第九話 カルティエという少女

 長く苦しい戦いだった。


「…………………………」

「もう、うごけないかも」

 ダイニングに設えられたソファにて、肘掛に全体重を預け、力尽きている者が二人いる。エドガーとシャーロットだ。

「まさか、本当に食べ切ってしまうとは……」

 驚き半分呆れ半分といった様子で、カルティエが机上を眺めている。

 ターンテーブルを占領していた満漢全席バイキングは事実上の壊滅状態にあり、ソースやドレッシングのこびりついた残骸さらが無残に積み重なっている。当然アラン達四人も多大な犠牲を払いはしたが、しかしそれは非の打ち所の無い完食であった。

 ちなみに犠牲となって戦線を離脱した順は、早々に力尽きたエドガー、出来るだけ粘ったカルティエ、腹八分目で切り上げたアラン、何も考えずに残った料理を全て口に放り込んだシャーロット、という有り様になる。

 こう表記すると食べ切れない量を用意したエドガーとカルティエが非常識であるように思えるが、そもそも満漢全席とは一日で完食するのではなく、数日間に分けて食べ切るのが通例なのだ。その辺りの事情を鑑みるならば、むしろアランとシャーロットの胃袋がおかしいのだと断定する方が賢明である。

「とりあえず、食器を片付けてしまいましょうか。……申し訳ないのですが、どなたかシャーロットの容体を見ていて頂いても?」

 言いながら袖を捲り、比較的軽傷のアランが食器類を回収すべく動く。しかしそれに、カルティエが待ったをかけた。

「あっいえいえ、私とエドガーでやっておきますからお二人は休んでいてください! 今日から同じ屋根の下に住むかぞ――同居人とはいえ、初日に無理はさせられませんから! ―――という訳でエドガー、貴方は食休みが終わり次第こちらを手伝ってくださいね!」

 言うが早いか、カルティエは素早くアランの脇を擦り抜けると、テキパキと手慣れた動作で食器を重ねてキッチンへ運んで行った。

 家主はああ言っていたものの、それはそれとして手伝うべきか否か。少しばかり逡巡しゅんじゅんしたものの、結局は好意に甘えることに決め、アランはシャーロットの前でしゃがみ同じ目線に立ってから声を掛けた。

「大丈夫か? ひどいようなら、胃腸薬を買ってくるが」

「うーん……いい。いま豆一粒でも口に入れたら、全部もどす……」

「わかった。じゃあ部屋に行くぞ。横になれば少しは楽になるだろう」

「や、吐かぬ。立てぬ。動けぬ。私はだっこを所望するなり」

「おんぶならいいぞ。ほら」

 言い、反転して背中を差し出す。シャーロットは緩慢な動作でアランの背中にべたりと張り付いた。

 シャーロットをしっかりと支え、ダイニングからオフィスへ、オフィスの扉を潜って廊下に歩み出る。その先にあるシャーロットの部屋へ辿り着くと、アランは彼女をそっとベッドに横たわらせた。

「俺がついてなくても大丈夫か?」

「うん……」

 枕に顔を埋め、シャーロットが眠たげに頷く。

 アランはシャーロットの顔に垂れる髪を後ろ側へ優しく撫でつけると、退室すべく開いたままの扉へ向かう。―――その途中で、部屋に入り込む黒い影の存在に気が付いた。

 影の正体はカルティエだった。

「どうかしましたか?」

「あ、ああぁ……ぇえと、その、いっ胃腸薬と水差しをお持ちしました!」

 アランに声を掛けられ、カルティエは何故か挙動不審気味に、手に持っていた胃腸薬と水差しを突き出した。

「ああ、ありがとうございます。手持ちがなかったもので、助かりました」

「……ッ! いえいえ、ストックはまだ幾らでもありますからお気になさらず! むしろ足りないものがあればなんでも言ってくださいね! ……っと、そうだ。シャーロットちゃんの容体はいかがでしょう?」

