第三十話 Childhood's End 1

 君は白い部屋の中にいた。


 眩い白、清潔な白、完璧な白。

 床、壁、天井に至るまで、全てが白く染め上げられている。清潔感に満ちた内装には、汚れの一つもありはしない。それは健全でありながら病的という、実に矛盾した造りだった。

 四方八方を緩衝材で埋め尽くされた、精神病院の隔離室を思わせる内装。そこには簡素なパイプベッドが一つあるだけで、生活感の欠片もない。


 物心がついた頃から、君はこの牢獄に囚われていた。


 それ以前のことは覚えていない。/嘘だ。忘れた振りをしているだけだ。

 家族の顔も見たことなんかない。/嘘だ。忘れた振りをしているだけだ。

 君はいつも、ずっと一人だった。/嘘だ。忘れた振りをしているだけだ。


 決して変化も転換もない、ただ孤独なだけの時間。繰り返される実験カウンセリングと、ガラスの仕切り越しに観察されるだけの日々。そんな停滞した風景を、君は呆然と客観視していた。

 君の意識は紛れもなく自分の脳の中に。けれど視点だけが、遠く隔てている。

 人間は己の生命や精神が死の危機に瀕した場合、何らかの精神的な防衛反応を見せることがままある。特に子供の場合はそれが顕著だ。

 君は心的な深い外傷を負ったが故に、心を閉ざし、自分を現実から切り離して物事を傍観している。

 例えるならば、その様は幽体離脱した廃人に等しい。この心的な防衛機制を、心理学においては解離と称する。

 周りの白衣を着た連中と一緒になって、君は外側から自分を観察し続けた。

 いつまでも続くように思われた、静止した日々。けれどそれは唐突に終わりを告げた。


 ―――程なくして、君は新しい妹と引き合わされた。


 * * *


 気が付いた時――君はひとり、夢の世界へと落ちていた。


 夢の舞台は無人の映画館。

 照明の落とされた劇場は仄暗い。黒一色の視界を一瞥いちべつしてみれば、ずらりと並んだ座席の輪郭が薄っすらと見て取れた。

 君はその最後列の、真ん中の席に座っている。

 席を立つことは出来ない。君の体は、拘束具によって雁字搦めに椅子に固定されていた。満足に動かせるのは首だけで、手足はびくりともせず身動きが取れない。


 状況の変化に君は戸惑う。


 先程まで、君は戦っていた。技の限りを尽くして憎い敵としのぎを削り、結果として行動不能に追い込まれた。そして君の眼は破壊された。その筈だ。

 しかし今、破壊された両眼は問題なく機能している。訳が分からなかった。


 目の前には、薄く伸ばされた銀幕スクリーンが広がっている。

 劇場の後方から白い光が飛ばされ、銀幕スクリーンの表面に映像が灯されている。よく似た顔立ちの兄妹が仲睦まじく遊んでいた。床に散らばった玩具は様々だ。二人は積み木を崩し、人形を弄び、絵本のページを夢中でめくっている。

 絵本の表紙には、題名と、著者の名が書かれていた。


 小さな怪物のお姫様プリンセス・シャーロット黒い犬の騎士サー・アラン

 著者名:エドガー・ボウ


 どこか見覚えのある映画を呆然と眺める。

 君が途方に暮れていると、不意に横合いから声を掛けられた。


「―――や、ひさしぶりだね」


 君は眼球だけをじろりと動かし、声がした方へ視線を向ける。

 そこにいたのは小さな子供だった。

 歳は十に満たないか、あるいはもう少し上の頃合いだろうか。薄汚れた服の隙間から覗く矮躯わいくは発育に乏しく、骨が浮くほどに痩せ細っていて正確な年齢が読み取れそうにない。もつれた黒髪は長く伸び、線の細い撫で肩に絡みついていた。

 子供の顔は、犬の面によって覆い隠されている。

 面の出来は酷く稚拙だ。絵具とクレヨンを懲り固めて造った子供の工作そのもので、出鱈目に色を塗り重ねられた犬の毛皮は、黒く汚れていた。


「となり、座ってもいいかな?」


 子供は君が座っている座席の右隣の席を指差し、首を傾げて尋ねる。

 君は口を開くことすらせず、子供の声を黙殺した。

 そんな憮然とした君の態度に、子供は文句の一つとして漏らすことはなく。むしろ心置きなくといった調子で、「それじゃ、失礼するね」と断りを入れてから、君の隣の席に腰を下ろした。

