その10
朝十一時、西恋寺さんとの約束通りに僕はとんかつあぁやを訪問した。
「いらっしゃい」
エプロン姿の西恋寺さんが出迎えてくれる。
「あら、二人一緒なんだ偶然。どうぞ入って入って」
僕の後ろには真壁さんもいた。偶然ではなく、二人で僕の家から歩いて来たんだけど。
そこはお互いに触れない。
僕と真壁さんは二人順番に巨大な看板の下をくぐった。開店前と聞いていたので誰も居ないのかと思いきや、カウンターを挟んだ向こう側で調理をしている男の人がいた。
「副店長の飯田さん」
「どうも。お世話になります」
愛想の良さそうな四十代くらいの男性だ。白い帽子を被って、腕まくりをしている。そのすぐ近くで、カツを揚げる油の音がジュージューいっていた。長い箸でカツを取り出したかと思うと、包丁でそれをざくざく縦に刻んでゆく。
「こちらこそよろしくお願いします」
僕らも頭を下げて、挨拶をした。
「こちらにどうぞー」
西恋寺さんに手招きされる。僕と真壁さんは一番奥の四人掛けテーブルにまで歩いて行くと、お互いに向かい合う形で腰を沈めた。
「ちょっと待ってて」
西恋寺さんが厨房に引っ込む。
「忙しそうだね」と僕。
「開店準備やってるんでしょ。お昼になると結構、お客さん入る印象だな。このお店」
「真壁さんはここのお店来たことあるんだ」
「お店自体には数回だけどね。絢ちとはおな中だし。今朝もそれ話したじゃん」
「地元がここってこと?」
「おうよ。東京育ちよ。あとさ、妙子で良いよ。呼び方」
「そう? 分かった。なら妙子にする」
「あたしはなんて呼べばいい? どうして名前、
唐突に名前に対しての質問を受ける。なぜって言われても親に聞いたこともない。
「お姉さんからは九ちゃんって呼ばれてたよね」
「両親からもそう呼ばれてる。でも中学校の同級生からは
「じゃあ、あたしは
可愛くある必要性がどの辺にあるのだろう、とささやかな疑問を持つ。
「お待たせー」
西恋寺さんがお盆を二つ運んできた。その上にキャベツととんかつが盛られたお皿が乗っている。白米の入った茶碗と、味噌汁の入ったお椀も一緒に乗っている。
「うちの定番メニュー、ミックスかつ定食です。ハーフだけど、召し上がって感想を下さい」
「うっそ、いいの?」
妙子が目を輝かせた。見るからにテンションが上がっている。
「いいよ、これくらい。色々とお手伝いしてもらうんだから」
「絢ち、もう好きすぎ。好きすぎダイブー」
妙子が西恋寺さんの腰にしがみついた。
「私も座るから、ちょっと妙ちゃん放してよー」
そんな女子的なやりとり。
「そうだ、鳥羽くんにはこれ」
そう言って、西恋寺さんがお盆と一緒に運んできたクリアファイルを、僕の前に差し出してくる。僕はそれを受け取り、中に目を通した。
「決算書だね、これ」
「税理士事務所? から届いたの」
見覚えのある決算書の他に、初見の書類もたくさん混じっている。申告書とか法人事業概況説明書とか。全部で三十ページ近くあり、すごいボリュームだ。納税関係の書類らしかった。
「決算日は六月三十日なんだ」
決算報告書の表紙を見て、僕はそれを知った。
「それ先月に郵便で届いてね、消費税を納めなきゃいけなかったから私が払って来たんだよ」
西恋寺さんが妙子の隣に着席する。
「ねぇ聞いて、妙ちゃんも。一〇〇万円近く払ったんだよ消費税。ATMで番号入れて口座から。大金だったから、うわー、怖い怖いって思って、手が震えたよー」
西恋寺さんが手をぶるぶるさせながら、その時の様子を語る。
僕は書類をぱらぱらとめくりつつ西恋寺さんの話を聞いていた。企業が受け取った消費税は後から税務署に納める必要がある。簿記の勉強でもちょっと習ったなと思いつつ、細かい手続きまでは把握していないので、ひとまず見たことのある
「とりあえずほら、冷めないうちにどうぞ」
ひとまず落ち着いて、とんかつ定食をご馳走になろう。話はそれからだ。
「んー、いつもながら美味しい」
妙子が絶賛する。僕も同意した。出来立てのかつは昨日食べたものより数段、美味しかった。衣がサクサクで、やっぱり肉厚。妥協を許さない旨さだ。お皿の脇にあるカラシを塗って、ソースをかけて贅沢に口に放り込む。朝にも関わらず、とんかつ食べられるなんて幸せか。
