その6
キジトラ猫が一匹、塀の上から飛び降りた。その後に続き、僕も塀の上からジャンプする。
「いたっ」
着地に失敗して盛大に尻もちをついてしまう。お尻を擦りながらも僕は身を起こし、それから周辺に気を配った。
「追ってこない? 良かったー」
ようやく胸をなで下ろした。変態タイツ男は見た目に反して体力に乏しかった。
慣れない全力疾走をしたものだから、わき腹がずきずき痛み出す。
「ここどこだ」
スマホを取り出して位置を確かめようとする。いや、警察を呼ぶのが先か。どっちにしろ、もう少し人通りの多い場所に移動しようと思って、僕は路地裏の道を歩き始めた。
細い道を抜けた先、突き当たりTの字になっている場所に、巨大な看板がでんと姿を見せた。とんかつ屋の看板だ。絵ではなく、とんかつが立体的に飛び出している。いわゆる立体看板と呼ばれるやつだ。看板の周りに取り付けられている大きな電球が順番にピコピコ光って、移動しているように見える。やけに仰々しい店だった。
『とんかつぁぁや』
入り口の扉には、駆け込み一一〇番のステッカーが貼られていた。不審者から逃げる男の子のイラストと、それを背後から追いかける黒塗りの怪しい人物のイラスト。
『不審者を見かけたら迷わず駆け込め!』
そんなメッセージが訴えかけてくる。お店は営業中のようだった。
僕はひとまずここに避難しようと思った。
横開きの扉をからから転がしお店の中へ入る。ぴんぽんと入室を知らせる音が店内に響いた。
……反応がない。
天井近くにテレビが設置されていて、お笑い芸人の漫才が流れている。
僕は歩いて奥へと進んだ。
ばりばりと足の裏で音が鳴る。靴の裏になんかこべりついてきた。油でも零したのか汚いぞ。
店内にはカウンター席とテーブル席が用意されていた。全部で三十席くらい。家具も内装も木製で全体的にレトロ感が漂う。壁には長方形の紙札が貼られており、そこにメニューが書かれている。視線を持ち上げると、額縁に入った白黒写真が何枚か飾られていた。三人家族の集合写真と、小さな女の子だけが映っている写真。着物を来て下駄を履いている。昭和にタイムスリップしたような雰囲気を醸し出す。その近くでアナログ時計がちくちくと針を刻んでいた。
「いらっしゃーい。いま行きますねー」
奥から女性の声が響いてくる。
足音がどたどたとして、のれんの向こうから、一人の若い店員が姿を見せた。
「すみませんー、今日カレーの日ですけど大丈夫ですか」
頭の後ろで髪を結って、白い帽子を被っている。エプロン姿で腕まくりをしているその店員は、僕とそう歳も離れてなさそうな少女だった。
というか、どこかで会ったことあるような。
「あれ、え、鳥羽くん?」
僕は名字を呼ばれて、おやと思った。
「西恋寺さん?」
中から出てきた女の子は、よく見ると同じクラスの西恋寺愛絢さんだった。髪を後ろにしているから雰囲気がいつもと違う。
「えー、どうして鳥羽くんがここに」
「いや、ここ僕の住んでる町で」
「そうなの。うそ、初耳」
「西恋寺さんって、ここのお店で働いてたんだ」
「うん。そうなの」
言われてみれば店名も『とんかつぁぁや』だ。西恋寺愛絢、下の名前が同じだ。
「もしかしてだけど、あの額縁の写真って」
僕が壁の上にある小さい女の子の写真を指さした。
「やだ恥ずかしい。私の小さい頃の写真」
「やっぱり。面影が残ってるね」
「お父さんが飾ってるの。やだ、見ないで。頭おかしいよね。白黒だし」
西恋寺さんが恥ずかしそうに顔を隠す。
その動きが僕の心に刺さった。一挙手一投足が僕の好みだ。天使かな。
「そうだったんだ。いやすごく驚いたよ」
「私も見られたくないとこ見られちゃった。とにかくほら、どうぞ。そこの席にお座り下さい」