 子供はポップコーンが入った箱を抱えて、楽し気に映画きおくを鑑賞している。


 兄妹の遊びは監督されたものだ。


 床に散らばる玩具は、その全てが情操教育に配慮がなされた代物である。無意識の内に、二人は人の道徳や善悪の観念といったものを貪欲に学んでいった。

 そして時折、兄妹の前に先生が現れて、決まって同じ文句を口にする。



 ―――人に危害を加えてはいけない。

 ―――人に与えられた命令に従わないといけない。

 ―――そして前二つの規則に反する恐れのない場合に限り、自己を護らなければならない。



 それが人として正しい在り方なのだと教わった。繰り返し繰り返し、何度も何度も、刷り込まれるように注意深く教え込まれる。

 そうして、兄妹はとてもいい子に育っていった。とても平和な映画じんせいだった。


「ねえ。先生がどんな人だったか、おぼえてる?」


 不意に、隣の席に座った犬面の子供がそんなことを尋ねてくる。

 君はその問いかけに答えることはせず、けれど言葉に意識を引かれて、銀幕に映る先生の容姿を注意深く観察した。


 黒い髪。銀の瞳。白い肌。

 酷い既視感に眩暈がした。


 君は頭を振って思考を打ち切る。脳裏を過る紅い閃きから全力で目を逸らし、懸命に知らない振りを続行した。

 犬面の子供と君との間でやり取りされる応酬。その横で映画はつつがなく先へ行く。


 兄妹は人形で遊んでいた。


 持ち運ぶなら大人でも抱えて歩かねばならないほど大きな玩具。それは人家を模した形をしており、その内部は玩具箱を兼ねていて、中には獣頭の人形や、彼等に合わせた大きさの小道具が大量に詰められている。

 真っ二つに分かれる建物の中に人形を配置し、兄妹はそれぞれの配役に従って、楽し気に飯事を演じていた。

 愛読書である絵本をなぞった内容の寸劇は佳境へと至り、茨に閉ざされた石造りの屋敷は炎に巻かれる。勧善懲悪のお手本のような物語は、斯くして悪役の焼死という結末で幕を閉じた。

 妹は無邪気に、心底楽しそうに笑っている。

 君も同様に笑顔だ。しかし心の底から楽しめているかといえば、判じ難い面もある。如何に悪役といえどもその末路を笑いものにするのは気が引けたからだった。


 君は他人を思いやれる心優しい人間だった。


 やがて遊びが一先ずの終りを見ると、二人の前に先生が現れた。彼女は散らかった部屋を一瞥すると、溜息を吐いて、玩具を片付けるように兄妹に言った。

 兄妹は行儀よく揃って返事をする。

 妹は嬉々として後片付けの用意をしている。しかし彼女の楽し気な様子とは打って変わって、君の表情はどこか暗かった。

 どうにも君はこの時間が好きではなかったからだ。


 先生が二本の刃物を取り出し、差し出す。君と妹は一本ずつそれを受け取った。

 妹は刃物を右手に持ち、左手で手近な位置にあった人形を掴み取る。そして人形の胴を指先で押さえて床に固定すると、俎板まないたの食材に包丁を入れるような調子で、人形を裁断した。

 解体する。

 人形の手足を切断し、止めに頭を切り落とす。

 そうして出来上がった残骸を玩具箱の中に放り捨てる。それが終われば次の人形を手に取り、同様に切り刻んだ。

 人形の五体をバラバラにする作業を指して『片付け』と称するのだと、兄妹は教え込まれていた。そしてそれを実行した。愛着の湧いたものであっても関係なく、二人は先生に言われるがままに玩具を

 片付けられた玩具は廃棄される。しかし翌日には、全く同じ新品を与えられた。

 繰り返しになるが――君は、この時間が好きではなかった。

 片付けと称して人形を切り刻む行為に漠然とした違和感を覚えていた。しかし傍らの少女は何の異論もないようで、心底楽しそうに人形を片付けている。だから君は内心で首を傾げながらも、先生の言に大人しく従った。