「ありがとうございます。良くはなさそうですが、まあ、明日になっても苦しいようなら病院に連れて行きますよ。……薬、ここに置いておくからな?」

「うん……」

 アランがベッドに連結した台――そこから生えるランプの根元に、胃腸薬の紙箱と水差しを置く。

「それじゃあ、今日はもうゆっくり休むんだぞ、シャーロット。……ああ、でもまだ暫くは起きておけよ? 食べてすぐ眠るのは消化に悪いからな」

「うぅ……睡魔の大軍相手に無双するのはキツいっす」

「がんばれ」

「ご無体なー」

 言って、嘆くように顔を枕に擦り付けるシャーロット。それも数ミリ程度前後するような蠕動ぜんどうじみたものだったが、直ぐにピクリとも動かなくなった。

 ドレスのままうつぶせに寝込むシャーロット。その背中に「おやすみ」と声を掛けてから、擦れ違いざまにカルティエへ会釈をし、アランは退室した。

「……あれ? え、えぇと……」

 戸惑った様子のカルティエが、扉とベッドの方へ、きょろきょろと忙しなく視線を走らせる。

 咄嗟とっさに会釈を返してしまったせいだろう。アランと共に退室するつもりが、完全にそのタイミングを逃した形だ。

(なぜなのでしょう、なんとなく部屋から出辛い気がします。どこかそんな空気を感じる――ええい、こうなればシャーロットちゃんと少しばかり世間話をしてから……いや、気だるい時には誰だって話しかけられたくないものですよね。やはり退室を……でもそれだと何でアラン君と一緒に出て行かなかったのかということに……ああもう、こういう場合って、一体どうすればいいんです!?)

 謎の強迫観念と残念な思考が頭の中でループを起こし、カルティエは途方に暮れる。そしてその場に何もせず留まり続けることが何よりの悪手だということに、本人は気付いていなかった。

 考えれば考えるほどに陥る悪循環。それは抜け道のない迷路じみたものであり、打開策などないように思われたが―――


「―――カルティエさーん?」


 傍らから、名前を呼ぶ声が聞こえた。

 振り向くと、仰向けに寝転がったシャーロットと視線が合った。彼女はチェシャ猫を思わせる笑みを浮かべて、片手で寝台を軽く叩く。

「いい機会だからさ、少しお話ししよ? ガールズトークっていうのかな。ほら、ここに座ってお気を楽にして、ね?」

「あっ、はい……それでは、失礼します」

 視線を彷徨さまよわせながら、カルティエはおずおずとベッドに腰を下ろした。

 しかしいきなりガールズトークと言われても、カルティエには振るべき話題がない。正確には、頭の中が真っ白になって見つけ出せなくなっているのだ。

 そんな彼女の心境を知ってか知らずか、シャーロットが積極的に話を振る。

「改めまして。今日はありがとう、カルティエさん。ごはん、美味しかったよ」

「いえ、どういたしまして。気に入っていただけたのならなによりです」

 僅かに顔を綻ばせて、カルティエが頷く。けれどその声音はやはり緊張の響きで張り詰めていた。それを耳聡く聞き咎め、シャーロットは目を細める。

「ところで気になったんだけど、どうしてカルティエさんは敬語で話すの? 私の方が年下だし、厄介になっている身分なんだし、もっと砕けた口調でいいよー。それとも気を使わせちゃってる、のかな?」

 申し訳なさそうに語尾をすぼませて、シャーロットが眉尻を下げる。

 カルティエは慌てた様子で、あわあわと頭を振った。

「そ、そんなことありません! これは気を使ってる訳ではなくて、ですね……なんというか、癖のようなものでして。私は元々、少々無礼気味な口調でしたから、それを矯正した結果、変に馴染み過ぎて外せなくなったといいますかッ!」

「そうなんだ。それじゃあ、エドガーさんと話してる時の方の口調がカルティエさんの素なんだね!」

「へっ!? いや、別にそういう訳では……!」

 別段、悪意を持って意識的に口調を変えている訳ではないのだと説明しようとするが、結局それが形になることはなかった。カルティエは無意味に口を開閉させて、最終的に視線を下げて黙り込んでしまう。

