その22
簿記はとにかく仕訳だ。仕訳さえ切れれば、決算書は流れで完成させることができる。勘定科目を覚え、電卓を叩いて金額を算定する。この仕訳をいかに早く切れるかが、簿記受験の
僕は仕訳カードをめくりながら、夜道を歩いていた。街灯から離れると手元が暗くなり、カードの文字が読めなくなる。そのまま歩き続けて行くと、また次の街灯が近づいてくる。文字が読めるようになってきた。そこで僕は足を止めた。
黒い影が伸びていたのだ。変態タイツ男が三人、横一列に並び、道を塞いでいる。
「来いよ。俺とぼっきしよう」
「ぼっきしようよ」
「ぼっきは楽しいよ」
タイツ男たちが右手をくいくいして、なんか誘ってくる。みな同じ動きで、連動していた。
「未払金と未払費用の違いについて話そう」
「話そうよ」
「呼び覚まそうよ」
タイツ男たちが、にじり寄ってくる。突然の増殖に、僕は無言で振り返り、駆け出した。
「待てよ! ぼっきしようよ!」
「ぼっきしないのかよ!」
「したほうがいいよ!」
「お前らなんで増えたんだよ!」
僕は逃げながら叫んだ。
「端数利息を計算しようよ」
「西向くサムライ、覚えようよ」
「二・四・六・九・一一月だよ」
「もう覚えたよ、うわぁぁぁ」
捕まりそうになって僕は転げ落ちた。
「わっ」
目を覚ますと、リビングの床に転がっていた。ソファから落ちたんだと、気が付いた。
しばらく放心状態になる。心臓の音が耳に届くくらい騒がしかった。
「……夢かよっ」
なんて気味悪い夢だ。簿記と変態に追いかけ回されるなんて。
まもなく記憶が次第にはっきりしてきた。昨夜、帰宅した僕はリビングで勉強を始めて、どうやらそのまま寝落ちしてしまったらしい。机の上に電卓と簿記の教科書が残っている。床にも仕訳カードが転がっていた。
「おはよう。九ちゃん」
姉の足音が近づいてくる。僕はゆっくりと身を起こした。
「布団で寝ないと疲れが取れないよ。私いまから仕事だから、今日の晩ご飯よろしくね。肉じゃがで。あと、デザートのプリンも買ってきてね」
「分かった」
うなずいて、姉の背中を見送った。
玄関ががちゃんとしまった後、僕は首だけ動かして時計の針を確かめた。
まだ朝の八時だ。締め切ったカーテンの向こうから、鳥のさえずりが聞こえてくる。
ソファに座り直して、とりあえずテレビを付けた。今日は土曜日で、学校もバイトもない。一日フリーの日だ。僕はまた眠ろうかなと思って、ソファに寝転がった。いやでも、起きないと昼まで眠ってしまいそうな気もする。確実に、そうなる。どうする自分。そんな葛藤が始まる。休みだからと言って、勉強しない訳には行かない。試験日まであと二ヶ月ないのだ。お店の手伝いも、やることは幾らでもある。妙子たちだって集客で動いてくれている訳だし。怠惰を貪っている場合じゃない。お店に顔を出して掃除の手伝いでもした方がいいに決まっている。だけどこのソファなんか気持ちよすぎる。人生をダメにするソファだ。気持ちよすぎる。
そうだ。瞑想しよう。四時間くらい瞑想しよう。
僕は目をつむった。
意識が飛びそうになったところで、机のスマホが、激しく震えた。
「え、なに? 西恋寺さんからだ」
チャット電話に出て、僕が言った。
「んー、もしもし」
「九くん、朝からごめん」
「いや大丈夫だよ。寝てないよ」
「あのね、私の家に来ることってできる?」
「西恋寺さんの家に?」
「うん。お母さんに会って欲しいの」
「えっ? お義母さんに?」
眠気が吹き飛んだ。
「もう一度、聞くけど、お義母さんに会って欲しいってこと?」
「そう。お母さんに。大切な話があるから」
僕は立ち上がった。どういうことだ。いきなり、母親に会って欲しいなんて。
早すぎないか?
「だめ?」
「いやいや、全然大丈夫だよ。すぐ行くよ。あでも、いま起きたところだから、九時なら」
「問題ないよ。私もお店行くの九時半くらいだし」
「分かったじゃあ、九時に家に行く」
「うちの住所はチャットするね。詳しい話は来てからで」
そう言って会話を終えた。僕は急いでシャワーを浴び、皺の目立たない服を乾かしてから、部屋を後にした。
なんてこった。これは一大事だ。
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