その23
ドアの前で緊張して立っていると、ドアノブが、がちゃりと回った。重そうな扉がこちらに向けて開いてゆく。その後ろから、私服姿の天使みたいな西恋寺さんが、顔を覗かせた。
「ごめんね朝から。今日、九くんお休みだったのに」
「ノープロブレムだよ。それで話って」
「ここじゃなんだし、
西恋寺さんの家は立派な一軒家だ。玄関に足を踏み入れる。
ああ、なんかいい匂いがする。西恋寺さんに包まれている。ラベンダー。
これは夢かと思って、手の甲を摘んでみた。痛い。夢じゃない。
靴を脱ぐと、すぐ手前にある階段を上がった。スカートを履いている西恋寺さんに先導してもらいながら、その後ろで僕は一人、どきどきしていた。心拍数が上昇していく。靴下まで可愛い。明日、死んでも悔いはない。
「お母さんの部屋はここ」
「それで僕は、なにをすればいいの?」
階段を上った先の廊下で、西恋寺さんが振り返った。
「調理師の人が決まったでしょ」
「うん」
新しく入ってくれる調理師の人が見つかった。採用すると昨日、チャットで話を聞いた。プロフィールなんかも教えてもらっている。三三歳で一人暮らしをしている女性だ。
「それでお給料払う必要あるでしょ」
と西恋寺さんが手にしている決算書を、こちらに差し出してくる。
「細かい手続きなんかは経理の五十嵐さんが紹介してくれた社労士の人にお願いするんだけど、今日はそこじゃなくて、お父さんのこの報酬のことで」
そこまで聞いて僕は察した。役員報酬が月額二六万円かかっている。
不在の父親にもずっと給料が振り込まれていた。
「これって、要らないでしょ」
「だね。不労所得みたいになってるし」
「これを減らしたいんだけど、私の家にお金が入らなくなっちゃうから」
「生活は大丈夫なの?」
「お母さんに聞いたの。そしたらお店の状況を教えて欲しいから、責任者を呼んできてって」
「責任者?」
なんだか怖い響き。
「僕はじゃあ、なんか説明するの?」
「そう。お店のことは九くんが一番詳しそうだし。この決算書で説明してあげて」
「ちょっと待って。西恋寺さんのお母さんは、いまこの部屋にいるんだよね」
「いるよ。リモートで仕事してる」
「どんな人なの?」僕が小さめの声で尋ねる。
「優しいよ。でも怒らせると怖い。お父さんよく怒られてるから」
西恋寺さんが口元に手を当て、声を潜めて言った。
「今日はちょっと機嫌が悪いみたい」
「知りたくなかった……、その情報」
なんと言うことだ。そんな話は電話口で早めにして欲しかった。
心の準備もできないまま、僕は西恋寺さんから決算書を受け取る。
「お母さん、入るね」
ドアをノックして、西恋寺さんが扉を開けた。
「九くんも、ほら」
手招きされて、僕も部屋の中へと入った。西恋寺さんがカーペットの上に腰を落とす。
「座布団あるよ」
「ありがと」
僕も座布団の上に正座した。
「これ一つ終わったら行くから。ちょっと待って」
奥にある机に座して、母親らしき人がキーボードをカタカタしていた。方向としては母親はこちらを向いているが、パソコンの前に色々と物が積まれ過ぎていて、頭のてっぺんくらいしか姿が見えない。明るめの髪色をポニーテールにして結っているのが辛うじて視認できる。
僕が正座したら、机の下で西恋寺ママの膝下が見えた。黒のスーツにふかふかのスリッパを履いている。そして足を組んでいた。六十秒くらい沈黙があって、西恋寺ママが立ち上がる。
「よし。朝カツ終わり」