 その様子を黙って見守っていたシャーロットだが、不意にくすくすと鈴を転がすような微笑みを零した。

「ごめんね、少し意地悪なこと言ちゃった。でもね、きっとお兄ちゃんもカルティエさんと同じだと思うから、安心して欲しいの」

「私と、同じ?」

「うん。お兄ちゃんもカルティエさんと同じで、別段区別して口調を変えてる訳じゃないってこと」


 カルティエさんってさ、お兄ちゃんが私には砕けた様子なのに、自分には他人行儀で話すの、気にしてるでしょう?


 そう言われ、カルティエはたじろぐ。完全に図星を突かれたからだ。

 アランの態度そのものには文句はない。居候と家主の関係を考えれば、彼がへりくだるのは妥当だ。けれどあくまで、二人は同い年の子供である。それにしては、二人の間にある距離感は異様に遠く隔てていた。

 けれど、そんな所感はカルティエの錯覚に過ぎないのだとシャーロットは言う。

「私と、同じ……」

 噛みしめるように、カルティエはもう一度呟いた。

 俯き気味に固く硬直したカルティエ。そんな彼女の首筋に、不意に細い腕が絡みつく。

「しゃ、シャーロットちゃん!?」

「ふふふ、カルティエさんやわらかい。あったかいね」

 驚愕を露わにして瞠目するカルティエとは反対に、シャーロットは目を細めて妖艶に微笑を零す。

 シャーロットはカルティエを抱き寄せて腰を捻り、彼女の首筋に自らの顔を埋めた。触れ合う肌の隙間から、泡のように言葉が漏れる。

「カルティエさんは、こうやって触れ合うのはきらい?」

「う、いや、その……嫌ではない、です」

「よかった。やっぱりカルティエさんは善い人だね」

「善い人、ですか?」

 少女はきょとんと小首を傾げる。

 善い人――それはカルティエの人生において、最も無縁な言葉だ。少なくとも今まで生きた十六年もの月日において、彼女をそう讃える人間は一人もいなかったし、彼女自身、自分が善人であるとは微塵も思えなかった。

「私は、善い人ではありませんよ」

「じゃあ悪い人なの?」

 間髪入れずに尋ねられ、カルティエは目に見えて狼狽うろたええた。

「へっ!? いや、それは……―――はい。他の人々からすれば、きっとそうなのだと思います」

 あたふたと視線を彷徨わせ、最後には諦めて項垂れる。そんなカルティエの姿をシャーロットは間近で見上げていた。その瞳に宿る光はあまりにも真剣で、真摯だ。けれどその輝きが不意に和らぐ。

 シャーロットはカルティエから身を離し、腕組みして唸った。

「うーん……なんていうか、デジャヴ。たぶん、単に難しく考え過ぎてるだけなんだよね、こういう場合って」

 今度はうんうんと、一人で納得し仕切りに頷いている。

 まるで嵐のような少女だ。

 ついて行けずに取り残されてしまうカルティエ。しかし唐突に、彼女は再び渦中へと飲み込まれる。

「―――ズバリ当てます! カルティエさんはA型でしょう!」

 人差し指を立て、胸を張って得意気にシャーロットが言う。

 それが血液型を指したものだと気が付いて、カルティエは容赦なく頭を振った。

「いえ、AB型のRh-です」

「すご! 激レアじゃないそれ! ―――って、外れちゃったかぁ。残念」

 がっくりと肩を落として項垂れるシャーロット。けれどそれは一瞬のことで、次の瞬間には彼女は顔を上げて口元に笑みを湛えていた。

 ころころと華やかに表情を変えて、シャーロットは尋ねる。

「ねねっ、カルティエさんは血液型占いって信じる?」

「血液型占い、ですか? いえ……そういうのは、あまり」

 特に考えることなく、半ば反射的にカルティエは答えた。しかし直後に、それは失敗だったのではないかと危惧する。もしも目の前の少女が占いに肯定的だった場合、今の返答は相手の気分を害しかねないものだったからだ。

