第七話 雑貨屋兼探偵事務所・ジグソウ

 青色の扉を開け、店の中へと入り込む。

 金管楽器じみたドアベルの鳴らす清涼な音が、周辺へと広く響き渡った。


 先程のエーリッヒの店もヒュペルボレオス上層――即ち首都に所在していたが、この場所はそれよりも尚上方に位置している。あちらも随分と落ち着いた町並みだったが、ここら一帯はより輪をかけて静かだった。

 中でもここは住宅街のようで、辺りには高級志向の強い家々が立体パズルみたいに組み合ったような見た目の集合住宅テラスハウスが散見される。

 雰囲気は廃墟街ゴーストタウンに近似しているが、その一方で動く者ヒトの気配は十二分に感じ取れる。―――蠕動ぜんどうを内包する静寂。不可思議な二律背反を成すこの街の有り様は、まるで舞台上に造られた虚像のようですらあった。

 そしてそういった街独特の雰囲気を、ジグソウの店内もまた有していた。

 天井に照明はなく、店内は非常に薄暗い。壁面にある嵌め込み式の巨大な窓のことを考えるに、普段の灯りは太陽光に依存しているのだろう。

 人工の光を廃され、自然の光のみを受ける建物。その様はやはり、廃墟のように目に映るに違いない。


 けれどそれは、当然ながら昼間に限定した話だ。

 今は午後六時、太陽は既に沈んでいる。灯りは全て人工物で代用されていた。


 ほぼ正方形に近い店の中央には、天井にまで届く円筒形の大型蒸気機関。それを台形の棚が四角錐を造るように、円陣を組んで囲んでいる。

 店内の灯りは蒸気機関の燃焼室ボイラーが放つ赤々とした光をメインに据えており、それ以外には幾つかのフットライトがあるのみだ。けれど視界に不自由は全くなく、まるで旧暦時代の夕日の只中に佇んでいるかのような印象を受けた。

 どうやら一階のほとんどが商品を陳列すためのスペースと化しているようで、木と銅板、それから真鍮で彩られた店内は、思った以上に広い。しかし並べられた商品の圧倒的な物量が、実際の広々とした印象を跡形もなく塗り潰していた。

「ほー、ほぅほぅ。色々あるんだねー」

 二人でぐるりと店内を一周しつつ、シャーロットが好奇心に幾度も目を瞬かせながら言う。

 しかしアランは諸手を挙げて彼女の言に賛同する気には、どうしてもなれなかった。それはこの店にある商品のレパートリーが、雑貨屋、というにはあまりに偏っていたからだ。


 雑貨屋ジグソウの商品は、時計と蒸気機関を内蔵した工業製品に限られていた。


 あらゆる金属、あらゆる装飾、あらゆる叡智がそこにあった。

 電子式デジタル歯車式アナログ。実用性一辺倒のものから、芸術性しか感じられない不可解な造形の物まで。統一性のない機関式機械の群れが、歯車と振子の快音を響かせながらじっと佇んでいる。

(よくよく見れば、どの商品にもロゴがないな……それに値札も)

 蒸気機関を内蔵した幼児程度の大きさの蜘蛛の玩具と、その隣に並ぶ単輪駆動車ガーニー・モノバイクを見比べながら、アランは心中にて首を傾げる。

 大抵の工業製品には、開発元である会社のロゴタイプやマークが刻まれているものだ。それが無いということはつまり、それがロゴを削り落とされた盗品の類であるか、あるいは―――――

「―――――お兄ちゃん、こっちこっち!」

 不意に、別々に店内を物色していたシャーロットがアランを呼ぶ。

 声がした方に視線を向けてみると、何か大きな箱の前にしゃがみ、上半身を捻って肩越しに後ろを見るシャーロットと視線が合う。にへらとした彼女の笑みに頷くと、アランはシャーロットの許へと歩き出した。

(やはり、他のも全部同じだな)

