その13

 次のお店は商店街の中にある、小さな個人経営のお店だ。

 だいぶ歳のいったお婆ちゃんが一人で切り盛りしている。


「僕さー、お腹が膨れ気味なんだけど」

「いけるっしょ」と正面の妙子。

「じゃあ半分こしようよ」


 妙子の隣に座っている西恋寺さんが、ふと、そんな提案をする。


「お婆ちゃーん。取り皿一つもらってもいいですか。分けたくて」

「はいよ」


 四人掛けのテーブル席でお婆ちゃんが注文を受けてくれる。

 僕らが注文を頼むと、お婆ちゃんは手に持った鉛筆と紙の伝票を使って、それらのメモを取っていく。随分、アナログなお店だった。


「西恋寺さん、このお店知ってるの?」

「子供の頃から来てたよ。ね、お婆ちゃん」

「大きくなってねー。愛絢ちゃんが五歳の頃から知っとるよー。ふぉっふぉっふぉ」


 どうやら顔見知りのお店らしい。僕ら以外にお客さんの姿はない。がらんとした十八席の店内では、やはりテレビが放送されていた。


 僕はメニュー表を開いた。このお店ではメインのとんかつ定食が六六〇円で提供されている。大手でもないのにずいぶんと良心的な価格だ。とんかつあぁやが、いまのところ一番高い。


「はい、どうぞ。定食二人前ね。取り皿これね。あとお漬け物とお味噌汁も」


 十分くらい待って、注文が運ばれてきた。時間は要したが、几帳面に盛りつけされている。


「このお店、ほんと美味しいんだよ」

「肉が分厚いね。キャベツも盛り盛りだし」


 僕はそのボリュームに驚く。


「このお味噌汁も美味しいんだよ。お味噌汁はあげるね。ご飯を取り皿で分けて、とんかつは半分こで。小さい頃にね、こうやってお父さんとお店に来たら一緒に分けて食べてたの」

「それで取り皿を頼んでたんだね」

「そうなの。昔は良く来たなー。私の好物がとんかつだったから」


 それは初耳だった。とんかつが好物、と僕は心のメモ帳に書き足した。


「もしかして西恋寺さんのお店って……」

「あ、気づいた? そうなの。私がとんかつ好きだったから、お父さんが始めたんだよ」

「絢ちの父ちゃんって変わってるよね」


 妙子がお箸を三人分配りながら、そう言った。


「娘の好物で飲食店やらんだろ普通。単純というか、娘が行動原理っていうかさ」

「うーん、変わってるのは否定できない」


 西恋寺さんが認める。そして無邪気そうに歯を見せて笑った。


「今ごろどこにいるんだろね。お店が大変だって言うのに」


 そんな話をしつつも、取り皿にご飯を分けてくれる。

 僕は胸がどきどきしていた。だって一つの定食を女子と分けて食べるのだ。こんな体験、生まれて初めてだ。妙子に目を配ると、鋭い視線で、睨みつけられていた。

 胸のどきどきが、急にばくばくに変わった。夜叉みたいな面構えで、じっと見てくる。


 こんな体験、生まれて初めてだ。


「……ごめん」

「どうしたの鳥羽くん? なにか悪いことでもした?」

「いいんだよ西恋寺さん。とりあえず、ごめん」


 西恋寺さんが首を傾げる。不思議そうに妙子の方へ視線を送ると、妙子の表情がぱっと軟らかくなる。天使みたいな表情に早変わりした。


 この女は怖い。僕は今日、それを教え込まれた。


「にしても、勝てないよねこの味とさ、価格だと」箸を咥えながら、妙子がつぶやく。

「味は負けてないと思うけどなー。価格がなー」


 その点については僕も同意だった。大手は価格が安い分、効率化に力を注いでいるし、肉の厚さを節約したりと工夫が見られる。だけど、このお店は肉厚のとんかつを低価格で提供している。見ての通り効率的に運営されている訳でもない。お客さんも少ないし到底、利益が出ているようには思えなかった。この安さの秘訣はいったいなんだろう。


