかな足は黒いニーソックスによって太腿の半ばまで覆われ、その上に暗い色合いのメリージェーンを履いていた。

 華やかとは言い難い喪服じみた服装だが、彼女は更に灰色の貫頭衣ポンチョを被って上半身をすっぽりと覆い隠している。徹底して肌の露出を抑えていながら、その実、見る者に対して妙に艶かしい印象を与える不思議な様相の少女だった。

 彼女の名前は、シャーロット・ウィックという。アランの実の妹だ。

 夢の中とは違い、未成熟ながらもその肢体は随分と大人びている。そしてそれはアランもまた同様だった。

 シャーロットは目を閉じ、アランの膝に頭を預けて眠っていた。彼女は小さく寝息を立て、時折口をもごもごとうごめかしている。

 不意に何事かを呻きながら、彼女は寝返りを打った。そのまま腕を伸ばし、抱き枕にするように、シャーロットはアランの腹に回した両腕に力を込め、彼を強く抱きしめる。

 彼女は子猫が親猫にするように、アランの上腹部に顔を寄せ頬ずりをする。細い指先が彼の脇腹を撫で、時折揉むような動きでくすぐった。

「…………」

 アランは無言でシャーロットの頭を撫でる。前髪の一部を指先で撫で上げ、そのまま顔の輪郭を下方へとなぞっていき――柔らかな頬を軽く抓った。

「起きてるだろ、お前」

 妙な間の抜けた声を上げるシャーロットに対して、静かな語調で指摘する。すると彼女は途端に破顔して、えへへ、などと無邪気な笑みを漏らした。

 睫毛の長い、大きな目が開かれる。その真中に収まる瞳の、血の色とは一線を画する――炎のように鮮烈で、美しい赤色が覗いた。


「おはよう、おにーちゃん」

「おはよう、シャーロット」


 意図的に間の延ばされた声と、親愛の情に満ちた声が重なる。

 シャーロットは名残惜しむように、指先をアランの脇腹と腿に沿わせながらゆっくりと密着した体を離し、ベンチに座り直した。そして指を組んで腕を上げ、背筋を伸ばして筋肉の緊張を解きほぐす。

 筋肉の動きに連動して、成長途中の小振りな胸がぐっと圧し上げられた。

「んー、よく寝たぁ! こんなに寝たのって久しぶりかも!」

「そうか、よかったな。……でも不眠が続いてたのなら、此処よりも客室で寝た方がよかったんじゃないか? あっちの方が快適だったと思うが」

 満足気に微笑むシャーロットに笑みを返しつつ、アランは指摘する。

 実に今更なことではあったのだが、彼女の身を案じる親心から、改めて言わずにはいられなかったのだ。

 アランとシャーロットは、客人として飛行船に招かれている。

 宛がわれた部屋は一般の客室よりも上等なスイートルームだ。実際に寝心地を確かめた訳ではないから断言できないものの、少なくともベンチで寝るよりはあちらのベッドで就寝した方がよかったのではないか、とアランは考える。

 シャーロットとしてもその辺りの意見はアランと同じなのだろう。妙に難しい顔をして、腕を組み唸っていた。

 なぜそうしたのかと聞かれれば、そうしたかったから、としか答えられない。合理的な理由など特になかった。

「うーん……そこはホラ、快適さより兄妹のスキンシップを優先したってことで」

「スキンシップ? …………………………………………………ああ、なるほど?」

 シャーロットの言い分を聞き、アランは視線を斜め上に向けて、前日に見た光景を思い返す。

 確か旅行客であろう年の近い男女が、ベンチで膝枕をしていたような気がする。シャーロットの奇行はそれに影響されたものだったのだろう、とアランは一応納得した。もっとも、あの男女が肉親関係だったようには見えなかったが。

「それよりさ、そろそろなんじゃないかな。もう見えるんじゃない?」

 そんなことを言いながら、シャーロットは立ち上がった。

 彼女は無意味に手を広げ、無人の甲板を蛇行しながら突っ走る。そしてガラス壁の下に辿り着くと、額を押し付けてそのまま動かなくなった。しかししばらくすると笑顔で振り返り、大きく手を振って手招きをする。

(元気だな、朝っぱらから)