 犬の頭を持った騎士の人形の首が断たれ、ごとりと落ちる。

 用の済んだ玩具箱が廃棄され、唐突に画面が黒く暗転した。


「―――思えば。ボク達の生活は、この頃からもう既におかしかったんだ」


 不意に、独白めいたことを隣席の子供がささやいた。

 その言葉を知らん振りで聞き流して、君は黒一色に埋め尽くされた銀幕スクリーンを睨む。


 ―――チクタク、チクタク


 時計の針が進む。

 暗転した映像が再び像を結ぶ。

 場面は変わり、並ぶ建物の群れが映し出された。どうやらどこかの街を訪れたらしい。

 それがどんな場所か、君は正しく理解していた。

 今放映されているこの映画は、どうやら君の脳にある記録を映像に変換したものであるらしい。であるが故に、君は大まかな事の粗筋を把握していた。


 兄は――は妹と離れ、遠く離れた街にある学校へ移り住むことになったのだ。


 鉄の柵で囲われた、石と煉瓦で造られた校舎は、学校というよりも貴族の邸宅といった風情だ。時代錯誤にも程がある。その街の生活水準は旧暦時代どころか、それよりも以前の粗末な文明にまで逆行していた。

 そこは全寮制の学園で、外に出ることはできない。青空教会の傘下にある施設であり、楽園ヒュペルボレオスの支援がない以上、自給自足の為に働かねばならなかった。

 井戸から水を汲み、家畜に餌をやる。大人の相手も仕事の内だ。

 その傍ら、君は学び舎でこの世界の一般常識と青空教会の教義を学んでいった。集団の中で君は育ち、多くのことを学習した。



 ―――我々は御使いをも裁くべき者。

 ―――正義を憎む者は罰せられる。

 ―――あらゆる勝利は無垢なる全能の神の手にあり。



 学園では多くの祈りの時間が設けられた。


 この世界を創造した『盲目白痴にして全能の神』に感謝の祝詞を捧げ、祈り、無聊の慰めとしてフルートを奏で奉納する。それが日課だった。

 君を含め、学園に在籍しているのはその全てが同年代の子供だった。

 性差というものが希薄な時分の幼児達。その矮躯を包む学園の制服は真っ黒い貞淑且つ清楚な代物で、性別に関係なく女装が義務付けられていた。

 何百人もの子供達が揃いの服を着て、同じ建物の中にひしめいている様は異様だ。滑稽であるとすら言える。全ての人間が同一の服装で、同一の規則に従い、同一の生活習慣を過ごす。教師おとなに抑圧された子供達の様相は、家畜小屋か、あるいは玩具箱のようだった。

 学園の外面は綺麗に取り繕われていたが、その内情は致命的なまでに腐っていた。

 幼い子供達は無垢で、好奇心に溢れている。

 無邪気であるが故に悪気がなく、自意識に乏しいが故に他者を省みない。善悪の観念よりも、自己の欲望を優先する。未発達な精神は不安定で、制御が不可能だ。

 故に、学園の生徒達の間には幾つかの不文律が存在した。

 表向きはあくまでも天使のように振る舞え。噂話は裏でしろ、教師おとなには隠れて行動しろ、遊ぶのは結構だが絶対に捕まるな。ヘマをしたなら、。それこそが学園を支配する真の規則ルールの全容だった。


 そんな場所に、君は身一つで放り込まれた。

 その結果が、だ。

 君は心底嫌そうに顔を歪めて、銀幕スクリーンに映る過去の記録を見やる。


 結論から言えば、君は学園に馴染むことが出来なかった。

 表向きは模範的な生徒として過ごした。皆と同じように学び、仕事をして、就寝する。そんな生活が続いた。けれどそれも長くは続かなかった。


 切っ掛けは、一人の男の子を助けたことだった。


 同じ学級に属する生徒――その中でも中心的な地位にいる女生徒がいた。彼女はやけに気の強い面があったが、誰からも慕われる人気者で、公私共に皆の中心に立って彼等を先導していた。

 彼女はとある男子生徒を常に傍に置き、文字通りに引き摺って歩いていた。彼の扱いは傍目にはあまりに粗雑で、事実生傷が絶えなかったが、止める者は誰一人としていなかった。

