その28

「現実はそんなに甘くないか……」


 学校の教室でノートパソコンを睨みつけながら、僕が言った。

 利益が出ていないことが判明したのだ。チラシを配って二週間。客足は徐々に伸びてきていた。西恋寺さんが発信しているインスタからもお客さんが来店するようになり、集客は予想以上に成果を挙げ始めた。だが売上とコストに関するデータをまとめてみたところ、驚くほど薄利で、まだまだ赤字から脱し切れていない状態が続いていた。忙しさだけが増えた印象だ。


「まずいな……」


 思わず二度、ため息が出てしまう。十月も終わりに近づき、教室の窓からはすっかり秋空が広がる。肌寒くなってきたからか、長野にある実家から長袖の服が送られてきた。母親の選んだ服のセンスは絶望的にダサくて、僕はその服を押入れにしまった。こんなものは着たくない。いっそメルカリで売ろうかと思ったけど、薄情すぎるやつになるので、ひとまずは封印することにした。都会暮らしの僕に田舎もんのセンスは受け入れ難いのだ。代わりに僕は、人生で生まれて初めて支給されたアルバイト代で、駅前の服屋さんで秋ものの服を購入した。ナウいやつを選んだ。好きな物を買えるって幸せなことだ。これでまたバイト頑張ろうってなる。


 試験日が三週間後に近づき、勉強面でも徐々に焦りが生まれていた。学校ではほとんどの時間を簿記の勉強に費やしている。教科書を一通り読み終えて、後は過去問を解きながら身体に覚え込ませる段階だ。合格点にはまだ届かない。いまで五割くらい。合格点は七割だ。バイト代を費やして電卓も買い換えた。シャープの大きめのやつをアマゾンで買った。四千円もしたけどキーが大きくて叩きやすい。それまでは百均の小さな電卓だった。ボタンが押し難くて、よくあれで電卓を叩いていたものだ。こういう所は変にケチるものではない。姉も話していたっけ。環境作りには金をかけろと。僕もそう思う。


 お昼になって、僕は簿記部の集会に参加した。

 ビデオチャットリンクを踏んで、他の人たちの入室を待つ。メンターのお兄さんが早めに入ってきた。お兄さんの名前は井川秀樹という。簿記部の人たちも一二時半を挟んで、ぽろぽろとルームに入室してくる。生徒の大半は表示される名前の欄に、自らの姓名を表示している。呼ぶ際に本名で呼んでもらえるからだ。漢字やひらがな、ローマ字が入り乱れる。明らかにハンドルネームの生徒もいる。太宰治という名前を見つけて、待っている間、その人をずっと観察していた。本名だったら、どうしよう。


 参加者が二五人くらいまで増えた。画面上に生徒の顔がたくさん並ぶ。五分くらい待って、メンターの井川さんが挨拶をした。


「じゃあ簿記部の定期集会ぼちぼち始めますか。お菓子とか食べながらでいいよ」


 緩い感じでスタートした。

 それから最初に僕の名前が呼ばれて、僕の相談内容を話題にしてくれた。他の生徒たちも僕が持ち込んだこの相談に興味を持っている。チャット欄に「こないだお店に行った」と誰かが報告してくれた。「僕も」「私も」と五人くらいメッセージが続く。それを見て、僕はちょっと嬉しくなった。わざわざ、お店に足まで運んでくれるなんて。「拙者も」と最後にメッセージが来て止まった。太宰治もお店に来ていた。拙者? 何者だおまえは。


