その16

「原価を計算する目的は二つある。一つ目は、決算書を作るため。原価を算定できないと決算書の仕入原価をそもそも出せないでしょ」

「確かに」


 損益計算書(P/L)の売上のすぐ下に仕入原価は表示されている。とは言っても飲食店で工業簿記を使うイメージはあまりなかった。期首在庫に当期仕入を足して、そこから期末在庫の評価額を差し引けば売上原価になる。単純な計算で済む。工業簿記は、やはり出番がない。


 僕が疑問を持っていると、メンターのお兄さんが続けた。


「決算書を作成する目的で記帳を行う事を財務会計と言うんだ。ここに決算書があるでしょ。これは財務会計によって記帳がされて作成されたって訳だね。前提の話になるけど、この決算書は経営者だけでなく、銀行や投資家なんかの利害関係者ステークホルダーに業績を報告するために作成する。これは知ってるよね」

「教科書の最初の方で学んだような記憶が」

「オーケー。次に行くよ。原価を計算する二つ目の目的は、どこかに報告するためじゃない。自社で数値を把握して経営判断を下すために行われる。この社内管理用に原価を計算したり、ほかの必要な数値を算定する事をまるっと含めて管理会計って呼ぶんだ」

「じゃあ、工業簿記って財務会計にもなるし、管理会計にもなるって事ですか?」

「察しがいいね。その通り。君はさっき工業簿記は管理会計ですかって聞いただろ? 答えは違うよ。工業簿記の目的によって、財務会計にもなるし、管理会計にもなる」

「でも飲食店で決算書を作成するとき、工業簿記って出番がなくないですか?」


 僕が先ほどの疑問をぶつける。メンターのお兄さんが答えた。


「例えば、このとんかつ屋は既に加工された肉を仕入れてるよね。豚を育てたり、豚から肉を各部位に切り分けたりしないでしょ」

「ですね」

「つまり工業簿記は飲食店が仕入れる前の製造者の段階で使われてるんだ。それを仕入れる飲食店では、あまり馴染みがないのは行程が次に進んだからだよ」


 言われてみるとそうだ。豚を育てるコストや各部位に切り分けるコストは既にそれぞれの部位の肉に割り当てられ、それを仕入れているから遡って飲食店で複雑な原価計算は必要がない。


「じゃあ工業簿記は飲食店ではやっぱり使わないんですね」


 僕がそう口にすると、お兄さんが首を横に振った。


「その考えもまた違う。例えば、寿司屋で考えてみよう。マグロを仕入れて寿司ネタにしたら、端材が出る。端材は寿司の上に乗せるには小さすぎて使えない。そういうのは軍艦ネタにしたり、茶碗蒸しに入れて活用される。この場合、仕入れたマグロの原価は、寿司と茶碗蒸しに分けて管理したいだろ?」

「確かに。原価を割り当てないと、それぞれのメニューの利益が出せないですね」

「そう言うことだよ。工業簿記自体は製造業で原価算定を行うために発展してきたけど、業種を問わず、原価割り当てが必要になったらどこでも使える。工業簿記を学ぶ理由は全業種で必要になる知識だからだよ」

「なるほど」


 僕がうなずいた。製造業で働く気もないし、工業簿記とかどうでもいいやと思ってた。


「じゃあここで質問。君がこのとんかつ屋を立て直すためにやるべき事は、財務会計か管理会計かで言うと、どっち?」


 そう問われ、僕は顎に手を当て考えた。


「財務会計は決算書を作成するのが目的だから」

「ここに決算書あるよ。既に完成してるんだから、君が経理を素直にしても意味がないよね」

「じゃあ管理会計です」

「そう言うこと。経営判断を下すには、必要な情報を集めないと行けない。必要な情報を集めて、それを分析して、始めてまともな判断ができるようになる。そして売上げを伸ばすなり、コストを削減するなりして利益を向上させる。この一連の流れは管理会計ができて始めて成り立つんだ。数値で語れないと、経営の建て直しなんてできないよ」

「でも管理会計って、具体的になにすればいいんでしょ」

「難しくないよ。管理会計の出発点はこの決算書の数値だ。どの数値を増やしたいか、どの数値を減らしたいかを一つずつ見ていけばいいんだ。例えば、広告宣伝費は昨年度五〇万円弱かけている。仮に利益を増やすには、これをどうするのがいいと思う?」

「広告を出すのを辞める」

「辞めたらコストは下がる。でも露出が減って、売上がそれ以上に下がったら本末転倒だよね」

「じゃあ、売上に繋がらない広告費があれば辞めます。売上に繋がってる広告費は継続で」

「いいね。売上に繋がっている広告であれば、逆にもっと増やすという選択肢もある」

「確かに」

「具体的に君がやることが決まったね」


 そう言われて、僕はうなずいた。


「どんな広告にお金を使っているかを、まず洗い出します」

「うん。それから?」

「その広告ごとの効果を調べればいいってことですよね。数値に落とし込んで」

「その通り。そこまで整ってようやく真っ当な経営判断ができる。ちなみに広告宣伝費を例に挙げといてなんだけど、広告効果を測定するのは、やってみたら分かると思うけど難しいよ。WEB広告ならCPA顧客獲得単価を把握して改善していくって取り組みが可能だけど、チラシ配布みたいなアナログの宣伝手法だと効果測定自体が難しい。まぁ、とりあえず分からないことがあったらそのタイミングで聞いて」