 視線をそこかしこへ移しつつ、途中にある商品を見聞する。結果はいずれも同じで、ロゴと値札は全く見当たらなかった。

「どうした、シャーロット。これが気になるのか?」

 シャーロットの隣にしゃがみ、同じ目線で尋ねる。すると彼女は元気よく頷いて見せた。

「お兄ちゃん、これ動かしてみて!」

 そう言って、シャーロットは目の前にある猫足の箱を指さした。

 高さは一メートル前後、横幅は五十センチ程度の直方体である。それは銅と真鍮のフレームで形作られた、人形劇用の小さな舞台小屋だった。


 これは愉快な人形劇場。

 ご自由にお試し下さい。


 そんな立札が、舞台小屋の傍に佇んでいた。

 舞台小屋は上段と下段に分かれており、上段は刳り抜かれた枠の内側を天鵞絨ビロード生地のカーテンが覆い隠している。対して下段には熱量や蒸気圧を表示する計器メーター等の機械部品、更に給水口や燃焼室ボイラーへ燃料を入れるための補給口があった。

 箱の下――猫足の間には大量の石炭が入った箱が安置されている。やや盛り上がった黒い塊には、園芸用の小さなシャベルが刺さっていた。

 どうやら、随分と旧式の蒸気機関を動力源としているらしい。

電子式デジタルは勝手が分からないが……まあ、これならいけるだろう)

 安直にそう結論付けて、アランは計器類をさっと一瞥する。

 どうやら水は十分に充填されているらしい。ならば後は火種を投入するのみだ。

 蒸気機関は内燃機関である。火を起こし、水を蒸発させ、生じた熱量と蒸気を使って仕事をこなす。旧式であれ最新式であれ、この仕様から外れることはない。ただし手軽さという点においては、圧倒的なまでに最新式の方に分があった。

 最新式はボタン一つで直ぐに起動し、即座に高温状態へ移行できる。

 それに対して旧式の蒸気機関は燃焼室ボイラーの耐久性などの問題から、起動までに数時間を要することも少なくなく、その上水や石炭等の小まめな補給が必須だ。

 よって旧式の蒸気機関は、一般に旧世紀の遺物として扱われ敬遠されている。蒸気機関が各家庭に最低でも一台は必須という驚異の普及率となった現代においては、その立ち上がりの遅さと労力の大きさが見合わず、また排煙から生じるであろう公害を危惧したが故だった。

 以上の理由から、ヒュペルボレオスに旧式の蒸気機関は存在しえない。ただし、何事にも例外はあるようで――その一つが、この店なのだろう。

(次は……火種か)

 アランが燃焼室ボイラーの取っ手を掴み、引き下ろす。

 補給口の蝶番は下方にあり、両側面には扇形の留め金ストッパーが付いている。蓋の内側に石炭を乗せ、閉めることで投入される仕組みだ。どうやら石炭は十分に投入されているようで、あとは火を着けるだけのようである。

 アランは近くの棚にある着火用のライターを燃焼室ボイラーの中に右手を突っ込んだ。

「よ……っと」

 こんもりと盛られた石炭の中に、革手袋に包まれた一指し指が差し込まれる。そして根元まで埋没したその瞬間――

 赤々とした光が次々と伝染し、黒い塊がめらめらと炎を立ち昇らせる。その段階に至ってからようやく、アランは燃焼室ボイラーから腕を引き抜いて補給口を閉めた。


 その右手には火傷一つなく、革手袋には焦げ跡一つ存在しない。


「あっ、動き出した!」

 先程のアランの狂態に全く関心を示さず、シャーロットは舞台小屋の変化にのみ心躍らせていた。

 ワインレッドのカーテンが左右に開き、隠されていた内部が露呈する。


 そこは確かに、劇場だった。

 カーテンの内には更に暗幕があり、その内側には木で出来た四角い壇上がある。そしてそこに、一体の人形が屹立きつりつしていた。


 ソレは先程店先で見かけたブリキ人形の頭身を縦に伸ばしたような姿をしていた。スラリとした外観の、時計の頭を持つ紳士が大仰に何かを呼びかけている。


 ―――――チクタク、チクタク


 歯車と発条の音がする。その快音は人形からではなく、舞台小屋の方から響いていた。

 よくよく見てみれば、人形の手足や頭、背中からは細長い鋼糸ワイヤーが天井に伸びている。どうやらこれは、内部機構によって人形自らが機動するという自動人形オートマタの類ではなく。あくまでも体裁上は、動力を外部に依存した操り人形マリオネットであるようだった。