「売上以外のデータもちゃんとまとめたんだね。いいね」


 とメンターの井川さんが誉めてくれた。昨日の夜に完成したお店の数値に関するデータを事前に共有していた。これをみてアドバイスを下さいと依頼しておいた。


「はい。それで問題があるなと思って。これって、薄利すぎませんか?」


 と僕が早速、話を切り出した。


「明らかにね」

「ですよね。何とかしたくて」

「どうしたら解決しそう?」

「僕は値上げした方がいいんじゃないかと思っています」

「うん。その考えで、間違ってないと思うよ」


 他の人たちもうなずいた。メンターが続ける。


「値上げ幅にもよるけど、この利益率だと単価は数百円くらい上げないと厳しいんじゃないかな。損益分岐点をもっと下げないと」

「ですよねー」


 僕が腕組みして黙り込んだ。言われるまでもなく、気付いていた。薄利すぎる。損益分岐点が高い。改めて指摘されて、ごもっともだと思った。


 メンターが共有しておいたデータを確かめながら、質問してくる。


「いまお客さんが徐々に増えてきた感じだよね」

「はい。チラシ配ったりして今月から本格的に増えてきました。ただ一〇〇円引きのクーポン持ってこられて、余計に利益が減っています」

「リピーターは?」

「意外にいるんですよ」


 意外と言うとなんだが、バイトをしていて常連さんが結構いることに僕は気付いた。お昼の決まった時間帯に週四くらいで通ってくれる白シャツのおじさんなんて、もはや神だ。西恋寺さんとも話していた。お店に来るのがルーチンワークみたいになっている。


 それを聞いて、メンターがうなずいた。


「常連がいるってことは、最低ラインはしっかりしてるお店だと思うんだよね。レビューも最近、増えてきてるようだし」

「そうなんです。お会計の際にお願いしてるので」


 主に西恋寺さんが満開の笑顔でお願いしている。その甲斐あって、大手グルメサイトの口コミ数が二十ほど増えた。平均も3.46に。


「短期間でよくやってると思うよ。パレートの法則って知ってる?」


 そう問われて僕が首を横に振った。


「知らないです」

「八十対二十の法則とも言われてるんだ。絶対的にこの割合になるって保証はないけど、飲食店でもよく利用されてる考え方だよ」

「どんな法則なんですか?」

「利益の八割は上位二割のお客さん、つまり常連によって生み出されているって法則だよ」

「へぇ。でもなんか納得感はありますね。常連さんよく来るし。リピーターが重要なんだって、接客してよく分かりました」

「リピーターが重要な理由は他にもあるよ。一対五の法則って言うのもあって、こっちはコンサルティング会社が提唱した経験則だけど、新規顧客を獲得するために必要なコストが五だとしたら、既存顧客にかけるコストは一で済むって言われてるんだ」

「五倍違うってことですか?」

「そう。例えば新規顧客に対して広告を打つ場合、見込み客リストを作成したり、そもそもどこに見込み客がいるか分からない場合は、広告を幅広く浅く撒いたりして、無駄な露出も増やさざる負えないでしょ。テレビCMとかマス広告がそれだね。一方で既存顧客にまた足を運んでもらうなら、会員登録してればメールアドレスにピンポイントで案内できるし、ショップカード発行して次に来店したら五パーセント引きとかにしておけば、何もしなくても来店してくれる。どう考えても獲得コストが安いよ」

「その差が五倍か」


 と納得する僕。


「じゃあ常連を大切にした方が良いってことですよね」

「そうだけど、新規客も獲得しないとお客さんは減る一方だよ。常連だって、知らぬ間にちょっとずつ離れて行く訳だし」

「引っ越ししたりすると、いなくなりますもんね」

「そう。あとは固定メニューしかなくて飽きたとか。僕とか飽きるタイプ」

「その話は先日、調理師の人ともしました。いまのメニューだと、やっぱり少ないねって」


 それを聞いて、メンターの井川さんが、うなずいて答えた。


「増やし過ぎると管理コスト上がるから、バランスは大切にね。定番メニューをしっかり固めた上で、季節限定メニューを投入して飽きが来ないように工夫するのもいいね。大手なんかはその戦略だよね。定期的なキャンペーンなんかは新規顧客を獲得する上でも重要だから。もちろんかけるコストと相談しながらだよ。安定的に実施できる仕組み作りが大切」


 僕は話している内容を手早くテキストに書き起こしていった。こうやって会話を続けていくと新しい学びに繋がる。あとで妙子たちにも教えてあげよう。


「値上げについて考えていたんですけど、常連がどれだけ離れるかが心配なんですよね」

「値上げしたら少なからず減ると思うよ。お店によるから、どれだけ離れるかはやってみないと分からないけど」

「さっきの話を聞いていると、思ったより利益へのダメージが大きい気がします。八十対二十の法則でしたっけ」

「そう。他に五対二五の法則って言うのもあるよ。常連客が五パーセント離れると、利益が二五パーセント減る。一対五の法則をイメージしやすく言い換えたものだけど」

「おお……それは痛い。そういうの聞くと、値上げしづらくなりますね」

「上げづらいよね」


 井川さんも賛同してくれる。


「だけど、このままの価格で突き進む方がもっと深刻だと思うよ。数値で見たら、値上げは必要な訳だし。決算書の数値に話を戻すけど、飲食業界でよく使われる指標にFLコストって言うのがあるけど、知ってる?」

