〈蝶の舞〉十三、【蝶の愛咬の痕】

十三、【蝶の愛咬の痕(ちょうのあいこうのあと)】

 

 兄は怯えていた。兄の体には、蝶が噛んだ痕があった。自分が父からつけられた痣を、父は蝶が噛んだ痕だと言った。父の趣味がどんなことなのか今では分かっている。そして、父にとって自分が一番のお気に入りで、碧兄上や淑兄上がそうでないことは分かっていた。自分は特別だといつも、言い聞かされてきた。そうして父が亡くなったあとは、兄が自分を特別に扱ってくれた。そうであれば、兄はあの日、父の特別になれたのかもしれないのに、なぜ抵抗したのか。

 

 兄がいい息子でなかったからだろうか。

 違う。

 でも自分にはわからない。

 父の愛情という、歪んだ代物を受け入れてしまった自分には、わからない。

 

 まぶたの裏で蝋燭の光がゆらゆらと揺れた。この目を開くとまたあの光景が広がっていそうで、瞼は金縛りにあったように開かない。しかしその時ふっと体が軽くなり、沼の中から浮き上がるような心地がした。重たい体は生暖かな沼の底から一気に抜け出して、文飛ははっと目が覚めた。体は変にだるく、じっとりとかいた汗が一気に冷えていくのが分かった。

 文飛は寝台に寝かせられていて、文淑が寝台に腰かけて弟の様子を見つめていた。文飛が無事に目覚めるたことを確認すると、文淑はほっと息をつき、いつものように優しく笑いかけた。熱は無いようなのにいきなり倒れたので心配したとの旨を兄から聞き、文飛は自分がすべてを思い出したことを兄に告げた。そうして兄があの日、どうして父と取っ組み合いになったかも分かったと兄に告げた。文淑はそれを黙って聞いていた。文淑は文飛に背を向けて座っているので兄の顔は見えなかった。

「だから、僕が熱を出さなければ良かったんですね。そうすれば、父上は、僕のところに来てくれました。だから、兄上は、親不孝な息子ではありませんよ」

 文飛は閨の中に垂らしてある灯籠を見つめた。文淑は小さく項垂れて、文飛に父の事が好きだったか聞いた。

「父上は、僕を愛してくれました。大切な父上でした」

 それを聞いて文淑はかっと目を見開いた。そうして弟の顔を見ると、弟の目は潤んで、目尻から涙がこぼれ落ちていた。

「でも、兄上は、そうでなかったんですね」

 文飛は消え入りそうな声で言い、文淑は静かに頷いた。

 

 父に抱かれている間。体の中では蝶が舞っていた。父の言葉は優しくて、父の手は優しくて、それだけはしっかりと覚えていた。だがそれが兄を苦しめ、それが父を死へと追いやる原因ともなった。自分の中での父の面影は奇妙に歪み、幼い頃の記憶がすべて無理矢理にねじ曲げられていく。自分の奥底にあるものがぱちんと弾けた気がした。蝶の羽がバラバラと崩れ落ちていく。

 

「だって、僕が全部悪いんだ。兄上を苦しめて、弟を苦しめて、父上を殺して、蝶の巣だって歪んでるんだ。ないほうがいいものなんだ。もう何もかも、ぐちゃぐちゃだ。こんなことを続けていたらッ。みんなみんなおかしくなってしまうっ」

 

 文飛は頭を振り動かしながら、喚いた。自分自身への戸惑いと、父への嫌悪が交互に心を砕いた。蝶の巣を作るのだって、どうしてはじめようと思ったのか、綺麗なものがずっと綺麗なままであっと欲しいと思ったからだ。兄たちと違って美しい自分が父から気に入られているから、自分がいつまでも美しくいられると信じるために作ったものだ。それは紛れもなく、兄たちを見下していることの証明であり、自身の愚かしい部分の現れだった。

 遠巻きで文淑の声が聞こえた。頭の中には叫びながら下男たちに抗う文景の顔が浮かんだ。奇妙に歪んだ美しい娘の顔が浮かんだ。

 

「文飛!」

 

 唐突に兄の声が頭に響いた。それは、文景を叱責したときのような、熱のこもった芯のある声で、見ると、今まで見たことの無いような険しい表情だった。

 

 文飛は上がった息を精一杯押さえながら兄の顔を見上げ、文淑は文飛の肩を押さえ、まっすぐに文飛を見つめていた。そうして文淑は何かを必死に訴えかけていた。顔は感情に歪み、後悔や哀しみがそこからは読み取れるが、言葉は遠巻きになって文飛には聞こえなかった。

 ただそれでも、その目がまっすぐに自分を見つめていることは分かって、安堵できると思った。ただ、兄の美しい瞳に、自分の姿が映り込んで、心の中まで見透かされてしまいそうに思ったその瞬間、一瞬その視線が自分をすり抜けて、何か他のものを見ているような気がすると、途端に心が凍てついた。

 その一瞬の侘しさが、心の中にずっと漂って自分を苦しめる。

 もっと、見て欲しい。文飛は欲しくなった。きっと兄は自分のことを愛してくれる。黒々とした父の瞳は淀んでいて自分を映さなかったが、兄の瞳は透き通っていて、自分の姿をしっかりと映している。

 もっと欲しい、もっと近くに、兄の香りを。

 

