その36
「ない……」
パソコン画面に映し出された銀行口座の残高を確かめてから、僕がつぶやいた。
五十嵐さんともチャットで繋がっている。画面向こうから女性にしては低めの声が届いた。
「私も月末前に入金が来るのかなって思ってたんですけど。残高が見たこともないくらい減ってきたので愛絢さんに確認したんです。足りなくないですかって」
僕はここ一ヶ月の口座残高の動きを眺めながら、五十嵐さんの話を聞いていた。
想定より残高の減りが早かった。僕が現状しっかり管理しているのは損益に関する情報だけだ。そう言えばキャッシュフローについては、まだちゃんと捕捉できていない。極端な話、損益分岐点ラインさえ確保できていれば、資金も大きくは減らないだろうと踏んでいたからだ。
しかし、そんな甘い考えは簡単に打ち砕かれた。
びっくりするくらい資金が減っている。損益とキャッシュフローは別物だと簿記受験でも学んだ。減価償却費のように先にお金が出ていって、あとからちょっとずつ費用になるものもあれば、借入金の元本返済のように資金取引として損益にそもそも含まれないような取引も存在する。借入金返済については毎月二二万円ほど引き落としがあるけど、そのうち二〇万円は元本返済部分で損益に影響を与えない。一方で残りの二万円は支払利息として費用に計上されている。利率が二パーセント程度だから、利息についてはそこまで大きな負担にはなっていない印象だ。損益ベースで若干の黒字なのに、キャッシュが減り続けている原因の一つは、この元本返済にあった。このように取引によって損益だけに影響を与えるものもあれば、キャッシュフローだけが変動するものなんかもあって、両者は動きが異なるのだ。つまりは、たとえ黒字だったとしても、資金が足りないなんて事態が生じうる。
僕は急いで現在の銀行口座残高約四万円から、向こう一ヶ月程度の引き落としや支払い、予想される売上の入金をスプレッドシートに落とし込み、資金繰り表を作成してみた。
もっと早くに着手すべきだった。後回しにしていたのが仇となった。
「おかしいな」
資金繰り表を作っている最中に、違和感に気付いた。
「キャッシュレスでお会計した分の入金が、まだ来てない気がする」
「原因が分かったの?」
西恋寺さんが隣で画面をのぞき込んでくる。
「なんでだろ。入金が遅すぎる気がする」
そう答えて、僕はキャッシュレス決済サービスを提供している事業者のWEBサイトへアクセスし、入金時期を調べてみた。週一で入金されるはずが、一一月になって一度も入金がない。三回はスキップされている。ひと月分の売上の約半分が入っていないので、一〇〇万近く振り込まれていない計算になる。
おかしいと思って調べてみたら、受取用の銀行口座でエラーが発生していた。
「この登録情報間違ってるね。ほら口座番号、2と3が逆になってる」
「あ、どうしよどうしよ。それ私だ」
西恋寺さんが隣で反応した。その表情がみるみる青ざめていく。
「うそ、どうしよ。別の口座に入っちゃった?」
「いや、エラーが出てるだけだと思うよ」
「やっちゃった。ごめん、どうしよ」
西恋寺さんが泣きそうな目でこちらを見てくる。
「大丈夫、落ちついて。入金が保留になってるだけだから」
「ほんとに?」
「うん、僕だってちょっとしたミスはあるし。仕方ないよ。こんなときメールが届いてると思うんだけど、来てないのかな。僕も全然気付けなかった」
受信ボックスを調べたら、迷惑メールの中にエラーのお知らせが届いていた。
僕はすぐに情報を修正した。
「これでキャッシュレス売上分は翌週金曜日には入金されるよ」
「でも、家賃の引き落としって明後日だよね」
「うん。月末には僕らのお給料の振込みも予定されているから、まったく足りないね」
「いくら必要なの?」
「家賃一四万五千円、カード引き落とし十六万六千円、給与振り込み六十二万円、仕入先への支払い六万弱。現金売上が入ってくることを考慮に入れると、ざっと九十万円不足してる」
「私の貯金でなんとかなるかも。八〇万はあるから。私のお給料は来月に回して」
「いや、でも悪いよ」
「私のせいで入金されなかったんだし」
「とりあえず状況を整理して、話し合お」
僕たちは代案を話し合った。あと三日間で九十万円用意する必要がある。月曜日を除いて日々の現金売上は約五万円強入ってくる。それで十五万円は用意できる。明後日の家賃の引き落としを物件オーナーに待ってもらう案が出た。それだけだと足りない。そもそも、そんなお願い受け入れてもらえるのだろうか。法人用のカード支払いを後ろに遅らせる案も出る。リボ払いというやつだ。でもやっぱり焼け石に水だ。最もウエイトの大きい支払いはみなの給料で、これが払えないと結構まずい。食材の買掛金の支払いも一社分あって、これが払えないと他社に迷惑がかかる。数日でお金を用意するって大変なことなのだ。どうしてもっと早く気付かなかったんだろう。結局、西恋寺さんからお金を借りるのが一番、早くて確実だった。