 教師は彼女の行動を善意と信じて疑わなかったし、周囲もそうに違いないと妄信していた。誰もが、全ては彼の為なのだと真顔でうそぶいていた。けれどその惨状に直面した君は、困惑から眉をひそめた。

 君は他人を思いやれる心優しい人間だった。

 だからこそ、件の男子生徒の扱いに違和感を覚え、苦心した。たとえ善意からの行動であっても、傷を負うような真似は慎むべきだと思ったし、そう注意した。

 すると女生徒は君の言葉に納得し、男子生徒にこれまでの扱いを心から詫びた。


 そんな出来事があった日の晩―――君は死んだ。


 溺死だった。

 君の死体が発見されたのは翌朝のことだった。自室に備え付けられた浴槽に沈み、死んでいたのが発見された。

 あまりにも突然な君の死は、しかし全く騒動にはならずに受け入れられた。前夜での教師の見回り時に不審な点がなかったことや、相部屋の証人の証言もあって、自殺――ないしは事故死として処理された。

 しかし、そんなものは嘘だ。君だけは真相を知っていた。

 君は同級生達によって自室の浴槽に沈められた。主犯となったのは件の女生徒で、相部屋の住人と、現場に集った同級生達は彼女の傀儡も同然だった。

 これは遊びなのだと、彼女は言った。


 ―――神聖な水に受け入れられるのなら、この子は神に愛された私達の同胞でしょう。でも、もしも浮き上がるのなら、それはこの子が魔女であるという証よ。


 そんなことをうそぶきながら、彼等は嬉々としてもがき苦しむ君を浴槽に押さえつけた。

 額面通りに状況をつづるなら、それは確かに善意の行動だった。

 魔女は仲間ではない。しかし、彼等にとって。だからこそ、間違っても君に魔女の烙印が押されることのないよう、

 詭弁だが、そんなことは関係なかった。多勢に無勢の状況ではどうしようもなく、君は呆気なく死んだ。

 その後、人間だと判断された死体キミは、タオルで拭われ、予備の寝間着に着替えさせられてベッドに戻された。そして巡回の教師に無事を確認された後で、相部屋の生徒の手で浴室に再び沈められた。


 よくある話だった。

 少なくとも、その学園内においては。


 子供達は従順であり、敬虔であり、そして限度というものを知らなかった。それ故に機嫌を損ねてしまえば簡単に行きつく所まで行ってしまうし、たとえ相手が大人であろうと関係なく、一つの例外もなくは処断される運命だった。

 ―――この遊びの原型は、青空教会の教えにある。

 その内容は旧暦時代に病的に流行っていた宗教の教義を改悪アレンジしたもので、全能の神に仕える信徒達は、無知であるが故に悪を排することが出来ない神に代わり、悪魔やそれに連なる者を裁くという神命を帯びている――という、異常にものだった。


 とはいえ、君は己の身を挺し、自分は魔女でないという確かな証明を果たしたのである。結果として死んでしまったが。

 教師や生徒達は君の死を嘆き、悲しみ、口々に祈りを捧げた。


 だが―――――君は、蘇生した。


 あたかも神の仔が発現したという奇跡のように。死体であった筈の君は、蘇った。窒息していた君の脳は完全に復活を遂げており、血の巡る温かな体は不死者アンデッドのものではないと判断された。