 劇場内に仕掛けられたスピーカーから、音楽が流れる。

 暗幕が閉じ、再び開く度に登場人物は増え、小道具は多様に入れ替わった。


 時計男と契約した青年が町娘と恋をし、悲劇の末に破局。嘆き悲しむが、やがて時計男の力で出世した青年は王様に仕える身となり、神話じみた世界への冒険に旅立ち、やがて帰還した男は新たな事業に乗り出していく。

 劇には台詞が一切なく、人形の手振りと音楽の変化でストーリーを察せねばならなかった。

 それでも人形の仕草の一つ一つがよく出来たもので、アランとシャーロットにも問題なく上記の粗筋を理解することができた。


 やがて男は夢を見ながら死に至り、その魂は時計男の手に渡る。

 しかし男の魂は時計男の手から滑り落ち、天使達に導かれ天へと昇って逝った。


 ―――斯くして終劇。斯くして世はこともなし。


 暗幕は閉じ、カーテンは閉ざされ、歯車と発条の合奏は停止した。後には蒸気機関が放つ余剰蒸気と排煙の排出音が、箱の側面から突き出た数本の真鍮パイプから溢れるのみである。

「おー」

 気の抜けるような関心に満ちた声で、シャーロットはパチパチと手を叩く。

 アランは暫し黙考した後、「メフィストーフェレだったか」、と呟いた。どうやら彼の知識には、先程の劇の内容と一致する物語があったらしい。

 そしてその推測は、、正しいようだった。


「―――――その通りです、お客人」



 ―――『転輪させよ、転輪させよ、偉大なる叡智を』



 清涼な声音が、オペラの一節を紡ぎ上げた。

 それに釣られ、アランとシャーロットは声がした方向に揃って顔を向ける。その先には二階へと続く階段があり、そこから一人の少女が降りて来ていた。

 すらりとした長身が、煌々とした明かりに照らされる。

 露になったその姿は、深窓の令嬢という表現がぴたりと当て嵌まるような、清廉で潔癖な出で立ちだった。

 のりの利いた長袖の白いブラウスに、脹脛ふくらはぎまで伸びる蒼のロングスカート。そして黒いストッキングを穿き、細くしなやかな足を覆っている。更に磨き上げられた褐色のワークブーツが、照明の光を反射して赤々と輝いていた。

 肌の露出を極限まで抑えた、淑女然とした装い。十代後半の少女が着る分には、少々背伸びし過ぎた格好だ。しかし目の前の少女はそれを完璧に着こなしている。……ヘアバンド代わりと思しき遮光レンズの無骨なゴーグルと、胴だけでなく手足にまで張り巡らされたハーネスベルトの存在が少々浮いてはいるものの、それでも尚、彼女が纏う空気は完全で、これ以上ないというほどに貴族然としていた。


 それは、白い少女だった。

 清廉で、潔癖で、気高く――そして何より、とても美しかった。


「そして旧世紀の叡智オペラと、私の叡智マシンが巡り合わせたこの出会いに感謝を」


 片手を手摺に預け、踊り場からアラン達を見下ろしながら少女が囁く。

 歌のように韻を踏み、口元に微笑みを湛えて――カルティエ・K・ガウトーロンは、二人の客人に向けて深々と優雅に一礼した。


 * * *


(―――――我ながら完璧な出会いファーストインパクトですね)


 心の内でそのような確信を抱きつつ、カルティエは階段を降り切り一階に足を付ける。革の靴底が、コツリと硬い音を立てた。

 ウィック兄妹の受け入れを決めた時から、今日この時に至るまで。店の商品に由来する会話手順パターンを予め考え、用意しておいたのだ。その一環として数々の詩劇を暗記、ウィック兄妹がどの商品に興味を示したとしても対応できるよう自らの語彙を増やしたのである。先程歌い上げた『メフィストーフェレ』もその一つだった。

(ともあれ、出だしが成功したからといって、その後に失敗したのでは意味がありません。くれぐれも台詞の途中で噛んだり、欠伸を漏らしたり、お腹が鳴ったりしないよう気を付けなくては)