 苦笑を浮かべ、アランは立ち上がった。眠気で気怠い体を引き摺って、シャーロットの許へ歩み寄る。彼は嬉しそうに手招きする少女の隣に並び、足元に広がる景色をガラス越しに見下ろした。

 暗い夜空の地平――その向こうから、鈍い光が覗いている。黒と白の濃淡のみで描かれたそれは、日の出にしてはあまりにも味気ない薄弱な情景だ。

 以前のソレには様々な色があり、見る者の心を打つほどに美しく素晴らしいものであったという。だが、アランはそんなことには微塵も興味がなかった。

 日光に照らし出された大地も同様だ。少なくとも、彼にとってソレは見るに堪える景色ではない。

 地面は塩や雪で白く凍てつき、激しくうねりひび割れている。それが俯瞰ふかんからは巨大な生き物の体に刻まれたしわのように見えて、とても気味が悪い。まるで肉を貯えぶよぶよとみにくく太った、白い芋虫の体表のようだった。


 眼下のそれは、生き物の住めない、何もかもが滅んだ世界だ。

 けれどその醜悪な情景の真ん中に、人間の住む都市があった。


 サークル状の城壁に囲まれた、蟻塚を想起させる巨大な尖塔型の人工物。色のない世界の渦中にありながら、唯一それだけが様々な色彩をまとっていた。

 周囲を旋回、あるいは飛び立ち、巣穴へと帰還する小さな黒い物体の群れは、きっと他の飛行船だろう。彼らを導くための誘導灯が、様々なパターンの光彩を発していた。

 長く色のない世界で生きてきた者にとって、その存在はそれそのものが暴力に近かった。注視していると、取り込んだ光に網膜を激しく殴打されているような、そんな感覚を覚えてしまう。

 軽い眩暈めまいを感じ、アランは両の目頭を指先で押さえ、強く目をつぶった。しかし隣のシャーロットは食い入るように見つめたまま動かない。まるでショーウィンドウに並べられた玩具を眺める子供のように、きらきらとした無邪気な表情で眼下の建造物を眺めていた。

「あれが、私達の新しいお家?」

 巨大な都市からまったく視線を外さないまま、シャーロットは期待を湛えた声音で問いを投げる。

 彼女の視界には生気のない太陽も、気味の悪い大地も映っていない。周囲に散らばる汚点の一切を排して、ただ純粋に、見たいものだけを見ていた。

「……ああ、その通りだ。これで今までよりも長い時間を、一緒に過ごしていられる」

 強く拳を握り締め、アランははっきりとした、けれど静かな語調で言った。両手に嵌められた赤褐色の革手袋が、嫌な摩擦音を立てる。

 不意に、堅く握られた拳を、小さな掌が包み込んだ。シャーロットはアランの右手を両手で覆い、胸元まで掲げる。そして華やかに微笑んだ。

 信頼の全幅を寄せた笑顔を直視して、アランも淡く口元を綻ばせる。けれど彼女の右手首に嵌められた白い腕輪が視界に入ると、途端にその笑みは硬いものに切り替わった。

 アランはゆっくりと手を下ろし、視線を再び都市へと向ける。

 あれはこの地上で人間が安全に生きることが出来る唯一の土地であり、現存する唯一の国家だ。その存在は一種の伝説として神格化されている。


 曰く、あの地は、永遠に消えない温かな光によって包まれている。

 曰く、あの地の民は、空を旅するほどの凄まじい技術力を有している。

 曰く、平和や秩序という概念の甘受は、あの地に住む者だけの特権である。


 と、信仰される人類最後の砦。混沌の只中に息衝く最古の秩序。北風の彼方にあるという彼の楽園の名は―――


『―――ようこそ、ヒュペルボレオスへ!』


 ポケットに仕舞われたアランの携帯端末に、突如としてそのようなメッセージが表示された。けれどそんな些事には気付かずに、彼は窓の外へ視線を戻す。

 旧世界の伝説を模倣して名付けられた都市を、アランは無表情で見下ろした。血の色そのままではない、暗中に灯る篝火のように鮮烈な赤色の瞳が、異次元めいた色彩の乱舞を直視し続ける。


 ―――――チックタック、チックタック


 時刻は六時十七分。

 蒸気と歯車の快音を侍らせて、旅人を乗せた飛行船はゆっくりと、己の巣へと帰還する準備を始めるのだった。

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