西恋寺さんが二人掛けのテーブル席の椅子を引いて促す。
僕は言われるままに席に腰を下ろした。メニュー表が立て掛けられている。お箸の入った円柱型の入れ物と、二種類のとんかつソースが中央の右隅に備え付けられていた。
西恋寺さんがカウンターの中からお茶を汲んで、戻ってきた。
僕は目の前に置かれた湯飲みに口をつけて、ずずりと温かいお茶を飲んだ。
ここまで来るともはや飯を食う流れになっている。駆け込み一一〇番で入ったんだけど。
「今日ね、とんかつじゃないの。副店長がお休みだからカレーの日でね。メニューはこっち」
僕の前に差し出されたのは、手書きメニューだ。B5サイズの白い紙の上に、可愛らしい西恋寺さんの丸文字が踊る。庶民風カレーとハヤシカレー、各八八〇円税込、と表記されていた。
「もしかしてこれ、西恋寺さんが作るの?」
「うん。カレーだけどね」
そう言えば僕、お腹が空いていたんだ。お昼はパン一個だったし。
なにより西恋寺さんの作るカレーなら、絶対に食べたいぞ。
「じゃあ、この庶民風カレーで」
「おっけー」
細い指先で丸を作って応じてくれる西恋寺さん。
「厨房にも人がいるの?」
「ううん、いないよ。いまワンオペだから」
「へぇ、すごい。一人でお店を回してるんだ」
中途半端な時間だからか、僕の他にお客さんは見当たらない。
「ちょっとお待ちくださいね」
そう言い残して、西恋寺さんが厨房の奥に引っ込んだ。
僕の胸は期待で膨らんだ。だって西恋寺さんと出会えただけでも幸せなのに、なんと西恋寺さんの手料理まで食べることができるのだ。これが期待せずにいられるか。
「毎日、通いたい」
心の声が漏れ出ていた。
学校を辞めても西恋寺さんに会える喜び。僕の中ではもう、変態に追いかけ回されていた事なんて些末な問題となっている。どうでもいいや。ここでご飯を食べて、ほとぼりが醒めたらシャンプーの詰め替えと味噌をスーパーで買って、スキップしながら家に帰ろう。
運命の歯車が、急速に回り始めたような気がした。
すると、厨房の奥からぶううぅぅん、と電子音が響いてきた。
「お?」
聞き覚えがあるぞ。この音は、あれだ。電子レンジだ。
カレーを作るのに電子レンジって必要だったかな。野菜を切って、炒めて、鍋にぶち込んで、あとは待つだけ、だったような。なにが回っているんだ?
嫌な予感がしてくる。靴の裏がまたバリバリと音を立てた。
少なくとも回っているのは、運命の歯車じゃない、何かだ。たぶん食材だ。
ずいぶん長く回っている。ライスだろうか、ルーだろうか。
三分くらい経って、ちんと音がした。それからまたぶうぅぅん、と音がした。
「まさか、両方か?」
「お待たせしましたー」
しばらくして西恋寺さんが厨房から顔を見せた。大きめのお皿を手に持っている。
机の上に温まったカレーが置かれた。水平線のように平らなカレー。これはレンチンしとるな、と僕は思った。大きめのジャガイモが一つ二つ、かろうじて顔を覗かせているが、他の野菜は全部ルーの中に沈んでいる。レトルトの中でも安い部類のやつだ。よくお世話になっているから知っている。
ただとんかつが三つ上に乗って、カツカレーになっていた。
「あ、これね。とんかつはサービス。普段はないの。昨日のが余っていたから良ければどうぞ」
そう言われて、僕の胸はまたきゅんとなった。特別サービス。その気遣いで花丸を贈りたい。
僕は一口、カレーを口に含んだ。
「うん。美味しい」
普通に美味い。レトルトなのだから不味くしようがない。意外なことに白米がちゃんとしてて、ほくほくで柔らかい。こっちは炊飯器を使っているらしい。そしてサービスのカツは肉厚で、これだけはだいぶ美味しい。カツが少ししなってるけど、肉のうま味が染み出てくる。ちゃんととんかつ屋してるぞ。