 気取られないよう浅く深呼吸してから、カルティエは用意しておいた言葉を手短に紡ぐ。

「初めまして。私はカルティエ、この店のオーナーです。以後お見知りおきを」

 笑みを湛えて名乗り、カルティエが右手を差し出す。

 芝居がかった仕草と演出。それになら倣うように、アランはシャーロットには決して向けないであろう笑みを浮かべて握手に応じた。

 今日から此処に住むことになるのだ。家主に無礼を働く愚は犯さない。

「……これはご丁寧に。本日からお世話になります。はアラン・ウィック、それからこちらは妹のシャーロットといいます。兄妹ともども、よろしくお願い致します。―――シャーロット」

「うん! ご紹介に預かりました、シャーロット・ウィックです! お近づきのしるしに、よろしければ、これをどうぞっ!」

 アランに促されてにこやかに挨拶をしつつ、シャーロットはポンチョの下から白い箱を取り出し、ささっと素早く差し出した。

 カルティエは見覚えのある箱を前にして、素直にまあ、と目を見張る。

「るるゐゑ堂のケーキですか? ありがとうございます! 後程、皆でお茶にしましょうか」

「本当!? やった!」

 和やかに頬を緩ませて箱を両手で受け取ると、カルティエはそれを顏の傍まで上げてにっこりと笑う。それに対してシャーロットは歓声を上げ、目を輝かせてずずいっとカルティエに近寄った。

 そして、そのまま機関銃のようなトークを爆裂させる。

「―――いやぁ、ここのお土産をどうするかってお兄ちゃんと話してたんだけど、やっぱりタオルとかの日用品よりはケーキの方がいいかなって思ってね! 色々調べてみた結果、美味しいと評判の瑠璃絵堂をチョイスしてみました! もちろんただ評判がいいから選んだって訳じゃなくて、汽車で実際に食べてみて美味しかったからそこにしたんだよ! とはいえその時食べたのとは別のヤツなんだけど、それはそれ、ちゃんと試食して美味しいケーキを選んできたから、カルティエさんもきっと気に入ってくれると思うな! あっ、でもお店の名前が分かったってことは食べたことがあるのかな? でも今日から発売の新作って宣伝してたのをお兄ちゃんが謎の権力っぽいので買ってくれたものだから、きっと大丈夫だよね―――」

 突然の急接近と言葉の嵐にカルティエが目を白黒させる。

 それを止めるべく、アランは渋面でシャーロットの襟首を摘まむと、彼女を手元にまで引き寄せた。

「これ、シャーロット。はしたないぞ」

「うっ……そうだね、よくないね。ごめんなさい、えと、カルティエさん? こちらのことは、どうかお気になさらず」

 アランに窘められ、シャーロットは更にささっと数歩引いてから仰々しく深々と頭を下げる。その先程までとは打って変わったあまりにも極端な反応に、カルティエは思わずといった様子で楽し気に失笑を零した。

「ふっ、ふふふ……いえ、そちらこそお気になさらず。それにそう畏まらずとも結構ですよ。私のことはカルティエと、呼び捨てにして頂いて結構ですから。その代わりこちらは、シャーロットちゃんと、そうお呼びしても良いでしょうか?」

「うん! カルティエ――おねえさま!」

「さん付けではなくいきなりお姉さまか、随分と段階をすっ飛ばしたな」

 呆れた風に横目で一瞥するアランに対し、シャーロットは照れた風の表情でえへへ、と後頭部を掻いた。

 一方、カルティエは口の中で幾度か「おねえさま」とシャーロットの言葉を反芻すると、いきなりカッと目を見開いて勢いよく面を上げた。

「―――いいですね、それ!」

「なにが、でありましょうか」

「おねえさま、というフレーズがですよアラン君っ! ―――ごきげんようHEYシャーロットちゃん、タイが曲がっていてよ?」

「ああっ、ありがとうございます……」

「身嗜みはいつもきちんとしておかなければ。マニトゥ様が見ていらっしゃいますよ? 主に監視カメラとかから」

「はい……っ!」

「なんだこれは」

 麗しく細めた眼で見つめ合い、カルティエがシャーロットの襟元で指を動かす。ただしシャーロットの服装は、ディアンドルの上にポンチョを羽織っているというものだ。タイは実在せず、カルティエはただ直すフリをしているに過ぎない。