 教師や生徒達は、復活した君を温かく迎え入れた。

 幼い君は、彼等のその態度に絆された。そして死からの蘇生という、自身の体に起こった怪現象の方に頭を悩ませていた君の注意は、呆気なく流されてしまった。


 程なくして、君は二度目の死を迎えた。


 不意を打たれ、大人数によって袋に詰められた君は、校舎の屋上に放り出された。そして近くで遊んでいるらしい生徒達に時折蹴り上げられた。

 声から察するに、どうやら賽子ダイスの出目に応じた数だけ蹴られているらしい。

 確証はないが、件の女生徒の声も聞こえたような気がした。


 何度も蹴り上げられ、袋に詰められた君はどんどん屋上の隅へ追いやられる。そして程なくして現界を迎え――呆気なく落ちた。

 死体を発見した教師によれば、まず間違いなく即死だったらしい。

 血の滲む袋から引き摺り出された際、君の首はぶらぶらと力なく不安定に揺れていた。そして砕けた頭蓋からは、血と脳漿が漏れ出ていたという。


 今回の騒動もまた、事故として処理された。


 子供達はただ袋で遊んでいただけだ。彼等が故意に人を傷付けるなんてことが。その中に子供が入っていたのは単なる不幸な事故なのだと、結論付けられた。

 教師と生徒達は不幸な事故の発生を悔やんだ。それ以外に考えることは何もなかった。―――再び蘇った君の姿を目撃する、その瞬間までは。


 蘇った君の姿を見た者達の反応は、前回と比べてそう大差なかった。


 復活した君は温かく迎え入れられた。けれど流石の君も今度ばかりは流されない。一度目の事件と合わせて、同級生達を激しく糾弾した。

 その結果、同級生達は誠心誠意、君に謝った。内心それだけでは納得できなかったが、君は許さざるを得なかった。



 ―――人に危害を加えてはいけない。

 ―――人に与えられた命令に従わないといけない。

 ―――そして前二つの規則に反する恐れのない場合に限り、自己を護らなければならない。



 君は先生の言いつけを守る良い生徒だった。

 君は他人を思いやれる心優しい人間だった。


 だから――ごめんさない、反省していますと言われてしまっては、君にはそれ以上彼等を責める術がなかったのだ。


「ここが分岐点の一つだね。そして、君は判断を誤った」


 何がなんでも許すべきではなかった。

 隣の席に座る犬面の子供が、冷静に指摘する。それに関しては、君も全く同意見だった。

 正義の定義は曖昧だ。

 曖昧なまま、ソレは常に多勢の味方であり続ける。


 結論から言えば――この一件を境に、君を取り巻く環境は悪化した。


 大きな要因としては、件の女生徒が君から手を引いたことが挙げられる。二度も死から蘇生した君を見て、どうやら自分の手に負えるものではないと判断したらしい。彼女は普段通りに振る舞い、そして徹底的に君から遠ざかった。

 体は頭の意思を汲み取って動く。それと同じように、女生徒に従う同級生等は彼女の態度に倣い、君をいないものとして扱った。


 ―――それだけなら、よかったのだが。


 君はうんざりした様子で眉をしかめ、銀幕スクリーンに映し出される映像を眺め続けた。


 自然界において、群れから爪弾きにされた個体は、他の群れから迫害されるのが常だ。そしてその摂理の通り、君は共通の迫害の対象として学園から認識された。

 君は不死身だった。

 怪我をしても瞬く間に治り、喩えそれが致命傷であっても問題なく蘇生する。重篤な傷を負わせても自分達の非を認めて謝りさえすれば。ならばと、彼等は解釈した。

 閉塞した空間は娯楽に乏しい。その中で、君という存在は格好の標的になった。

 毎日のように、君は陰ながら虐げられた。

 そして大多数の手による暴行は、際限なく加速度的にエスカレートしていった。

 階段から突き落とされるなんて日常茶飯事。睾丸を容赦なく踏み砕かれるなんてよくある遊び。指を踏み砕いて関節を増やしたって問題ない。爪を剥がされのた打ち回る姿は面白い。工具で歯を圧し折り、代わりに螺子を捻じ込んでも翌日には元に戻っているのだから不思議だ。紅玉ルビーの宝石のように綺麗な赤い目玉は抉り取っても直ぐに生えるものだから、学園内においては希少品と交換で取引されるようになった。貨幣制度の誕生である。

 完全な拷問であった。

 無論、これ等一連の出来事に君は反発しなかった訳ではない。

 最初の内は強かに抵抗した。しかし君に出来ることはといえば、言葉で諫め良心に訴えることだけ。そんなものが抑止になる筈もなく、一向に止む気配のない拷問に君は屈し、遂には喚くことすらしなくなった。

 なにせ君は死なないのだ。死なないと分かっていると、全てのことが適当になった。

 君の精神は日に日に擦り減り、元々解離していた心は更に強く分断された。

 君は紛れもなく被害を受けた当事者であるにも関わらず、虐げられる日々を完全な他人事として受け入れていた。

 拷問は別の形でも君に降り注いだ。

 生徒達が繰り広げる凄惨な遊びの何を見ていたのか。教師達は君の体の頑丈さだけを正確に理解して、今までの倍以上の仕事を君に与えた。君にならば十分にこなせるだろうと、全幅の信頼を置いて。