 しかし別段気を悪くした様子もなく、シャーロットはにへらと笑う。

「うん、実は私も占いは信じてないよ。人間の性格をたったの四種類だけで分類して当てはめようなんて、流石に無理があるもんね」

「ほっ……っと、いえ――はい。人間は沢山いて、その性格も多様ですから」

「うんうん。それなら、さ。星座占いはどうかな? 数は十二。血液型占いの倍以上あるよ?」

「えっ? いや、やはりそれだけでは流石に―――」

「じゃあ次は……うーん、トランプでいいかな。これなら組み合わせ次第で何通りでもいけるでしょ!」

 挑むように、元気良くシャーロットが主張する。

 彼女は『何通りでも』と曖昧な言い方をして濁したが、カルティエの脳には既に具体的な数字が算出されていた。占いの形式にもよるが、無作為にカードをシャッフルして上から一枚ずつ並べた場合、出来上がる組み合わせの数は優に臆を超える。

 それだけの数があれば、確かにその人の人となりや運命を表すことは可能なのかもしれない――一瞬だけそう思ったが、しかしカルティエは頭を振った。

「……やはり、私には信じられません」

 それがカルティエ・K・ガウトーロンの結論だった。

 別段、占いそのものに対して猜疑的な訳ではない。ただ何千年もの長い歴史を持つ人類なる種――数十年単位で生まれては消えていく生命の一つ一つを、カードの組み合わせだけで正確に言い表せるのかといえば、やはり母数が足りなさ過ぎると思ったのだ。

 その返答を聞いて、シャーロットは幾度も頷く。

「うんうん、そうだよね。私もだいたい同意見かな。じゃあ、次で最後だよ」

 前置きもそこそこに、シャーロットはかくりと首を傾げた。


「―――人間ってさ、善と悪の二種類で言い表せるものなのかな?」


 その質問は、あまりにも馬鹿げていた。けれどカルティエには、それを一笑に付すことなど決してできはしなかった。

 占いの信憑性と善悪の判断とを、同一の問題として語るべきではない。

 けれど―――

「『パターンが少ないから、占いはその人の全てを言い表せるものじゃない。そんな結果信じられない』……というのなら。そもそも善悪だけで人の全てを言い表そうとするべきじゃないよ。だって、説得力がないもの」

 統計学を重要視し、数の多さにこそ情報データとしての価値を見出すのなら。二元論の矮小さに眩暈を覚えて然るべきだ。だというのに、滑稽にもその事実に気付く人間は少ない。

 誰も彼もが、嬉々として他人を善人か悪人に仕立て上げようとする。

ね。さ、カルティエさんは悪い人じゃないと思う。綺麗で、お料理が上手で、とっても優しいお姉さん。それがカルティエさんなんだよ?」

 シャーロットが両腕を広げる。

 まるで、遠く離れていた家族を迎え入れるように。


「貴方は自分を善い人じゃないって言う。きっとそう。

 私は、貴方は悪い人じゃないって言う。絶対にそう。

 でも、善きも悪しきも関係ない。だって貴方は私の好きな人。だからさ、なーぁんにも遠慮なんかいらないんだよ」


 何ら臆することなく、シャーロットは堂々と言い放った。

 彼女の言葉は、稲妻のようにカルティエの脳を震撼させていた。目尻が熱くなり、指先が震える。胸の中に温かいものが満ち、衝動となって溢れ、両手を宙に彷徨わせた。

 シャーロットは満面の笑みで首肯する。

「―――――っ!」

 此度はカルティエの方から、シャーロットに抱き着いた。細い背中に腕を回して、首筋に顔を埋める。その白い背中を、黒いドレスの袖に彩られた腕が覆った。

 抱擁は、温かく、柔らかい。

 心が落ち着き、満たされる。それはカルティエにとって初めての感覚だった。ただただ、腕の中の存在が愛おしくて仕方がない。

「甘えん坊さんだ。よしよし――と、言いたいところなんだけど。ちょっとキツい、かな? カルティエさん、少し緩めて、ちょっと口から溶解液が出そう」

「す、すみません! そういえば食休み中でしたね。配慮が足りませんでした。それに逆に気を使わせてしまって、申し訳ない……」

 しょんぼりと顔を伏して、カルティエはだって己の不始末を嘆いた。しかしシャーロットの背に回した腕は完全には解いていない。そのいじましさに、シャーロットは笑みを深くする。