「ネットで調べて最近、知りました。原価と人件費を合計したコストがFLコストですよね」

「そうそう。そのFLコストを売上の六割に抑えるのが良いとされてるね。計算してみた?」

「これって人件費はどれを足したらいいんですか。役員報酬と固定給与、あとバイト代」

「法定福利費も足すと良いよ。これも実質、給与みたいなものだし。大半が社会保険でしょ」

「そうです。雇用保険なんかも入ってますけど、金額は小さいです」


 仕訳を見て、よく分からないことはネットで色々と調べて学んだ。社会保険料は社員や一定以上働いているアルバイトやパートの人なら加入しないと行けないルールになっている。僕は学生だから加入していない。父親の扶養に入っていると母親が話していた。だからアルバイトで働きすぎると扶養から外れてしまうので、働きすぎには気をつけろと言われた。仕送りの金額は超えちゃ行けないらしい。あとバイト収入が年間一〇三万円を越えてもダメ。ルールが複雑すぎる。とんかつあぁやの場合は、副店長と西恋寺パパが社会保険に加入している。そして二人の給与の約三〇パーセント弱が社会保険料として毎月月末くらいに会社の口座から自動で引き落としされている。この三〇パーセント弱のうち、半分は従業員の給与から控除して、預り金として処理する。もう半分の一五パーセント弱は会社が負担する。この会社負担分が法定福利費という勘定科目で会計ソフトに登録されている訳だ。


 正直言って、このコストも負担がやたらに重い。西恋寺パパへの役員報酬をゼロにして会社の社会保険から追い出せばそれだけで一五パーセントの法定福利費削減ができる。西恋寺パパは実質ニートみたいなものだ。西恋寺さんも話していた。パパがニートになったって。開き直って笑ってた。


 僕は第三期の損益計算書を元にFLコストを足し合わせて、売上で割ってみた。

 計算式はこうだ。


(売上原価 + 人件費)/売上高 × 一〇〇 = FLコスト比率(%)


「七三.五パーセントですね……」

「そう。基準の六割越えてるよ。しかも大きく」


 井川さんが続ける。


「じゃあ、人件費は減らせそう?」

「いやぁ、厳しいです」


 僕が首を捻って答えた。だって僕も西恋寺さんも最低時給一一六三円で働いているし、厨房一人、接客一人でお店を回している。西恋寺さんがたまに僕の応援にきてくれるが、そこだけ削ったところで金額的には微々たるものだ。副店長の固定給を削ろうものなら辞められちゃう。転職したそうなこと最近におわせていたし。


「でも、オーナーの役員報酬はゼロになります。これで人件費は若干、減るかなと」


 代わりに於史さんが厨房担当に入ったので、全部がなくなる訳じゃない。ただのつけ替えだ。於史さんの場合は社会保険はひとまず入らない範囲で働く。もともと個人事業主として別収入もあるので、自分で確定申告するとも話していた。


「人件費の削減が難しいなら、原価率を下げる方向にしたいよね。例えば、食材を安い物にするとか、食材ロスを徹底的に無くすとか。それでカバーできる水準なら頑張れば良いと思う。ただ客観的に見て、東京二三区外だとしてもとんかつ屋でメインの定食が一〇〇〇円切っているのは、厳しいと思うけどな。三期から値下げした判断が悪手を打ったように見えるね」

「うーん、僕も似た印象です」


 食材ロスはそこまで大きくないと、副店長が話していた。西恋寺パパも厨房で調理していたことからロス管理には力を入れていたようだ。品質を落とさずに材料費を削るにも限度がある。それよりも販売単価さえ上げてしまえば原価率をぐっと下げることができるのだ。高校生の僕にとっては一〇〇〇円のとんかつなんて高すぎるけど、現状価格の八八〇円の定食だと、どう頭を捻っても利益が出そうにない。数値でそう出ているのだから、疑いようがなかった。