 背景に白い花が咲き誇る冥府魔道でも展開していそうなその謎の雰囲気に、アランは思わず困惑から溜息を吐いた。

「心配しなくても大丈夫だよ。どんなことがあっても、私はずっとおにいさまの妹であり続けるからね!」

「そうか。お願いだからその呼び方はやめてくれ」

 頭痛に耐えるように、眉間を指先で押さえる。

 洋裁店エーリッヒの時もそうだったが、どうやらこの町に店を構えるオーナーは皆奇妙な癖を持ち合わせているらしく、その上そこにシャーロットが加わると必ず謎の化学反応を起こすらしい――そう確信せずにはいられないアランであった。

「ふふふ、それではなんとなく自己紹介が出来たところで、一先ず二階うえに上がりましょうか。長旅で疲れているでしょうし、お部屋に案内しますね」

 そう言って踵を返し、カルティエは元来た階段を登って行く。その後にシャーロットが続き、少し遅れてアランが向かった。

 今日から此処に住むことになるのだ。家主に無礼を働スカートをのぞく愚は犯さない。

 階段を上がった先には、控室と思しき空間があった。

 横に倒れた長方形状の部屋の中央には、テーブルがあり、それを挟むようにソファが設置されている。左側の壁は格子状になっており、店内を見下ろせた。そして一階の商品と趣きを同じくする蒸気機関式の玩具が、所々を彩っていた。

 控室には二つの扉がある。

 右手側の壁には、外へ繋がる勝手口が。そして正面には、建物の奥へと続く通路を隔てているものが。

 どちらも艶やかに輝く、漆塗りの扉だ。三人はカルティエを先導役としてその扉へと近付き、引き開け、鴨井の下を潜る。

 扉の先には五メートルほどの通路があり、今しがた開けたものと同様の形状デザインをした五つの扉があった。

 左右に四つ、正面に一つ。真鍮しんちゅう製のドアノブと蝶番がなければ、完全に左右対称シンメトリーとなっていたであろう配置だ。

「―――アラン君とシャーロットちゃんは、この右手側の二つの部屋、どちらかを選んで使ってください。とはいえ間取りは同じですし、ベッドなどの家具も同様のものを揃えましたから、見比べてもあまり楽しいものとは言えませんが」

「なるほど、なるほど……じゃあ私は、折角だからこの手前側の部屋を選ぶね!」

「分かった。俺はこっちにしよう」

「決まりましたか? では、私はこの奥の部屋で待っていますので、質問等があれば遠慮なく聞いて下さいね!」

 それでは、と。

 カルティエは二人の姿が扉の向こうに消えたことを確認してから、肩の荷を下ろすようにふっと短く息を吐いた。

(……よし!)

 確信と共に固く拳を握る。彼女が何を以って自らの対応を良しとしたのかは、謎であった。

「―――っと、いけませんね。今の内に彼等と親睦を深めるための、諸々の準備を進めておかないと」

 頭を振って意識を切り替え、カルティエは踵を返して廊下を進む。

 その先にあるのは、五つの扉の中で唯一、『九頭龍専属探偵事務所』とネームプレートの打たれた最奥の一室へ繋がるものだ。

 ドアノブを掴みながら、カルティエは今後のことについて思考を巡らせる。その中に扉の先について案じる思慮はない。当然ながら、彼女は扉の先にあるものを全て把握しているからだ。