「いいよいいよ、気にしないで。でも私はこれからちょっとおねむの時間なので、シャーロットイベントはこれで終了。しばらくお預けね。次のイベント発生時間まで、カルティエさんは別の人と親睦を深めるとよいでしょう!」

 明日の天気でも告げるような調子で言い、シャーロットは勢いよく布団に寝転がった。

 戸惑うカルティエを仰向けの姿勢で見上げ、シャーロットは言う。

「ほら、お兄ちゃんが他人行儀で話すの、気にしてたでしょ? 良い機会だから、このまま勢いで突撃してみればいいんじゃないかなぁ。ラッキーアイテムはお酒! お兄ちゃんはアルコールが入ると饒舌になるから、きっと上手くいくよ!」

「は、はい……! 不肖ながらこのカルティエ、がんばってみます!」

 ロボットのようなぎこちない動きで立ち上がり、部屋を出ていくカルティエ。その後ろ姿を、シャーロットは親指を立てて見送った。

 白い背中が、ドアの向こうに消える。

 それを見届けてから、シャーロットはベッドの上を転がった。俯せで枕に顔を押し付け、先程の出来事を思い出す。

「―――可愛いかったなぁ、カルティエさん」

 まるで、初めて会った頃のお兄ちゃんみたい。

 緊張し、不器用に空回りしているカルティエの姿――それをかつてのアランと重ね、シャーロットはくつくつと忍び笑いを漏らした。


 それは実に、単純な話。

 彼/彼女は誰かと仲良くなりたくて――しかし、その方法を知らなかったのだ。


 * * *


 カルティエは自己紹介をする時、意図して自らの性を名乗らない。

 それは偏に周りへの配慮であり、自らの心身を護るための保身でもあった。


 カルティエ――本名をカルティエ・クルーシュチャ・ガウトーロンという。


 犯罪者ガウトーロン公務員クルーシュチャ――その代名詞たる姓。通常ならば到底有り得ない組み合わせのソレが意味するのは、即ち略奪と凌辱だ。


 今から十六年ほど前――カルティエの実母ヴュアルネ・クルーシュチャは、学生の身分でありながら卒業を待たずして、その胎に子を宿した。


 相手はホァン・ガウトーロン――トライアドの次期龍頭ボスと謳われた男だ。

 その経緯から、望まれた子であったかどうか答えることは難しい。その是非を問うべく、方々で論争が巻き起こったのだが――そのいさかいに決着がつくよりも前に、ヴュアルネは出産の時を迎えた。そして産まれた子がカルティエだった。

 それによってホァンはクルーシュチャ一族と親類になり、その権威で以ってトライアドにおける自らの地位を揺るぎないものにしたという。

 全てはそのための布石だったと、誰もが信じて疑わなかった。そしてそれは、カルティエとて同じことだ。


 気が付いた時、カルティエは既に孤独の只中にいた。


 差別はなく、迫害はなく、誰からも好かれず、何をしても持てはやされず。

 そういうものに彼女はなっていた。そしてその理由を『誰か』に尋ねた時に聞いたのが、件のあまりにも醜悪な事実だった。

 その時に限っては誰も彼もが色めき立って饒舌に、母の不幸と父の成功を謳ったのを覚えている。

 人の口に戸は立てられず、しかし風聞は須らく壁となって立ち塞がる。だからカルティエには、ずっと独りで在り続ける他に道はなかった。


 ヒュペルボレオスには、オルガン・アカデミー以外の養育機関は存在しない。


 そしてオルガン・アカデミーへの入学が許されるのは、義務教育を修了した十六歳以上の者のみなのだ。それ以外の住人は、一定の年齢に達した時点で、一切の例外なく親元を引き離され福祉施設に預けられる。