「全体の平均客単価がいま九九二円です。夜はビールなんかで若干、上がっています」


 僕がこの二週間で色んな人の手を借りて作成した固定費や変動費、客単価に関する資料の情報を元に、そう伝えた。全体の平均客単価は一〇〇〇円を下回っている。メインの定食は八八〇円から提供されているが、夜になるとビールを頼んだり、一品ものを追加したりする客が増えるので、夜だけの客単価なら一〇〇〇円は超えている。とはいえ定食自体が安いので、これ以上は伸ばせない。これらのデータは、お店のレジ締め後に出てくるレシートの情報を拾って、手入力でスプレッドシートに打ち込んだものだ。単純作業すぎて気が狂いそうになった。


 それを聞いてメンターの井川さんがうなずいた。


「ざっくり計算だと客単価は一二〇〇円まで伸ばしたいね。その水準でようやく利益になる」

「あと二〇〇円ちょっとかー」

「最低ラインそれくらい。だってアルバイトにしても、いまの最低賃金で雇い続けるのは現実的じゃないよね。人が見つからないだろうし。早めに値上げして、高くても来てくれる客層を取り込むのが後々のことを考えてもプラスだと思うよ。いまはお店を知り合いで回してるかも知れないけど、求人を出すなら、求人募集のコストもかかってくるから、余裕持たせないと」


 販売単価を上げれば原価率も下がるし、人件費率も下がる。つまり両得になるのだ。


「改めて利益率で見てみると、飲食店ってこんなにコストかかるんですね。駅前の大手チェーンなんて六〇〇円で売ってるのに。絶対、勝てる気がしなくて」

「大手と真っ向勝負しても勝てないよ。真似するところは真似して、差別化するところは差別化する。価格で競い合うなんてもっての他で、価格しかアピールポイントがないお店は生き残れないよ。それよりも逆に考えよう」

「逆に?」

「そう。単価が上がってもお客さんが通ってくれるお店作りをするんだ。雰囲気とか、接客とか。素敵な体験を売りにすれば常連もついて来てくれるよ。成功してるお店って、だいたいこのマインド持ってる」

「なるほど。お店作りか」


 とんかつあぁやはレトロな雰囲気が魅力だと、於史さんも主張していた。元々、その路線は正しかったのかも知れない。今から無理に価値を与える必要もなくて、従来路線で掃除や接客をきちんとして、あとは堂々と値上げすれば、案外それで利益が出るんじゃないだろうか。


「それじゃあ、全メニュー二〇〇円、上げるしかないか」


 と僕が呟いた。


「それでも良いけど、もう少し工夫する手はあるよ。大手だと値上げ上手いよ。気付かないように値上げしてる。経験ない? 安いと思ってお店に入ったら、結局ちょっと高めのメニューを注文して、思ったよりお金使っちゃったってこと」

「あります」

「メニュー展開の仕方で上手に単価を上げれば、常連も継続してくれるんじゃないかな。例えばカツのボリューム二段階に分けて、カツ三〇パーセント増しを選んでもらうとか。従来より高い贅沢メニューを二〇〇〇円くらいでどんと掲載して既存メニューを割安に見せるとか。全部値上げしたら、お客さんのコントロールできない形で支払いが増える印象を与えてしまうよね。それより自分で高いメニュー選んだっていう方向に持って行けば、納得感もって支払ってもらえる。一品メニューなんかはその最たる例だよ。納得感を削がないようにするんだ」

「そういうの計算されてたんですね」


 大手の手のひらの上で踊らされていた訳だ。僕らは。


「メニューの組み合わせなんかは各メニューの原価率と相談しながら考えると良いよ。ここにメニューごとの単価がある訳だし。原価の情報も仕入伝票や購入レシートから拾って、頑張って割り振ってみたら。地味な作業だけど、数値に落とし込めれば判断の精度が上がるから」

「分かりました。値上げは早めに決めようと思います」


 とは回答したものの、そんなにスムーズに値上げを実施できるかは不明だ。この話の内容をみなに説明して、納得してもらう必要があるからだ。素直に賛成してくれるだろうか。


 一抹の不安を抱えながら、僕はその日の夕方、帰路についた。

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