 探偵事務所の名に恥じることのない、資料棚に囲まれた仄暗い社長室オフィス。そして台所や仮眠室へ繋がる扉。それがこの先にあるものの全てだった。

 実際の所、彼女の記憶は正しい。

 しかしカルティエは、扉を潜った瞬間に、目の前の光景と記憶とを同一のものとして認識することができなかった。


 ―――其処は、灰色に淀んでいた。


 空気が濁っている。温度が燻っている。

 総じて、視界が途方もなく煙っていた。


 まるで童話に聞く魔女の家のように、不可思議な香を幾つも炊いたような有様。灰色の粒子が視界を疎らに隠し、生温い空気が全身を舐め回した上で鼻腔から入り込んでくる。

 それはひどく、これ以上ないというほどに退廃的な空気だった。


「―――この街は碌でもない」


 不意に、灰色の毛色けしきに溶け込むような声が耳朶を掠めた。気だるげな、しかし確かな芯を持った凛とした男の声音だった。

 癖の強い短髪に、耳に掛かるサングラスの黒い蔓フレーム。二メートルを超える長身を赤いシャツとカーキ色の背広スーツという洒脱な装いで飾ったその姿は、しかし着崩され必要以上にくたびれて見える。

「楽園なんて呼ばれちゃいるが、そいつはとんでもない法螺だ。何せ、こんなに色の無い濁った世界だ。太陽と月は生気を持たず、星々は塵芥のように白い点としてただ夜空に在るだけ。そして、糞ったれの天から降り頻るのは人々の嘆きの雨のみ。……何処も彼処も慟哭で溢れ、それが有り触れ、だからこそ誰の耳にも届かない。此処は、そんな街だ」

 男は灰色の幕を超えた先――部屋の終端に設置された、大きなデスクを挟んだ位置にいた。彼はカルティエには一瞥もくれず、しかしその存在を確と把握した上で、デスクの背にあるブラインドに覆われた窓に体を向けていた。

 彼はブラインドの隙間を指で広げて外を眺めながら、口端に咥えた煙草を燻らせている。この演出の為に一体何本の煙草を費やしたのか、甚だ疑問であった。

「だからこそ俺は、人の嘆きってヤツを聞く仕事をやってる。一応悪の組織に名前を連ねちゃいるが、それはそうしなくちゃ見えないモノがこの街には多過ぎるからだ。―――だから俺は、善悪の基準ってヤツを持ち合わせちゃいない。仕事に私情を挟まないってのは、そういう事だからだ。だがもし、この鉄の心にそれを得る機会があるのなら……それは仕事の上でさえ、お前ら身内を護らなければならない……そんな状況にあった時に限るだろう」

 そう言って、男はゆっくりと紫煙を吐き出す。

「俺の名はエドガー・ボウ。そして俺の仕事は、そう―――――探偵だ」

 そう言って男は振り返り、絶句した。

 最早見慣れた、悪の組織を取りまとめるビッグボスの愛娘の姿がそこにあったからである。

 普段と変わらぬ彼女の蒼い眼差しが異様に冷たく見えるのは、単純にそれが寒色であるからか、呆れによるものか、あるいは自身の被害妄想がそう見せているだけなのか、エドガーには区別がつかなかった。

「あ、あの……カルティエちゃん? これはそのですね、俺に纏わり付いているであろう巷のよろしくない噂を払拭するための印象操作というか……ホラ、何事も第一印象ファーストインパクトが大事って言いますし? ですから新人達にビシッと頼れる大人感を見せてあげたくてですね!?」

「……なるほど。こういうのもあるのですか」

 まるで鏡に映った自分を見るように、カルティエは数分前の自身と目の前の中年男を重ね合わせ事務的にメモを取った。

「申し訳ないが俺の与り知らない所で何事かを納得しないで欲しいんだけども!? 不安になる! まあ兎にも角にも、減俸はなしの方向で!」

「大丈夫ですよ、元に戻るだけですから」

「色を付ける方が消滅した――――ッ!」

 アランやシャーロットに当てたであろう名状し難い自己紹介のような何かをカルティエに誤射した挙句、ボーナスの話を取り消されたエドガーが頭を抱えて蹲る。

 そんな彼の姿を見下ろしつつ、カルティエは溜息を吐く。

(そういえば、彼の紹介を忘れていました)

 あまりに今更なことだった。ただし結果だけを鑑みるなら、無意識下による行動とはいえ、ある意味で忘却スルーしておいて正解だったかもしれない。


 まあ、それはともかく。


「とりあえず、まずは換気ですね」

 そう言って、彼女は自身の携帯端末を操作して換気扇のスイッチを入れた。

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