「分かりました。ありがとうございます」


 簿記部に話を持ち込んでよかった、と僕は思った。話を聞いてもらえるって有難いことだ。


「ま、僕らがしてやれることって、アドバイスくらいだけどね。決断は出来ない」


 メンターのお兄さんが、そんな事をつぶやいた。


「経営判断を下すには、会社の事情をもっと把握する必要があるんだ。決算書だけ見てても限られた情報だけしか得られないし、極端な話、役に立たない」

「そうなんですか? 簿記を学べば経営分析もできるって思ってるんですが」

「表面的にはね。さっきも話した通り、経営判断には管理会計用の数値が必要になるから。決算書にその情報は全部は載ってこない。一部分だけが報告用に載ってるって感じだね。あらゆる情報を数値に落とし込んで、初めて意味のある分析が可能になるんだ。仮にこの決算書だけ見て、表面的な分析結果を伝えることは僕だってできるよ。でも、経営判断を下すには至らない。情報が圧倒的に足りていないのに、こうしろとか、ああしろとか言ってたら無責任な奴になっちゃうだろ。結局は社内事情に詳しい人が現場で考えて、数値に落とし込んで、地道な改善を図っていくしかないんだ。小規模事業者ならその辺りは本来、オーナーの役割だ」


 その社内事情に詳しいオーナーが消失してしまったのだが。


「とにかく、君がやるしかないね。会社側の人間として」

「僕は会社側の人間なんですか?」


 いつの間にか、会社側の人間にされていた。自覚はない。


「アルバイト始めるんでしょ?」

「そうは言っても、接客ですよ」

「現場を知るにはちょうどいいよ。一日の流れを身体で覚えよう。もちろんお金の流れも一緒にね。そうすれば色々なことが見えてくる。その上で君が社内管理もやればいい。オーナーがやっていたようにね。社内用の資料がもし揃っていなければ新しく作る。スプレッドシートでいいから。可能な限り数値ベースで。それをもって改善に取り掛かる。現場の意見はリスト化して共有してくれれば、みなでアドバイスできていいんじゃないかな」

「分かりました。やれるだけやってみます」


 僕がゆっくりとうなずく。思ったよりも責任が伴っていた。


「ところで鳥羽くん、簿記の勉強はどうなの? 進んでる?」


 メンターのお兄さんにそう尋ねられ、僕はぎくりとした。


「うーん。ちょっといまお休み中です」

「二級の勉強してたんだっけ」

「そうです。中断してますが」

「じゃあCVP分析は分かる?」

「名前は聞いたことあります。固定費と変動費に分けるやつ。ぼんやりと覚えています」

「せめて二級の知識くらいはあった方がいいよ。経営管理やるなら」

「ですよね、僕もそう思います」


 先ほどの話を聞く限り、工業簿記の知識が必要そうだった。

 他の簿記部のメンバーもうんうん、うなずいている。メンターのお兄さんが言った。


「次の統一試験って、いつだっけ」

「十一月半ばです」


 他の簿記部のメンバーが答えた。


「二ヶ月あるんだ。ちょうどいいんじゃない」

「二ヶ月、時間的に厳しくないですか?」


 と僕が慌てる。


「アルバイトもやるんですよ。一日八時間も」

「週二日でしょ」

「でも、学校は週三日ありますよ」

「学校にきて簿記を勉強したらいいんだよ。ちょうどいいよ」


 メンターのお兄さんが容赦なく答えた。

 この学校では、基本的になにを学んでも良い。もちろん簿記に全振りしても誰も怒らない。


 僕はやるべき事が次々と決まり出し、悲鳴を上げたくなった。バイトに加えて、試験勉強までスタートさせたら、のんびりする時間が確実に奪われる。


 僕の苦そうな表情に気付いたのか、メンターのお兄さんが続けた。


「これくらいで根を上げてちゃダメだよ。決算書を見る限り、建て直しは容易じゃないんだ。年末まで四ヶ月ない中で、赤字の原因を早く突き止めて手を打たないと最悪、資金が枯渇する未来だってある。融資をまた受けるにしたってオーナーが居ないんじゃ、誰が保証人になるんだ。そこも早めに考えとかなきゃ。君が請け負ったなら、全力でやり切るしかないよ」


 そのように諭されて、僕ははっとした。

 やると決めたのは自分だった。人頼みにはしていられない。


「簿記部でやれるだけのサポートはするから。あとは君の頑張り次第」

「私も受験するから一緒に頑張ろ」


 簿記部の女子がそんな事をつぶやいた。受験仲間が結構いた。画面の向こう側だけど。


「……分かりました」


 観念して僕が答えた。


「やれるだけ、全力でやってみます」


 僕が頑張ればとんかつあぁやを救う事ができる。そして西恋寺さんの笑顔に繋がる。あの笑顔に。


 ならばと、僕はやる決意を固めた。

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