「お婆ちゃん、どうでっか? 儲かってまっか?」


 妙子が謎の関西弁でお婆ちゃんに尋ねた。


「儲かってないよ。昔ほどはね」


 お婆ちゃんがカウンターの向こう側から答えた。店内が狭いので、どの席に座っていても会話ができる。妙子がさらに尋ねた。


「このお店は何年くらいやられてるんですか?」

「もう五十年目かね。父の代からやってたよ。その後、兄が引き継いで、そしてあたしの番」

「半世紀も! お婆ちゃんいくつなんですか?」

「今年で八十五」

「すごーい。生涯現役、元気もりもりですね」

「辞めようと思ってるんだけどね、なかなか辞めれないよ」

「辞めたいんですか?」


 妙子が聞いた。するとお婆ちゃんが「そうねー」とため息交じりに答えた。


「働いてる方が好きかもね。身体が動くうちはやろうかなと思っとる」

「それがいいです。あたしのひい婆ちゃん、老人ホームに入ってなんかボケて来たし」

「身体動かしてるとボケてる暇ないよ。うちの亭主も退職して近所の連中と麻雀してるよ」

「ここに住んでるんですか?」

「そう。この二階。亭主と二人で。持ち家なの。もう近頃は階段上るだけで、一苦労」


 話かけると、何でも話してくれそうだ。僕も質問してみた。


「持ち家ってことは、このお店の家賃もかかってないんですか?」

「かかってない」お婆ちゃんが首を横に振る。

「ローンも払い終えた。そろそろ修繕が必要だけど、息子夫婦は大阪に行ったからね。誰ももらってくれやしないよ」


 なるほどと僕は思った。家賃代がかかってないなら、販売管理費が安くて済む。


「このお店って、お婆ちゃん一人でやってるんですよね?」

「そうだよ。全部、私がやってる。帳簿も付けてるし、全部やってる」

「お給料とか、どうしてるんですか? ちゃんともらえてます?」


 妙子が踏み込んで質問する。


「そんなほど儲かってないよ。昔はそれなりに、だったけど」

「じゃあ食べて行けないんじゃ」

「稼ぎだけじゃね。私は国民年金もらってる。んで亭主が会社勤めだったから、そっちの年金でやりくりしてるよ」


 夫婦ともに年金暮らしだった。僕は頭の中で改めて電卓を叩いた。家賃がゼロ、人件費も仮にゼロだとしたら、この定食の安さの説明が付く。とんかつあぁやでは家賃が月一四万五千円かかっているし、人件費に関しては売上の三割以上は発生している。お店の場所だって、このお店みたいに駅近の商店街の中でもない。これじゃ、ますますこちらが不利じゃないか。


 とんでもないチート経営に、僕は衝撃を覚えた。


「私そろそろ戻らないと」


 スマホ画面を確かめて、西恋寺さんが言った。


「あたしも。夕方から塾あるから、課題やらないと」


 お茶を飲み終えた妙子がその後に続く。


「西恋寺さん。じゃあ僕もお店手伝おうか」


 西恋寺さんの力になりたくて、僕が申し出た。

 本当のことを言うと、もっと西恋寺さんと一緒に居たい気持ちもある。


「えっとね、どうしよ。まず働くにもタイムカード切れるようにアカウントを作らないと行けないし、来週から開始がいいかも。日曜日にアカウント作って、あと経理の人に伝えて、入社の情報とかたぶん教えてもらう必要あるから」


 妙子が僕の肩に手を乗せた。


「九っちはさ、簿記部にその決算書とか聞くんでしょ。あとHPのこととかお姉さんに教えてもらったりあるから、今日は帰りなよ。今日、あたしらと話したことスマホにメモしてあるから、あとでメッセージ送る。それをまとめて欲しいな。だからLINE教えて」


 妙子の目は笑っていなかった。その瞳の奥に鬼みたいなものが見え隠れする。二人きりを許さないオーラが滲み出ていた。


 三人でLINE交換を済ませる。


『あたし、柔道やってたから。あまり怒らせない方がいいぞ(笑』


 最初に届いたそんなメッセージと、ちびかわの笑顔のスタンプ。その辺のB級ホラー映画に登場する怪物より怖かった。


「西恋寺さん。僕も帰って作戦を立てることにするよ。この申告書もっとよく見たいし」

「分かった。じゃあ月曜は鳥羽くん学校だから、火曜日から頑張ろうね」

「うん。明日もお店に顔を出すよ。あと、この申告書の前期分も探しておいて」

「オッケー。家に帰ったら探しとく。見つかるかな」


 そうして僕たち三人は、別々の道で別れた。

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