第六章 合格発表と資金繰り
その33
試験当日。僕は試験会場へ向かう準備を済ませ家を出た。
「九ちゃん、待って」
玄関で和子に呼び止められる。
「電卓忘れてるわよ」
和子が僕の愛用電卓を持ってきてくれた。
「おお、あぶね」
「あんた大丈夫?」
「なにが?」
「寝不足でしょ。うちの会社の上司と同じ目してる」
最近、僕は寝不足続きだった。勉強とお店のこと。学校のグループワークだってちゃんとこなしている。たまにオンラインゲーム。目がバキバキになるのも仕方がない。
「姉ちゃんの方こそ大丈夫?」
「なにが?」
「そんな上司のいる会社で働いて」
「うるっさいな。心配して損した」
和子が呆れた様子で答えた。そして僕の背中をバン、と叩いた。
「いたっ」
「頑張って。ずっと勉強してたんだから、結果も出るよ。たぶん。知らんけど」
「辞めて。いま刺激を与えたら仕訳が飛ぶから」
「気を付けてね」
行ってきます、と答えて僕は家を出発した。
なんだか今日は姉が優しい。死亡フラグでも立ったのかな、とちょっと心配になる。
念仏のようにぶつぶつ会計用語を唱えながら、階段を下りていく。
最寄りの駅へと向かった。
空は晴天、お日様の光が気持ち良い。ここから試験会場のある立川へと向かう。僕がこれから赴くのは統一試験と呼ばれる筆記試験の会場だ。筆記試験は商工会議所経由で実施される。一方でネット試験というのが近年普及しつつある。これはオンラインで申し込みをして、テストセンターという場所でパソコンを使って回答していく形式だ。ネット試験だといつでも受験できて、合否もすぐに分かる。筆記試験は今日みたいに試験日がちゃんと決まっていて、合否は三週間後くらいに商工会議所のホームページなどで発表される。好きな方で受験すれば良いが、僕は試験って感じが味わえると思って統一試験を選択した。だから鞄の中には鉛筆や消しゴムの入った筆箱やら腕時計、電卓、受験票などが詰まっていた。もちろんテキストも忘れていない。電車の中でテキストを一周回そうと考えている。最後の悪足掻きみたいなものだ。
清瀬駅のホームで電車を待った。すると、スマホがぶるぶると震え出した。
西恋寺さんからだ。いまは人と話す余裕がないんだけど、と僕は逡巡したが、西恋寺さんからの連絡を無下にはできない。嫌な予感を覚えつつも、音声通話のボタンをタップした。
「あ、九くん。ごめん朝から」
「いいよ。なにか用でしょ?」
「そうなの。どうしよ大変なの。副店長がね、辞めるって」
「ええっ」
「転職考えてるって電話で連絡が来たの」
「……緊急事態だね」
「そうなの。だから、どうしようって思って。九くんに伝えなきゃって」
そう言われても僕になにができるのだろう。辞められたらヤバいのは間違いない。
電車がやってくるアナウンスが流れる。電光掲示板に電車が参りますと表示が灯った。
「とりあえず僕これから簿記の試験があるんだ。終わったら考えよ」
「分かった。ごめんね」
「電車来たから切るね」
「うん。試験頑張って!」
そういって通話を終えた。
電車に乗り込む。朝だからかほぼ満員電車だった。テキストを取り出す余裕もない。いや、そんなことより、副店長に辞められたらお店が回らないんだけど。どうしようか、そっちが気になって頭の中が埋め尽くされた。
よりにもよって、どうして今日なんだろう。せめて明日まで待って欲しかった。嘆いたところで、どうしようもできないけど。副店長には副店長の事情があるのだ。やっぱり忙しくし過ぎたのが原因なのだろうか。於史さんが入ってきたから辞めても大丈夫だと判断したのかな。かと言って於史さんに副店長の穴埋めに週二から週六で入れませんか? なんて相談したら話が違うじゃんってなりそうだし。もういっそ僕がとんかつ揚げてみるか。いやいや、それは現実的じゃない。キャベツの千切りすらできないし。調理はスピード勝負でもあるから、素人の僕が代わりにはなれない。また人探しからスタートするか。急ピッチで求人募集して、面接して、副店長がどれくらい待ってくれるんだろう。そもそも見つかるのだろうか。まずいぞ、これは。メインの調理師が辞めたら、味とか変わらない? どうするんだこれ。
そんなことを色々考えていたら、テキストを見直す余裕もなく会場に到着していた。
「もー終わりだ! 世界の!」
副店長のことで頭が一杯になり、仕訳が全部吹っ飛んでしまった。泣きたい。
不安を抱えながらも、僕は会場の中にある教室っぽい場所に案内され、張り出されている紙を見て、受験番号の席に着席した。筆箱を鞄から取り出して準備を進めていると、まもなく試験管の説明が始まった。テキストは仕舞って下さいと指示が出た。まだ見てないんだけど。仕舞うタイミング早くない? もう諦めたのでいいけど。
厳かな空気に包まれる。漂う静寂。問題用紙が前方の席から配布されていく。僕の机の上にも問題用紙が置かれた。鉛筆が片っ端からへし折れたらどうしようと思って五本も用意しておいた。シャーペンは最終兵器だ。周囲の人たちの電卓が様々だなと思って眺めていた。小さい電卓の人もいる。押しにくそうだなと思った。会場にいる人たちは年代も性別も様々だった。八十歳くらいの高齢者もいる。生涯現役過ぎる。こうやって簿記を学んでいる人たちが一同に介すなんて、なんだかちょっと不思議な感じがした。
試験官の話が終わり、あとは待つだけとなる。無言の時間が過ぎていく。やけに長く感じた。僕は目をつむって深呼吸をした。こうなったら、やれることは呼吸くらいしかない。考えるだけ無駄なので、ひとまずお店のことは忘れよう。
始めてください、という試験官の合図が入る。
その言葉を聞いて、僕は無心で問題用紙をめくった。
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