「やっぱり私、引き出してくるね」
「待って西恋寺さん。確かに八十万円あればいったんは乗り切れるよ。ただ、それを支払ってもいまの資金の水準だと、年が明けたらまた残高が厳しくなってくるかも」
僕が年明け以降の資金繰りについても、概算で算出してみた。年末年始、とんかつああやは休業日に入る。大手チェーン店みたいに営業しないのだ。そこでまた資金が一時的に危うくなりそうだった。それに消費税は後から支払いがやってくるから、いま預かっている状態にある。これを手元資金として考慮すると、後々の納税がやって来るタイミングでキャッシュがないといった状態に陥る可能性もある。売上予想を手堅く見積もった上で資金繰り表を作成したら、やはりどう転んでも資金はギリギリのラインを脱しないことが判明した。
「そうなの? でも赤字じゃないんだよね?」
西恋寺さんが尋ねてくる。
「赤字じゃないけど、すごい黒字でもないんだ。借入金の元本返済が毎月二〇万円あるけど、この返済分もキャッシュが徐々に減っていく訳だから、キャッシュフローまでプラスに持って行くのは、なかなかハードル高いよ。それに急な支出があったり、お店を休業しなきゃいけない日だって今後出てくるとも限らないでしょ。そうしたら、いまの残高五〇万もない状態はやっぱり危ないよ。できればまた融資を受けるのがいい気がする」
「ええ、うそっ! 借金がまた増えるの?」
西恋寺さんが驚いた。
「説明が難しいんだけど、融資の返済スピードが速すぎて、利息分までは利益としてカバーできてるけど、元本返済まではカバーしきれていないイメージだね。だから借入金を借り直せば、ちゃんと三年先くらいには返済できるように持っていけると思う」
借入金は二カ所から借りている。国の運営する日本金融公庫と民間の大手M銀行。
利子と元本の話も含めて、僕が西恋寺さんにそれらを説明した。
西恋寺さんが首を傾げる。損益とキャッシュの違いが、いまいちぴんと来ないらしい。
「要するに、もうしばらくは利息がかかるけど、利息さえ払って最終的な経常利益がプラスであれば、破綻することはないって意味だよ」
「なんとなく理解した。でも八〇万円はすぐ必要だよね?」
「そこは間違いない。一つ確認だけど、この西恋寺さんのお父さんに貸している二八〇万円は回収できないんだっけ?」
僕が貸借対照表にある貸付金を指さして尋ねた。
「これが回収できれば、資金問題は当面の間、解決するよ」
「あー、どうなんだろ。お父さんいなくなっちゃったからな。まだ残ってるのかな。お母さんに聞いたら分かるかも。家計簿はお母さんが付けてるから」
「じゃあ、可能ならこっちを回収しない? どのみち年末年始にまた資金を気にするより手っ取り早いと思うんだよね」
そもそもの話、銀行から借りたお金をオーナーがずっと借りている状態は健全ではない。メンターも早く回収した方がいいって話していた。次の融資が受けづらくなるらしいし。
「うーん」
と西恋寺さんが嫌そうな声を出した。
「お母さんに電話かー。お店のことで頼るのやだなー」
西恋寺さんの家に赴いた時の記憶が甦る。また修羅場にならなければいいけど。
「分かった。私の責任だし、電話してみる」
西恋寺さんが意を決してくれる。そしてすぐにスマホを取り出し母親に電話をかけた。
数コールで西恋寺ママが出た。
「あ、お母さん。あのね、いま九くんたちとお店で話してるんだけど、お店のお金が結構やばいの。うん。お店は調子いいんだけど、なんか資金繰りだけ悪いみたい。うん。うん」
西恋寺さんの顔がちょっと怖くなる。口調にトゲが出てきた。
「うーん分かんないけど、そういう説明は九くんがやるから、とにかくお父さんに貸してる二八〇万円を返して欲しいの。そう。いいから、返して。お店のお金だから。あるでしょ。二八〇万円。今日返して。お店のお金だから。絞り出して」
悪どい取り立て屋みたいになっている。会話だけ聞いていると完全にやべー娘だ。
「分かった。じゃあいまから家にいくから。用意してて」
そういって電話を切った。
「あるっぽいから、キャッシュカード受け取りに行こ」
「あるんだ」
こうして僕と西恋寺さんはお店を出て、西恋寺さんの自宅へと向かった。
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