そうか、と僕は気付いた。レンチンを二回もしていたのは、レトルトルーを温めた後に、この昨日の残りカツを温め直していたからだ。全ての謎が、一つに繋がった。
「ソースかけると美味しいよ」
西恋寺さんに言われて、とんかつソースかけてみた。
「あこれ、美味しい」
ソースとカレーは本当によく合う。庶民風カレー悪くないな。
上機嫌になった僕は、西恋寺さん特製のカツカレーを黙々と頬張っていた。走ったから余計に腹が減っていたのだろう。これで八八〇円。なるほど高い。正直なところ毎日は通いたくないし、そもそも通えない。が、たまになら足を運んでもいい。西恋寺さんの笑顔を見るために。
「そう言えば学校辞めるんだね」
と僕が思い出したように尋ねた。
「そうなの。もう耳に入ってたんだ。お店が忙しくて」
「驚いたよ」
「だよね。普通、学校辞めないよね」
西恋寺さんが苦笑いで答えた。僕は励ますつもりで、首を横に振った。
「いや、そんなことないよ。辞める選択肢もありだよ」
「ありなの?」
「実は僕もほら、学校辞めようと思ってたんだ」
鞄から退学届を取り出し、それを西恋寺さんに見せた。
「ええっ、どうして。鳥羽くんも辞めるの?」
うん、と僕が返事をする。
「なにか理由があるんだよね?」
西恋寺さんに尋ねられ回答に困った。君がとどめを刺したんだ、などと口に出したらドン引きされそうだ。重すぎる。新手のストーカーじゃないか。だからと言って、僕ぼっちなんです、とは言えない。女の子の前で、そんな恥ずかしいことは口が裂けても言えない。
「学校に通う目的がないことに気付いたんだよね」
と曖昧な回答をした。一応、嘘は付いていない。現に友だちがいなくなってしまったのだ。勉強にだって身が入らない。つまり、目的消失だ。
「時間とお金が無駄な気がしてきて」
僕がそう答えると、西恋寺さんが首を傾げた。
「そうなの?」
「そうだよ」
「勉強は? M高校なら色々と学べるよ。先生だって面白いし」
「勉強だけなら一人でもできるよ。わざわざ学校に行かなくても」
と僕が答えた。本当は友達をたくさん作って一緒に学びたいけど。一人で勉強するくらいなら、学校じゃなくて家で動画見て勉強した方がマシだ。心の平穏が保てる。
じゃあ他になにか学校へ通う目的があるのかと問われたら、なにもなかった。会社員になって毎日仕事したいとも思わないし、かといってYouTuberやプロゲーマーになりたい、といった欲望もない。お金は稼ぎたいかも知れないけど、シェンロンみたいに世界を変えたいなんて微塵も思っていない。素朴に友だちを作って、普通に結婚して、父さんや母さんみたいに普通に暮らせればそれで充分なのだ。
「西恋寺さんはすごいと思うよ。尊敬するよ」
「ええ、どうして?」
「だって高校生でお店を継ぐなんて、普通じゃできないよ。他の人よりずっと先を行ってるって感じがする。辞める理由も前向きだし、僕とは違う」
「そんな大層なものじゃないよ。ちょっと座るね。お客さん他に居ないし」
自嘲気味に西恋寺さんが笑う。そして正面の席に座った。
「そういえば今日が最初の登校日だったんだ」
「うん。ホームルームの時間に先生が話してたよ西恋寺さんの事。突然だったから驚いたよ」
「だよね……」
歯切れが悪そうに、西恋寺さんが返事をする。
「お店の調子はいいの?」
僕が何気なく尋ねた。
「……はぁ」
そしたら、特大のため息が返ってきた。なにか地雷を踏み抜いたのだろうか。
「あの、どうしたの。ため息なんか吐いて」
「実はね、私のお父さんがね、いま行方不明なの」
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