 文飛は手で兄の体を引き寄せると、自分の身を半分起こしてゆっくりと口づけをした。やはり、文淑の香りは濃密で甘い。鼻の奥をくすぐるようで目の前がちかちかとする。兄の唇は涙で濡れていて冷たいが、口の中はねっとりと熱い。もっと奥まで、文飛は兄の頭に手を触れて首を傾け、熱く柔らかくなった唇もう一度重ねた。

 しかし、文淑は文飛の体を突き離した。文飛は小さな声で兄の名を呼んだ、兄の香りと、熱が自分の体から離れて、まるで、生きていける心地がしないほど心が激しく震えた。もう言葉は自分には届かない。昔から、体のふれあいだけが愛だと思ってきたのだから。心にぽっかりと穴が空く。早く、早く、暖めて。

 とたん、兄の香りがまた鼻をついた。兄の手が自分に触れると体の奥から熱い歓喜が吹き上がってくる。兄の大きな手はそのまま自分の頭を押さえて、髪をまさぐり、かき上げながら軽く首筋を撫で、もう片方の手は体に触れて、ゆっくりと凍てついた体を解きほぐしていく。そうして目の奥が溶けそうになって、歯の奥が震えた時、熱く、柔らかな唇がもう一度触れる。

 時に吹き出しそうになった声も、息も、すべて舌で塞がれて絡めとられてしまう。心はすべて満たされていくのに、だんだんと体が軽くなる。指先までじっとりと熱いのに体が震える。そのうち自分の体の中にある空気がすべてなくなってしまって、すがるように兄の体を激しく掴み、息苦しさにもがきもするが、それでも兄の腕は自分の体をきつく離さず、そのまますべてを絡めとってしまうようだった。媚薬で作った暖かい底なし沼の中へ悦のまま沈んでいき、体が溶けるようで、自分の中の物をもう何も抑えられない。

 そしてつかの間の一瞬、ふと体が浮かんで、頭の中で蝶がふわりと舞った気がした。

 

 気づくと兄は自分の額に口づけをして、頭を優しく撫で下ろしていた。文飛の目からは一筋の熱い涙が零れた。落ち着いて息をしても、体がさらに暖まっていく。文飛は兄の上着を引っ張って顔を刷り寄せた。もっと、もっと欲しい。

 文飛は兄の首もとに吸い付いて、優しく噛んだ。兄の上着の下に手を潜らせて引き寄せると兄がゆっくりと息をしているのが分かる。とたんまた、文飛のからだの中に熱い熱が流れ込んできた。呻きそうになった声を空で何度も噛み殺して、体でもがきながら耐えた。体は汗で濡れ、熱い涙が何度も頬を伝った。ふと兄の頭を引き寄せると髪紐がほどけ、兄の髪がふわりと体に振りかかる。濃い木蓮香の香りが体に溶け込んでくる。体の奥から熱い湯が吹き出してくるようで、また兄の体を強く掴んだ。すんで肌を引き裂くような痛み、兄の爪が自分の体に突き立てられて汗がしみる。電撃のような痛みもまた全て甘い匂いに掠め取られる。文飛は歯を食いしばって吹き漏らすように声をあげた。体の奥から何万もの蝶が痛いほど吹き出してくるようで、文飛は目を閉じた。

 目を閉じると、兄の唇が自分の唇に重なる。何度も、何度も。体は舵を奪われ、文飛は自分が蝶になった心地さえした。

 

 ✿✿✿

 

 ふと息をつくと、髪は汗で濡れ、体は脱け殻のように軽いようで、どこまでも沈んでいくように重かった。文飛は笑って、文淑のことを抱き締めた。文淑は文飛を受け止めると文飛の頭をまた何度か撫でながら、額を付き合わせた。子供の時と同じように文飛の額は暖かく、湯を入れた皮袋のようだった。文淑は文飛のことをあのときのように固く抱き締めた。文飛はその腕の中で丸まって、眠りについた。父の死に対する責任を分け合うようにして、ぬくもりを分け合って眠る。文飛がこの思いを分け合えるのはただ、文淑だけだった。

 翌朝、日が昇りきる前に文淑は目が覚めた。まだ寝込んだままの弟に一瞥くれてやると、頭を撫で、寝台から降りて床に散らばった上衣や上着を拾って袖を通した。解けた髪を少しかきあげながら、裸足のままゆっくりと歩くと、足で将棋の駒を踏みつけ、眉をひそめた。


 文淑はそのまま、何かに引き寄せられるように、昨日弟と一局交えていた卓子まで歩いた。碁盤を上から眺め見て、ゆっくりと目を細めた。昨日蝋燭の赤みある光に照らされていた碁盤は、朝の澄んだ白い光に照らされて、冷たく静まりかえっている。文淑は昨日、文飛が盤を倒す前までの局面の通りに駒を並べ直すと、一人将棋を打ちはじめた。

 緩く巻いた文淑の髪は細い息に揺れ、瞳は、澄んだ朝日を透かすように受けて、凍てついた有明の月のようだった。かちり、と一手うつ音が文飛の室に響いた。

 文淑はその着崩したままの姿で部屋を抜け、なんとはなしに蝶の巣に渡った、ちょうど金檀が部屋から出てきており。金檀は文淑の装いをみて、ふふ、と笑った。


「こんな朝早くに、他の姉妹に見られたら、どうしますの」

 金檀は甘い声で呟いて、細く息を吐いた。

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