〈蝶の舞〉十八、【蝶の舞】

十八、【蝶の舞(ちょうのまい)】 

 

 文飛がふと気づくと、ぼんやりと銀で作った蝋台が目に入った。天井には桃源郷の図様をかいた籠燈が仰々しくぶら下がっていて、自室だということがわかった。室の中の空気は川底に沈んだ泥のように重たく、体に積もっていくようだった。徐々に動かなくなる体は土人形のようで、首を動かすことすら億劫に思えた。そんな時、ゆっくりと夕日が差し込んでくるのが分かり目だけでその光を追う。うっすらと光る外の景色に目をやると、夕暮れ前の鴇色の光がみえ、その光に自分が今まで意気揚々と選んだ高級な調度達が照らされ浮かび上がっていた。しかし、普段なら恍惚として見るそのつややかな木目や、精緻を凝らした彫刻たちは、自分をあざ笑うようだった。


 兄は自分を愛していなかった。そして蝶の巣もすべてまやかしだった。そのせいで弟は無実の罪に喘ぎ、美しい蝶の一人と、侍女が殺された。自分は何も知らない無知な人形だと、文景が言ったのを思い出す。そのとおりだ。自分は兄のことも、蝶のことも何も知らなかった。結局自分を愛してくれる人など、始めからいなかったのだと思うと、体の奥から悲しみのあまり咽び泣く声が抑えられず湧き上がってきた。

 

 文飛は泣きながら冷えた指先を擦った、目の奥に優しい碧色がちらりと見えた気がした。顔を上げると窓の外の色はじんわりと濃くなっていく、朱の具を溶いたような鮮やかな夕焼けが戸の透かし窓から部屋に差し込んできていた。

  

 その時、ふと扉を叩く音がした。

 

「旦那様、出てきてください」

 

 金檀の甘い声だった。兄を思うあまり、霖鵜に嫉妬したという金檀。文飛は戸に目をやって、小さく声を上げた。

 

「何だ」

 見慣れた金檀の姿が扉に黒い影となって写っていた。

「出てきてください。お伝えしたいことが」

 それはいつもどおりの嬌声だった。金の艶を思わせるような声。もしかしたら、何もかも、そう、何もかも、嘘だったのかもしれない。先程見たのはすべて自分の夢。あの扉の向こうには、自分の蝶の巣がある。文飛はよろめきながら立ち上がると、ゆっくりと戸に近づいていった。金檀の影が密かに近づいてくる。戸の隙間から、甘い香りさえしてくるような気がして息が上ずる。文飛は金輪に手をかけてゆっくりと戸を引いた。

 扉の向こうの空は真っ赤に燃えていた、金檀の黒髪も炎の色が染みて燃えるようだった。眩しさに一瞬目を細め、その見慣れた優しげな顔立ちにモヤが掛かり、嗅ぎなれた甘い香りが室に押し流れてくる。

 

 その途端、文飛は体がかっと熱くなった。すんで氷のような冷たさを体の中に感じて、背中を悪寒が走った。自分の体の上を愛撫するように温かいものが流れ出てくるのがわかる。

 

 「金檀」そう言うまもなく、文飛はひざから崩れ落ちた。いつの間に金檀は消えており、顔をあげると、積もった雪も、夕焼けに照らされ朱の具をぶちまけたように染まっており、文飛の指先はニスを塗ったように艶めいていた。腹に突き刺さった白刃にそっと手で触れると、その感触が生々しく体の中に伝わってくる。まだ刀先は微かに冷たく、切り裂かれたばかりの肉は、その刃先にベッタリとまとわりついているのが分かった。

 

 地に這いずりながら、顔を上げる、向かいの蝶の間は戸が開けられており、中には文淑と芳梅の姿がはっきりと見える。

 文淑はたしかにこちらを見ている。

 遠くにいながら目があったこともわかった。

 その顔つきはよく見えないが、ただ退屈そうに顔を背け、まるで業火の中の地獄の門が閉ざされるように蝶の間の扉は閉じられた。

 

 その途端、目の前の景色が一瞬白黒に見えた。

 兄がくれた翠玉色の衣が黒く染まっていく。

 

 父の顔が浮かんでは、消える。

 

 兄や父が、優しく愛撫してくれた肌が、熱を持って虚しく疼く。


 その虚しい熱にさえ、自分は幸せを感じざるを得なかった。ただそれだけにしか、自分は幸せを感じられなかった。父の目が自分を見ず、兄の目も自分を見ていない。ただ行き場をなくした熱だけが、形をもって自分の中に流れ込んでくるだけなのに。

 

 整然と並べられた高級な調度品は、持ち主を満足させるための玩具のようで。文飛は見ていて哀れになった。


「お前たちと、同じだ……」

 

 文飛はそう呟いて、血のついた指先で涙を拭った。赤く染まった翠玉の上着を見て、兄が自分を緑の部屋で愛撫し、体を重ね、緑の衣を買い与えたことの意味を、文飛ははじめて理解した。

 

 とたん、鉄の臭いが鼻を撫でる。頭の中でふわりと緋色の蝶が飛んだ。体の中から蝶が溢れだしてくるように思えた。体は軽くなり、今すぐにでも飛べそうだった。

 

 いっそ、壊してしまおう。

 この鳥かごを壊して、空高く飛び立とう。

 

 文飛はゆっくりと立ち上がった。

 日はもうすぐ沈み、暗闇が迫ってくる。


 侍女が知らぬ間につけたのか、蝋燭台には朱の具色の炎が、吹けば消えそうに灯っていた。

 

 文飛は玉翠色の上着の袖を炎の上に晒した。流麗な刺繍を施している袖は、黒く焦げると弾けて火花を散った。

 文飛は袖の燃えた衣を被いた、極上の絹衣は髪が焼けるような苦い匂いを放ち、鼻の奥でくすぶる。

 

 「弾けて消えろ」

 文飛は心の中で唱えた。足取りは翅のように軽やかで、鱗粉を撒く蝶のように、広げた衣からは火の粉が舞った。

  

 そうして文飛は、まるで光を浴びて飛ぶ蝶のように、衣をはためかせながら、蝶の巣に渡り、飛び回った。

 

 ✿✿✿

 

 暗い闇の中、八棟の部屋が大きな炎柱を上げて燃え、暗闇を引き裂く光の中で、八色の衣に身を包み、美しく舞いながら走り回る人影は、真夏の空の下で、花を転々と移動する蝶のように見えた。

 琴線が焼ききれた楽器のいびつな旋律に乗せて、その蝶は、燃え尽きるまで踊り続けた。




〈蝶の舞〉終







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