 それは次世代を担う子供達に異常な思想を植え付けられぬようにするための、絶対的に必要な措置だ。故に施設――旧世界での呼称に倣い、俗に小等部や中等部と呼ばれる――での生活は全てマニトゥによって全面的に監視され、教諭や生徒の不適切な行為はことごとく排除される。

 当然ながら生徒達はその期間中、完全な寮生活を送ることとなる。外出には特別な許可が必要だし、親元への帰省などは以ての外だ。

 逃げ出せぬ監獄。鬱屈とした花園。

 それがヒュペルボレオスにおける青春の全て。それを幸と取るか不幸と取るかは当人次第だが――しかし、そこに数少ない例外が存在していた。

 カルティエは実家ないし、自営の事務所から小等部・中等部に通っていた。それを実現させたのは彼女の親族の意向であり、威力であった。


 明らかな特別扱い。

 けれど――直接、何かを言われたことはない。


 悪口はなかった。陰口もなかった。

 いじめなどありえない。殊更一人だけ取り残されることもなかったように思う。だがそれでも――カルティエには、友達がひとりもいなかったのだ。

 そして、彼女をずっと雁字搦めに縛り続けている呪いがもう一つある。

 それは幼い時分に実施された、心理学に由来する臨床試験。その結果を、マニトゥは至極端的に一言でこう表現した。


『―――どうやら、君には人の心が分からないようだ』


 以来、彼女は本当に他人のことがちっとも分からなくなってしまった。


 居場所がない。

 どこにもない。


 最も親しいと思える人間――エドガー・ボウ。彼ですら、カルティエを畏れている。

 だからカルティエは、人と何をどう話せばいいのかすらよく分からない。

 どうすれば人の気分を、それが永遠の命題だった。

 探求の道はあまりに険しく、何度間違えてしまったか、その数は知れない。数知れないほどに、自分は傷付けられてきたし、きっとその度に誰かを傷つけてしまった。―――だからカルティエは、自分は善人ではないと確信している。

(……シャーロットちゃんは、善い娘です)

 初対面の自身を冗談めかして姉と慕い、自然体で接してくれた少女。終始笑顔でご飯を食べていた彼女。こんな自分を、朗らかな笑みで抱き締めてくれた愛しい娘。その姿を思い出して、カルティエは微笑む。

 まるで、本当に妹が出来たかのような――そんな心地。

 故に、カルティエは望む。


「―――――アラン君。少し、いいですか?」


 丸みを帯びた酒瓶を掲げ、横から声を掛ける。

 応接室の壁に寄りかかり、携帯端末を弄っていたアラン・ウィックが顔を上げる。彼は笑顔を浮かべて、はい、と答えた。

 その笑顔カタチは、施設時代に飽きるほど見た無機さほほえみを湛えていた。

「これ、自家製の果実酒です。一杯どうですか?」

「良いのですか? ありがとうございます」

 携帯端末をポケットに仕舞いつつ、アランはカルティエが差し出した二つのグラスの内の片方を受け取る。

 カルティエはまずアランのグラスに酒を注ぎ、次いで自分のグラスに向けて酒瓶の口を傾けた。


 ヒュペルボレオスにおいて、飲酒や喫煙は原則として禁止されている。


 現代においては酒や煙草は完全に麻薬の一種として分類されており、不正な取引や使用は一切禁止されている。しかしその一方で医薬品としても扱われる側面を有しており、医師や行政の許可が認められた場合は薬として処方される。診断書等があれば薬局で購入することも可能だ。

