〈蝶の舞〉十一、【歪】その②


 

「覚えてないのか……。あの日は、吹雪のひどい日だった。お前は熱を出して、寝込んで、碧兄上も看病に加わった。私はその頃、父上の部屋に呼ばれてね。でもちょっとしたもめあいがあって、父上と取っ組み合いになった」

 文飛ぶんひの頭の中はまだ靄がかかったようで、まるで、他人の話を聞いているような心地だった。

 

「あんまり私が暴れたんで、お前は起きてしまって、部屋まで来たんだ。それで、まぁ私は腕力で父上にて勝るわけがないからね。覚えていないが、“助けて”とか、何かしら、そういうことを言ったのかもしれない。そうしたら、まず、本棚が揺れて、上に乗っていた白磁の壺が父上の頭上に降ってきてね……。父上は倒れ、その後急に扉が開いて、本棚が倒れた。父上は下敷きになったんだ。始めは私との取っ組み合いのなかで倒れてしまったのかと思ったがね。ほら、あの、扉の横に置いてあった本棚、あれだよ」

 文淑ぶんしゅくは少しずつ、自分の身を削るように話した。だがやはり、文飛にはこの話も他人の話をしているように思えた。


「私が兄上を助けようとして、父上を? そして、私はその事をすっかり忘れてしまっていたのですか」 

「いいや違うよ、私が、嘘をついたんだ」

「嘘を?」

「父上は、盗賊に殺されたってね」

「どうして」

「言えなかった。そんなこと、弟に。それに、父上と取っ組み合いをはじめたのは私だから。なんなら、私が悪いんだ」

「なぜ、父上と取っ組み合いに?」

「なぜかって、なぜか……」

 とたん文淑は、痛いところをつかれたような顔をした。視線は卓子の下にそらされ、文淑の細く長いまつげがよく見えた。まつげは蝋燭の火を受けて薄く光り、夕焼けに焼かれるすすきの穂のように見え、文淑の白い顔に灯籠の赤みある光が浮かんでいた。

 

「ここで、へき兄上なら、何て言うだろうかね」

 文淑は小さな声で呟いた。

「碧兄上ならきっと、何か良い言い回しを知ってるかもしれないけれどね……文飛。そうだね。私があまりいい息子じゃなかったから悪かったんだよ。だからほら、私が父上を殺したのと同じことだよ」

「……きっと」

 その一言だけ、文淑は少し疲れたような言い方をして、ついと遠くを見つめた。しかしすぐにいつもの面持ちに戻ると、椅子から立ち上がり、落ち着いた所作で象棋の駒を拾いはじめた。もう当分何も喋りたくないからなのか、文淑は文飛に背を向けて黙々と駒を拾っていた。ただ、文飛はこの兄こそもっとも報われない人だと思った。弟の母を殺したという罪に苛まれ、弟に父を殺されたのに、今度は罪の矛先を自分に向け粛々と耐えている。文淑が立ち上がると、二人は目線があい、文飛は目の前の兄をじっと見つめた。兄の目は色が薄く、まるで琥珀の宝玉のようで、文飛は小さく息を吐いた。

 今、この孤独な兄に優しい抱擁をくれてやりたい、文飛はそう思って兄の骨ばった大きな手を掴んで引き寄せた。

 しかしその刹那であった、文飛は文淑の木蓮香が鼻を撫でたのに体がこわばって動けなくなった。考えてみれば、この兄は一度として自分とのふれあいを求めなかった。そして自分もなぜか、今までこの兄にはには触れようと思えなかった。触れてはいけないと感じていた。心では一番の頼りにしていたのに、なぜかこの兄の体には熱などないように思えた。文飛は頭の中がぐちゃぐちゃになって、掴んだ兄の手をぱっと離した。

「兄上、私は……」 

「いいんだよ、文飛」

 文淑はそういうと優しく微笑み、文飛の白く細い手を優しく掴むと、ゆっくりと引き寄せ強く抱き締めた。だが、文飛の体は兄の腕の中に居ると酷くこわばった。息もできないほど体は緊張し、腕は小さく震えた。やっとのことで小さく息をすると兄の纏った香の香りが鼻を撫でた。兄の木蓮香の甘い香りは鼻を寄せて近くで嗅ぐと、甘さよりも爽やかで濃密な芳香があり、どこか懐かしい気持ちがした。

 

 そうして落ち着いた文飛は兄の体に身を寄せてゆっくりと目をつぶった。厚着の衣越しに、兄の体の熱をじっとりと感じていると、兄の手が何度か優しく背を撫でたのが分かった。

 

 木蓮香の匂いと兄の声。優しい腕。なにか、懐かしいような心地がして、頭の中で何度か水が吹き出しそうになった。

 

 

「―――ごめんよ、兄さん、父さんを守れなかった。ごめんよ、ごめんよ。ごめんよ……

 」

 

 幼い兄の声だった。

 

 とたん頭の中で吹き出しそうになっていた水は関が崩れたように溢れだし、記憶の波となって押し寄せてきた。


 衣をほとんどの剥がされて震えている兄、割れた青磁と白磁の破片。倒れた本棚、倒れた父の不気味な瞳。血だまりに映る蝋燭の炎、兄の涙と悲鳴が走馬灯のように駆け巡った。

 とたん文飛の体は支障をきたしたように動かなくなった。体から熱がするりと抜けていくようで、底無しの壺のように体温も感情も流れ出た。堕ちる。

 文飛が最後に聞いたのは、兄の呼び掛ける声と自分が床に倒れる音だった。

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