第二章 簿記の力で、なんとかしてみせる

その5

 M高校のあるひばりヶ丘駅から二駅離れた場所、そこが僕の住む町だ。築十八年の四階建てマンション、その二階で僕と姉は二人暮らしをしている。家賃は九万八千円。この高い家賃の半分は姉が負担し、残り半分を長野に住む両親が負担する。僕は一銭も払っていない。元々は姉の暮らしていたマンションだったが一部屋空きがあったため、そこに僕が潜り込んだ形となる。要は居候みたいなものだ。


 この町へやってきて半年が経過したけど、僕はこの町が気に入っていた。人が賑わい活気がある。かと言って変に人混みが多い訳でもない。ほどよい賑わいを見せている。


 駅近な場所ではドラッグストアやコンビニ、スーパーが複数あって必要な日用品はだいたい駅周りで揃う。駅の北出口と直結する形で西友とも繋がっている。文具を買うならここに足を運べばいい。三階に本屋がある。同じ階になぜか市立図書館が入っていて、勉強までできてしまう。僕も簿記の勉強をするために何度か利用した事があった。最近はと言うと、勉強はちょっとお休み中だけど。


 駅を降りて商店街の一本道を進んでゆくと、閑静な住宅街に繋がる。

 いつもの小さな公園を横切りながら、僕は夕方前の空を仰ぎ見ていた。


「やることないな。学校辞めたら」


 当たり前のことを口にする。カラスが離れた場所でカァと、ひと鳴きした。日が沈むにはまだ早いというのに。空だって九月ならまだ明るい。曇り空がずっと向こうまで続く。


 スマホの時刻を確かめると、ちょうど十六時を回ったところだった。


 どうしたものか。腕組みして、僕は考えた。早く帰宅したところで特にやることもない。一学期は友達とゲームセンターに寄り道したり、イトーヨーカドーのフードコートで間食をして、門限である十九時ぎりぎりまでは遊んでいたのに。一緒に過ごす相手が居ないと、こんなにも退屈なんだなと僕は思った。かと言って勉強する気にもなれない。難しい年頃なのだ。


「そうだ。味噌と詰め替えのシャンプーだ」


 今朝、姉からそれらを買ってこいと頼まれていた。それを思い出した僕は、身体をくるりと反転させる。いま辿ってきた道を引き返そうとした。


 そのときだ。僕の視線が、ふと人気のない公園に向いた。誰もいないと思っていたはずの公園の砂場で、ぽつんと立つ人影を見つけた。


 身長一九〇くらいの大男だった。男は両手を広げて、風を感じていた。あるいは何かと交信しているようにも見える。その格好はちょっと異様で、全身タイツに身を包んでいた。色は赤と黄と青、目立ち過ぎるどぎつい三色。その肉体は鍛え上げられている。ぱつぱつのタイツの上からでも分かる八つに割れた腹筋。なにか積めているんじゃないかと思うほど盛り上がった両肩のなんたら筋。太股なんて変なところにモリモリ名称の分からない筋肉が付いている。


 そして、股間がもっこりしていた。


 僕が凝視していると、男の首がゆっくりと動いて、こちらを捉えた。

 目と目が合う。いや、合ってしまう。


 一つ間が開いて、男が「おーい」と手を振った。


 僕は目を逸らした。見ちゃだめなやつだ。変態だ。


「おーい。目が合っただろ」


 と呼びかけられた。僕がそちらを一瞥すると、気付いたときにはもう、男がすごい勢いで迫って来ていた。ごつい上半身をおぞましいほど左右に揺さぶりながら。


「えぇっ!?」

「出会えたね。さあ、一緒に踊ろう。筋肉のワルツを!」

「うっわあぁっ!」


 意味が分からなくて、僕は逃げ出した。


「待てよ、一緒に踊ろう。ぼっきしよう!」


 噂の不審者だ。捕まったら、絶対なんかやられる。


「君とぼっきしたいんだ」


 なにをされるか想像もつかないが、僕の貞操が間違いなく危ない。

 嫌だ。それだけは嫌だ。

 僕は必死で逃げた。知らない道に入ったけど、そんなこと考えている余裕もない。


 とにかく無我夢中で駆け抜けた。

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