 総じて、許可さえあれば比較的安易に入手できるため、酒や煙草は麻薬として定義されつつも、嗜好品としてヒュペルボレオスの文化に深く浸透している。

 ちなみにカルティエは薬剤師としての国家資格を有しているため、在宅医療の名目で自宅での酒類の調剤を認可されている立場だった。

 乾杯、とグラスを打ち合わせ、二人はほぼ同時にグラスを呷る。

「んぐっ」

 瞬間、アランが苦悶にも似た声を漏らした。

「……甘いですね」

「あー……林檎酒に蜂蜜を加えたものですから、確かに甘党でないとキツいかも……すみません、お口に合わないようであれば無理に飲まなくても―――」

「―――いえ、大丈夫です。慣れれば、これはこれで」

 ちびちびとグラスに口を付け、満足そうにアランが頷く。その様子を見やって、カルティエはほっと胸を撫で下ろした。

「うん、甘い。シロップみたいだ。これはシャーロットが気に入りそうな味です」

「そう、ですか? では、今度は三人で飲みましょう! まだまだストックがありますから!」

「ええ、その時は是非。きっとあの娘も喜びます」

 そう言って、アランはグラスを揺らす。

 旋風が走ったように、水面が不安定に弧を描いて回る。アランはその様子を楽し気に眺めていた。

 互いにグラスが空になるまで沈黙する。

 カルティエは自身とアランのグラスに酒を注ぎ足すと、やがて意を決したように新たな話題を切り出した。

「……アラン君も、オルガン・アカデミーに入学するのですよね。それも私と同じ学部に入って、同じ委員会に所属して」

「そうですね、そのように聞き及んでいます。貴方と私は目指すものが同じだと。一定期間以上、講習と職業訓練を受けること――それがカチナドールとして特務機関『ココペリ』に配属される為の必須条件とのことですから、ね」

 言ってアランはもどかしむように顔をしかめ、グラスを握る手に力を込めた。


 ヒュペルボレオス国家公務機関――通称、カチナ・オルガン。


『ココペリ』とは、それが有する組織の一つである。

 主な業務内容は諜報活動や対反乱作戦などであり、その素性は俗に言う公安警察に分類される。更には軍事組織としての一面を持ち、通常の警察組織では対処できないような事件に対しても出動する法と秩序の要だ。

 その職業柄、就業者には高度な才能と智識と戦闘力が要求されるのだが、それ以上に落命者の数が多いため慢性的な人手不足であるという。

 ヒュペルボレオス唯一の養育機関であるオルガン・アカデミーでは、当然そこに就職可能な人材の育成を行っている。しかし『ココペリ』が取り扱う事案の特殊性と秘密保持の観点から、教育の現場や課程、組織すらそのほとんどが一般には知らされておらず、彼等が何処で何を学んでいるのかすら公にはされていない。故に、先天的資質とマニトゥの意志によって進路を左右されるヒュペルボレオスであろうとも、所属する生徒の数は極端に少なかった。

 しかし命の危険を伴う分、福利厚生に抜かりはない。給金は多額であり、死後も遺族の生活が保障される。ココペリへの就職を志す学生には、無償の奨学金が支給される仕組みだ。

「……私はあの娘を――シャーロットを幸せにしてやりたい。これまでの不幸を帳消しにできるとは思わない。ただ、人並みの幸福を与えたい。だからは、ココペリに入って国家の奴隷カチナドールになる道を選びました」