「これが朝かつというやつだね。カツだけに」
僕が気を効かせてダジャレを披露する。
「九っち、それさー、滑ったから罰ゲームな」
「すみません……」
渾身のダジャレだったのに。妙子が厳しい。西恋寺さんは笑ってくれた。それなら嬉しい。
「借金二千万って、もしかしてこれのこと?」
食べ終わった僕たちは決算書を机の上に広げて話し合った。その中の
「借入金って書いてあるね。でも二〇〇〇万円じゃないけど、どうして?」
そこには短期借入金二三七万円と長期借入金一〇八九万円が記載されている。合計しても一三二六万円だ。
「ここに載ってるのは未返済部分だけだよ。だから七百万近くは返済済みなんじゃないかな」
「そう言えば、私が見たのは実家にある『融資』って書かれているファイルだったの。六〇〇万円と一四〇〇万円。じゃあ、あれは全体の金額だったんだ」
「そうだと思うよ。この貸借対照表はほら、上に書いてあるように今年の六月三十日現在の金額だから。会社の借入金は基本的に全部、ここに載ってないとおかしいからね」
「これってさ、会社の名前?」
妙子が口を挟む。決算書に『株式会社ああやファクトリー 第03期』と記載されていた。
「そうなの。お父さんが全部、私の名前使うの。もうね本当に止めて欲しい」
西恋寺さんが恥ずかしそうに答える。なんだかパパに愛されている模様だ。
「でも一三〇〇万だって十分多いよね」
「そうそう。妙ちゃんもそう思うよね。借金は人生の墓場だよ」
「確かに多いけど、資産もあるよ」
僕は貸借対照表の左側を指さして、そう続けた。
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(貸借対照表(略図)と調達源泉の説明図)
https://kakuyomu.jp/users/mogumogupoipoi/news/16818093089685042347
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貸借対照表には「資産」「負債」「純資産」の三つの項目が表示されている。どの会社でもこの三つの項目がある。「資産」は企業が保有している建物とか現金とか権利とか。「負債」は返済すべき借入金など。「純資産」は返済する必要のない資本金や、過去の利益の累計など。貸借対照表にはルールがあって、必ず「資産」 = 「負債」 + 「純資産」になる。つまり「資産」と「負債」の差額が「純資産」と言い換える事ができる。簡単な足し算の話だ。そして貸借対照表は左右の合計値が必ず一致する。これは複式簿記を使って記帳を行っているためだ。△はマイナスの数値を表している。簿記ではよく登場する。
この貸借対照表をさらに踏み込んで説明すると右側の「負債」と「純資産」はビジネスを行うために調達してきた「元手」と言える。だから調達源泉と言ったりする。この調達源泉を使って、様々なものに投資を行い、ビジネスを営む。このとき、どんなものに投資したか、元手がどのように運用されているかを知りたければ左側の「資産」を見ればいい。一覧で並んでいる。つまりは、この貸借対照表を見ることで、企業が何処から資金を調達し、何に使っているかの全体像が掴めるという訳だ。
僕は簡単な図を鉛筆で書きながら、西恋寺さんたちにそれを説明した。
「借入金があってもほら、資産の項目には現金預金が三七〇万円ある。あと誰かに二八〇万円を貸してる。貸付金はいつか戻ってくるでしょ。だから借金だけを見てまずいと判断するのは良くないよ。企業はビジネスをしてるんだから、資産の項目もちゃんと見ないと」
「へぇ、簿記ってそんな感じなんだ。呪文かと思ってた」
妙子がそう言った。西恋寺さんが熱心にうなずく。
「確かに確かに。じゃあ、このお店はそこまでまずい状況じゃないってこと?」
「いや、財務状況は悪いね」
僕が首を横に振った。
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