その37

 門扉を通り抜け、立派な庭を横切る。大きな桃の木が育ち、足下には色とりどりの花が咲いている。まさか、こんなにも早く西恋寺さんの家を再訪問することになるとは、思ってもなかった。西恋寺さんの背中を追いかける形で、僕は西恋寺家の玄関をくぐった。


「お邪魔しまーす」


 入室すると、やはりいい匂いが立ち込めていた。西恋寺さんの匂いリメンバーだ。そんな舞い上がりそうな気持ちもつかの間、周辺の空気が一気に張り詰めた。まるでダンジョンのボスがいる扉の前にたどり着いたときのような心地がする。階段を上った先に、ボスが待ち構えているのは間違いない。僕たちは階段を上って、西恋寺ママの部屋にお邪魔した。恐ろしい扉を開いて、絨毯の敷いてある場所にまで歩いていく。西恋寺ママが栄養ドリンクを片手に待っていた。反対の手に視線を向けると、キャッシュカードも握られている。


「はい、これ。二八〇万引き出して」

「やった。ありがと」

「借りたものだから返すけど、これ私の口座にあるお金だからね」


 西恋寺ママの個人的な貯金だったらしい。


「お父さんの貯金はないの?」

「そんなのないよ。キャッシュカード置いてったけど、中身一〇万くらいしか残ってない」

「じゃあ会社の二八〇万円は使っちゃったの?」

「それが以前、私も相談されたんだった。お友達に貸したままみたいよ」


 いわゆる又貸しが行われていた。


「お店のお金を友達に貸しちゃったの? お父さんだめだよ、それ」


 西恋寺さんが言った。


「そのお金、いつ返ってくるの?」

「私が知る訳ないでしょ。やり取りしてるの、あいつだけなんだから」

「どうして貸しちゃったの?」

「さあ。仕事で失敗した友達にお願いされて貸しちゃったらしいよ。破産しそうだから貸すって言ってた。本当かどうか知らないけど。私は猛反対したけどね。返ってこないし、おまえそんな金持ちじゃないだろ寝言は寝て言えって。要は、阿呆なのよ。あの亭主は」

「阿呆とか言わないで。お父さんいい人じゃん。友達助けるためにお金貸すなんて」


 西恋寺パパはやはりお人好しらしい。確かに話を聞く限り良い人そうだけど、会社のお金に手を付けるのは良くない。借りたお金はただの借金だ。オーナーの財産ではないのだ。


「どうしてあんなのと結婚したんだろうね。お金の管理できない人と結婚したら苦労するわ」


 西恋寺ママが、ため息を吐いた。そして、僕に向かって言った。


「ごめんね、和人かずとくんだっけ」

「いえ九一かずひとです」

「九一くんね。覚えたわ。あんな亭主のせいで会社のお金が大変になっちゃって。二八〇万円は私の貯金で立て替えるから、ここから使って」


 僕は西恋寺ママからキャッシュカードを受け取った。


「ありがとうございます」

「厳密にはこれ、愛絢のために貯金してるんだけど」

「私の? もしかして、学費代?」

「学費は別にちゃんとあるの。でもあんた半分くらいは払いなさいよ。バイトしてるんだし」

「うん、それは別にいいよ。私も二年になったら払おうと思ってたし。でもお母さんが私のために貯金なんてしなくていいよ」


 と西恋寺さんが、申し訳なさそうに言った。


「社会に出たら色々お金かかるのよ」

「自分で稼ぐから大丈夫だって」

「甘いわね。この二八〇万は愛絢の挙式代に取ってるのよ。そこまで考えてないでしょ」

「挙式?」


 僕が反応した。いったい何の挙式なのだろう。


「結婚式。いつか挙げるとき必要でしょ」

「ええっ」


 西恋寺さんが驚く。僕も同じくらい驚いた。


「そんな、結婚なんて私、まだ考えてもないよ……」

「この二八〇万円、使っちゃったら挙式代がなくなるわよ」

「いいよ、そんなの。相手もいないのに」


 西恋寺さんがあたふたした様子で答える。西恋寺ママが僕の方に視線を送ってくる。


「えっと、和真かずまくん」

九一かずひとです」


 覚える気ないなこの人。別にいいけど。


「あなたお金にちゃんとしてそうだし、愛絢なんてどう?」

「えっ?」


 それ以上の言葉が出てこない。

 どう? というのは、どういうこと? 結婚、どう? ということ?


「やだ、お母さんからかわないで!」


 西恋寺さんが母親を押し退けた。ちょっと耳が赤くなっている。

 黙って見ていたら、西恋寺さんに腕を捕まれた。


「ほら銀行行こ。お店のキャッシュカードもあるから、そのまま移し替えよ」

「ああ、うん」


 僕が西恋寺さんの顔を見ながらうなずく。なんだか僕も気恥ずかしかった。

 西恋寺ママだけがおかしそうに笑っている。

 からかわれていることは分かっている。だけど、なんだかちょっと嬉しい。


 僕たち二人は、母親から逃げるように家を出た。


 駅の近くにある銀行支店を目指し、休日の歩道を小走りで駆け抜けた。

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