 それはある意味で、ありふれた理由であったのかもしれない。

 家族のために、自分を犠牲にする。文字通りの自己犠牲だ。出会ってから数刻も経っていないカルティエでさえ、彼の言葉の裏に隠れた覚悟を確信する。


 目的シャーロットの為なら死をもいとわない――それは、そういう言葉ひょうじょうだった。


 そしてその眼が、赤い瞳が、カルティエを見やる。

 君はどうしてと、問いかけていた。


 それは挑発だったのかもしれない。あるいは忠告だろうか。

 お前にその覚悟があるのかと、暗に問うている。しかし、そんなことはカルティエにとって


 死をも厭わない――その姿勢が、ただただ


「―――ちょっと、こっちに来てもらえますか?」

 一気にグラスを呷って空にすると、傍にあったテーブルに酒瓶共々荒々しく置くや否や、アランの手を引いて歩き始めた。

 アランはされるがままに彼女の後について行く。

 廊下を通り、控室を横断し、階段を降りる。そして不意に踊り場で足を止めた。

 金属製の縁で四角く区切られた空白スペース。そこには摘みのようなものがあり、それを押すことで裏側に仕込まれた取手が反転して出てくる仕組みのようだ。

 恐らくは極小規模な地下倉庫だろう、とアランは当りをつける。

 カルティエが取手を掴み、扉を引き開ける。するとそこに姿を現したのは、アランが想像していたものから大きく乖離かいりした代物だった。

 そこには真下へと伸びる空洞があった。

 等間隔に照明が用意され、同様に昇降用のタラップが設置されている。感覚的にはマンホールの中が近いだろうか。それはどことなく秘密基地という単語を思い起こさせる造りだった。

「来てください。入り口は閉めなくても結構ですよ」

 言いつつ、カルティエはタラップを使って降りていく。

 アランは彼女の後を追い、同様の手段で底まで降りた。距離は五メートル程度だろうかと、心中で大まかに測る。

 四角い空間の一面は、その一部が切り取られていた。そこは真鍮と赤胴を主体とした枠に縁取られており、一階の展示スペースに近い造りをしている。

(この臭い……)

 途方もない鉄気が鼻孔を満たす。その正体を見ようにも、空間全体が濃密な闇に満たされていて、少しも様子が伺えなかった。

「エドガーや配下の人間以外をここに入れるのは、貴方が初めてです」

 そんなことを言いながらカルティエは慣れた様子で闇の中を探り、手近な壁にあった電灯のスイッチを入れる。―――瞬間、アランは目を見張った。

 そこにあったのは工房だ。

 鋼を造り、組み立てる。それだけのために用意された巨大な施設だ。

 空間自体は一階よりも広い。しかしそれ以上に物で溢れている。試作品と思しきもの、工場に並んでいそうな、機械群や天井から下がる電動の起重機クレーン。工具と図面に埋め尽くされた作業台達。あるいは代物まで、ありとあらゆる叡智で溢れていた。

 中でも目を引くのは――中央に安置された、巨大な二輪駆動車ガーニー・バイクだ。

 素体ベースとなっているのは旧暦時代にあった競技用バイク――その中でも『ただ何よりも速く走る』ことに特化した機体。しかしそのサイズは一回り以上大型化され、その内部骨格フレームは、赤胴や真鍮に似た色合いの合金に置換されている。そしてそれ等を覆うのは、闇に溶ける黒夜鷹ウィップアーウィルを思わせる漆黒の外装だ。

 元来からして百四十馬力を誇るその傑物だが、搭載されたエンジンは現代に合わせて蒸気機関スチーム・エンジンが選択されている筈である。永久機関という新たな心臓を得たソレが打つ鼓動、そこに秘められたポテンシャルは完全に未知数だった。

「ここにあるもの、そして一階にある商品。その全てを私が造りました」

「君が……?」

 呟き、同時にアランは思い出す。

 一階に展示されていた商品には、開発元を示すロゴタイプやマークが一切なかった。これが意味するのは、それ等が盗品であるか、あるいは―――――


 ―――――個人が制作した、完全な趣味の逸品であるかだ。


「私は創る。私は活かす。私が創る全てのものは活かされる。―――私は、偉大なる一族クルーシュチャだ。その名を背負うに能いする全てを、既にこのに宿しています」


 驚き瞬く赤い瞳を凝視して、カルティエは固く拳を握り締める。

 そこに先程までのな色はない。彼はただひたすらに、カルティエが放つ熱量に圧倒されていた。

 カルティエは人との接し方が分からない。

 だが、助け方は知っていた。怒り方は知っていた。かつてエドガーを血生臭い泥沼から引き揚げた、その方法しか知らなかった。


「だから私は、私の総てを以ってして貴方を護ってみせる。生かしてみせる。そして、シャーロットちゃんと二人で幸せになってしまえばよろしい!」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る