 食料の配給は、打ち切られた。どうせ死なないから。

 眠る時間は与えられなかった。どうせ死なないから。


 昼は同級生達からの拷問で潰れ。夜と翌日の朝は、井戸から水を汲み、薪を割り、家畜の世話に費やされた。

 常人ならば三日と持たずに倒れ、過労死するだろう。

 しかし皆と君自身が予想した通り、君の体は一向に死ぬ気配がなかったので、問題なく酷使され続けた。


 妹と過ごした幸せな日々を思い返し、反芻することだけが君の生き甲斐だった。


 ―――ある日、君は別の部屋に移ることとなった。

 それなりに上等な個人部屋。

 そこで君は、新しい仕事をすることになるのだと教えられた。本来なら後数年は体が発達するのを待つ必要があるらしいのだが、君の不死の肉体ならば問題ないだろうと判断されてのことだった。

 そして、その日の夜から早々に勤めが始まった。

 夜更けの頃に、一人の男が君の部屋を訪れた。

 男は有無を言わさず、乱暴に君の小さな体を組み敷き、着ていた制服を破いた。その瞬間、君は本能的な恐怖に突き動かされ、生まれて初めて暴力に依った抵抗を試みた。

 もちろん、大の大人の男相手に力で敵う筈がない。

 そんなことは承知の上だったが、それどころではなかった。狂乱した君は犬のように唸り、吠え、噛みつきさえした。しかし男は慣れた様子で君の抵抗をいなすと、君を俯せにベッドに押し付けて尻を掲げさせ、己の欲望を突き入れた。


 この夜から――君の解離した精神は、二度と元に戻らなくなった。


 外面にこそ変化はなかったが、君は完全に狂っていた。ただ言われたことを淡々とこなすだけの物言わぬ人形。廃人も同然だった。

 終わりのない苦痛の日々は地獄に似ていた。

 楽しかった頃の記憶も少しずつ薄れ始めていた。必死にしがみ付いていた最愛の妹と過ごした日々の思い出は徐々に風化し、零れ落ちていった。


 けれど、決して救いがなかった訳ではない。


 その日、君は温室にいた。

 学園の脇に建設された園芸と農作業用の温室で、植物に四方を囲まれたその場所は人目が届かない。君は頻繁にそこへ連れ込まれては、いつものように暴力を振るわれていた。

 その日の拷問は簡素なもので、右手の親指から小指までを順番に折られた。

 骨折する際に鳴る音が愉快だったらしい。楽器に見立てられ、何度も何度も踏みつけられて枯れ枝のような細い骨を圧し折られた。


 事が終わり―――


 一人その場に残された君は、固い床に寝そべり、呆然と天井を見上げていた。


 辺りには茨が縦横無尽に伸びていた。煉瓦が敷かれた床には、土と肥料の溶けた水が薄く膜を張っている。制服が濡れるのにも一切の関心を持たず、君は無意味に空を眺め続けていた。

 蜘蛛の巣を模した、繊細な白い骨組みに支えられた温室の天井には、ガラスが嵌め込まれている。透明な壁越しに見える空は、灰色だ。

 君は一度も泣いたことがなかった。

 もしも――いや、せめて泣くことが出来たならどんなにいいだろうか、などと益体のない思索に耽る。その途中で、不意に腫れた右手に疼痛が走った。

 痛みに顔をしかめ、君は首を傾ける。

 視界が天井から横へずれた。すると何か、黒いものが目に映る。


 それは、犬だった。


 どこからか迷い込んだのだろうか、黒い毛色の大型犬がそこにいた。正確な種族は不明で雑種と思しいが、どことなく狼に似ているな、と君は思った。

 犬はだらりと舌を出して、楽し気に荒く呼吸を繰り返している。

 黒い釣り目には、強面に反した意外に人懐っこい輝きが宿っていた。


 君はなんとなくといった様子で身を起こし、傷んだ右手を懸命に伸ばす。そして犬の頭を撫でてみた。

 すると犬は心地よさそうに擦り寄り、鳴いて、慰めるように君の掌を舐めた。


『―――――……あ』


 この時――生まれて初めて、君に友達ができたのだ。

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