その32
その後の二週間で値上げ施策を実行に移した。
まず店先に『値上げのお知らせ』と書いた張り紙を貼った。メインのとんかつ定食はランチ時だけ価格をなるべく維持して、夜メニューと分けることにした。昼はベースを五〇円値上げ、夜は二〇〇円値上げが基本だ。しれっと値上げをしたら多分、そのまま二度と来なくなる常連客もいそうだと思ったから、旧価格で注文が可能なクーポンを一人二枚配ることにした。案内の張り紙にQRコードを印字して、LINEの友だちになってくれたらクーポンがもらえる仕組みだ。継続的にキャンペーンの案内も送ることができる。ついでにショップカードもデジタル発行して、五回来店する度に一品ものが無料でもらえる特典を用意した。ベースの価格を上げたから、少々の値引き特典には耐えられる。というより、クーポンやキャンペーンまで考慮した上で本来、提供価格は決めた方が良いのではないか、とさえ思えた。
これら一連のアイディアは妙子の知り合いに詳しい人がいたから教えてもらった。
日替わり定食とトンカツカレーはお昼だと九〇〇円で最安値。夜は日替わり定食を辞めて、トンカツカレーは一〇五〇円で提供する。高価格帯のミックスかつ定食とロースかつ定食(大)は夜価格で一三〇〇円だ。ビールはグラスとジョッキそれぞれ五〇円値上げ。チラシに付けていた一〇〇円クーポンは頑張って継続する。常連も大切だけど、初来店の人も引き続き来て欲しい。一品ものにはカニクリームコロッケを加え、デザートにはアイスと杏仁豆腐を出すことにした。新メニューは今後、調理師の於史さん発案で追加を検討していく。価格は僕が仕入値と相談しながら決める。どんな施策を行うにしろ、効果を確かめる必要がある。月次決算が締まったタイミングで顧客単価を集計し、商品ごとの粗利率を算出して初めて答え合わせが可能となる。だから僕は会社のスプレッドシートをアップデートし、いくらかのシートはゼロから作成し直した。
そして最大の取組みがキャッシュレス会計の導入だ。単価を上げるなら三パーセント強の決済手数料を支払ってでも導入した方がいいと判断した。これは妙子や西恋寺さんからも賛同を得やすかった。於史さんも料理教室の決済で使っていると話していた。手続きはとても簡単で、ネットで登録申請をして、必要な決済端末をオンラインで購入する。端末は三万円程度で売っている。三日後には配達されてきた。タブレットは以前からあるものを転用して、一週間足らずでキャッシュレス会計が実現した。最初のメニュー登録とやらが面倒だったけど、お店のメニューはそこまで多くないので、於史さんにお願いして調理の合間にやってもらった。
キャッシュレス端末を導入したことで、レシートの情報をスプレッドシートに転記するという、あの気の狂いそうな作業から解放された。これは副次的にやって良かったと後から気付いたことだ。メニューごとに仕入値を登録しておけば、アプリ上で粗利率を、個別メニューごとにも、全体平均でも、分かりやすいグラフで出力することができる。CSVデータでダウンロードして、そのままスプレッドシートで別の管理をすることも可能だ。楽でいい。
僕は数値で管理する重要性を大いに学んだ。それらの数値は、お店の現状を知り、どのような取り組みをすればいいかの判断材料を与えてくれる。そして取り組みをした後に、それらが正しい取り組みだったか、失敗した取り組みだったかの答えを数値で示してくれる。経営とは新しい取り組みと改善の繰り返しで、そのサイクルに数値管理は絶対的に必要なのだと強く思うようになった。
一一月が訪れ、学校キャンパス内では、すっかり秋景色が広がる。紅葉が映え、半袖の人たちが少数派になっていき、学校指定のブレザーを着た生徒たちが徐々に勢力を増していく。キャンパス内にあるコンビニではサツマイモのお菓子が全力でプッシュされていた。季節のメニューやイベントなどは売上を伸ばす好機だ。どんな商売でもその裏では経理マンが仕訳を切っていて、売上や原価、利益管理などに今日も頭を悩ませているに違いない。職業病と言われるかも知れないが、僕は簿記の勉強とお店の手伝いを通して、いままで見ていた景色がまったく違う方向で広がって行く感覚を覚えた。
その頃にはもう、あれだけつまらないと感じていた簿記の勉強が、案外楽しいと思えるようになっていた。
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