山盛りの机の後ろから、ようやく西恋寺ママが姿を見せた。西恋寺さんをもっと美人にした感じの顔立ちだった。頬に若干の皺が浮かぶ。四十代半ばくらいだろうか。目元が親子で似ている。ネクタイを締めて、仕事バリバリやってそうなオーラが漂っていた。
「初めまして。娘と仲良くしてくれて、ありがとね」
「こちらこそ。お世話になっています」
「えっと、なんの話だっけ」
西恋寺ママが立ったままこちらを見下ろしてくる。隣の西恋寺さんが答えた。
「役員報酬の話だよお母さん」
「ああ、そうそう。お給料ね。いまいくらもらってるんだっけ。うちの旦那」
「月額二六万円です。社会保険や税金が引かれているで、振込み金額は二〇万五千円程です」
僕が仕訳帳で見た金額を答えた。役員報酬からは所得税と住民税、社会保険料が控除されている。役員は雇用保険に加入できないため、雇用保険までは差し引かれない。一方で、副店長の固定給からは雇用保険も控除されている。
西恋寺ママが「へぇ」と興味なさげに反応した。
「少ないな。それを新しく雇う人に払うんでしょ?」
「はい。満額ではなくて一部ですけど。時給制なので」
具体的には、オーナーが抜けた週二日勤務なので、月の労働時間は多くて八十時間程度だ。火曜日と金曜日に厨房に立ってもらう。時給は一五五〇円。
「お店ってどうなの。もう潰れたりするの?」
軽い口調で、重たい質問が飛んできた。僕が少し考えて答えた。
「まだ資金はあるので、すぐに潰れるって話ではないです。いま収益性を改善するために、みんなで色々と取り組みを始めたところで」
「みんなって、妙子ちゃもいるんだよね」
「います。妙子は集客を手伝う役で、僕が経費を削減したり、数値的なところを担当です」
「ふーん。心強いねそれは。私、お店のこと全然把握してないんだよね。あの人が始めたお店だし、自由にどうぞって感じで。もし潰れたらあの人の責任だしさ」
放任主義。協力しないスタイルのようだった。
「お母さんも手伝ってくれたらいいのに」
「ええ、やだよ。私は飲食店のことなんかちっとも知らないし。仮にアドバイスとかしても、私が口出したらまたチクチク言っちゃうでしょ。あの人、気分屋だからすぐやる気無くすし。私もイライラすんの疲れた」
嫌そうな表情からもわかる通り、あまり父親のお店には関心なさそうだ。
西恋寺ママが続ける。
「だから、
「いえ。
「ごめんね。九一くんに任せるから好きにして。煮るなり焼くなりどうぞ」
雑に任される。
「じゃあこの役員報酬は、無くしても問題ないと?」
「いいよ」
あっさり回答をもらった。
「ま、うちも贅沢はしてないと思うけどさ、いますぐ困るって訳でもないからね。私より稼ぎ少ないし、うちの亭主。愛絢も私の扶養に移す予定だし。やっぱり離婚かなー。そろそろ」
「お母さん。そんなこと言わないでよ。友達の前で」
西恋寺さんがちょっと声を荒げた。
物騒な会話が飛び出し、僕は思わず身構える。そういえば離婚するって話、西恋寺さんからも聞いたことあったっけ。本当だったんだ。それより、さっき西恋寺さんの口から、友達と言わなかった? 僕の関心がそこへも向かった。なんだかちょっと胸が苦しい。友達。欲しかったけど、西恋寺さんとは友達以上が良かった。
「でもなー、居ないんじゃ同意も取れないし」
と西恋寺ママが、机に手を掛けて足を休める。
「そう言えば、この家の土地も抵当に入れてるか。あの亭主だるいな。迷惑ばかりかけて」
「きっとお父さんにも事情があるんだよ。置き手紙にも書いてあったじゃん」
西恋寺さんが父親の肩を持とうとする。
「置き手紙。これね。君も見る?」
西恋寺ママが机の裏に回り込んで、なにかを持ってきた。
僕は差し出されたそれに、視線を落とした。
ウイダーゼリー、サラダチキン、照り焼き味。コンビニのレシートにそう書いてある。
「あ、こっち。裏面ね」
西恋寺ママがレシートを裏返す。そこに手書き文字でメッセージが残されていた。
『一発逆転の旅に出てくる。信じて! とーさん』
「……なんか、ポジティブですね」
「具体的に書けって思うでしょ」
「確かに、なにをしに行くかも、いつ戻ってくるかも分からないですね」
そこはかとなく煽られている気分になる。西恋寺パパの性格が概ね掴めた。変な人だ絶対。
「そもそもさ、この置き書きなんなの。一発逆転って」
西恋寺ママがクレームをつけた。
「美人の嫁と可愛い娘がいて、帰れるマイホームまであるのよ。自分でお店を作って好きに経営して、どこに一発逆転する必要性があるの。なに考えてんだあいつ。バカじゃねぇの」
西恋寺ママの怒りポイント、そこだった。
「信じてあげようよ。お父さんにもきっと事情があるんだよ」
西恋寺さんはそれでも父親の味方だ。いい娘すぎる。好きだ。
「事情ね。じゃあ戻ってきたら問いただして、つまらない事情だったら、離婚かな」
「離婚離婚って、お母さんそればっかり」
西恋寺さんが唇を尖らせて不満を漏らす。
「こういう時こそ、家族みんなで協力しなきゃダメだよね」
「協力ってお店を手伝うの?」
「そうだよ。お母さんも料理うまいでしょ。やってよ」
「えー、やだよ。家族みんなで協力って、あんたドラマの見すぎじゃない?」
西恋寺ママが突っぱねる。西恋寺さんがそれを聞いて、あからさまにむっとなった。
「夫婦は協力するもんじゃん。どこが違うの?」
「私の方が稼いでるんだから、私は自分の仕事するに決まってるじゃん。なんで安月給で料理しなきゃなんないのさ。雇えばいいじゃん。現に雇うんでしょ。いいじゃん」
親子喧嘩の様相を呈してくる。僕は気まずくて、自分は透明人間なんだと暗示をかけた。
「薄情だよ、お母さんは。家族と仕事どっちが大事なの」
「あんたも大人になったら分かるわよ。夫婦そろって同じ仕事とか、逆に嫌すぎるわ。お店は好きにして。借金はあの人名義だし。自分のケツくらい自分で拭け」
僕はなぜここに居るんだ。考えたら負けだ。
「もういいよ。お店は好きにするから。お母さんには相談もしない」
「どうぞー」
西恋寺さんが立ち上がる。僕の腕を引っ張った。
「行こ、九くん。好きにしていいんだって」
「ああ、はい」
催促され、僕も立ち上がる。西恋寺さんの顔がだいぶ怖い。
僕たちは西恋寺ママの部屋を後にした。
「もー、お父さんどこ行ったの。このままじゃ離婚になっちゃう」
西恋寺さんがドアを平手でばちーんと叩いた。
こわいっ。西恋寺さんも怒ると怖い。
「あぁーもう……つらたん星人」
扉におでこをくっ付けて、謎の呪文を唱える。つらたん星人?
その後、深いため息を吐いていた。内心では悲しいが勝っている様子だった。
「じゃあ私、お店があるから。ごめんね、今日は呼び出しちゃって。変なもの見せて」
と西恋寺さんが笑顔を作った。
「僕も手伝うよ。このままお店に行って」
「ええ、悪いよ。今日、九くんお休みの日だし。ゆっくりしなよ」
「いや、大丈夫だから。早くお店を盛り上げて利益を出さないと」
「九くん……分かった。ありがとう」
西恋寺さんが目尻に浮かぶ涙を指で拭った。
僕はますます使命に燃えた。
救うのだ。西恋寺家の危機を。休んでいる暇なんて一日もない。
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