〈蝶の舞〉十二、【歪】その①
十二、【歪(いびつ)】
考え事がしたいと告げたものの、頭のなかでは何にも考えられることなどなかった。ただ、蝶の巣というものが、この世にあるべきものではないという弟の主張は、鮮明に思い出すことができることのひとつだった。兄二人は文景に対してやめろとは言ったが、蝶の巣が素晴らしい、だとか、あるべきもの、だとか、文飛を肯定する事は言わなかった。自分の蝶の巣は兄弟のお陰でこの世に存在しうることは分かっていた。しかし、その蝶のうちの一人が弟に殺されてしまった。蝶たちは、弟の言うとおり、淫乱な女たちなのだろうか。
文飛も女を女として一筋に見つめたことがあった。しかし、その女と自分が蝶として扱っている女とは、その存在の価値に雲泥の差があった。ただもし蝶たちがすべて、あの女たちと変わらないとするならば……。文飛は身震いした。それならば自分が作り上げた蝶の巣とは一体なんなのだろうか。
ただ、ゆっくりと自分が蝶として選んだ女性たちを思い返してみるとなかで、彼女たちはどうもそうではない、という確信めいたなにかが文飛にはあった。ただ、一人、文景にはその事が伝わっていなかったようだ。にしても、文景が文飛にとって大切な、あのいがぐり頭のかわいらしい弟であることには変わりなかった。だがしかし、やはり霖鵜を殺めたことも許しがたい。文飛はゆっくりと目を瞑った。ゆっくりと息を吐き、ゆっくりと吸った。するとまぶたの裏から、じりじりと日が沈んでいくのが見えた。すとんと、目の前に音もなく暗闇が落ちてきた。
✿✿✿
次に文飛が目を開けると部屋の中は灯籠がともされていて明るく、天井から釣り下がる八つの中ぶりの灯籠がゆらゆらと燃えていた。少し居眠りをしていたようなのに、なぜ起きたのだろうと思って外をみると、侍女が扉を叩いているのが分かった。侍女は文淑の来訪を告げていたので、文飛は部屋の中に招き入れた。文淑は先程とは違って、麻色の上着に紺色の着物を着ていた。両手には何かの道具一式を持っているようで、姿勢よく流れるような作法で卓子のそばまで歩いてきた。
文飛は安楽椅子に座ったまま兄を迎えた。文淑が持ってきた道具は象棋一式で、文淑は文飛に象棋を打とうと提案した。もちろん文飛には断る理由もなかった。それに、先程あんなに恐ろしい形相だった兄が、またいつもの優しい兄に戻っていたのに落ち着いて、兄の優しい声を聞いていると、心も少し落ち着いた。文淑に会うと、いつも部屋の光が暖かく熱をもってみえる。文飛はそう思っていた。
「珀秀(はくしゅう)兄上。どうして象棋ですか?」
象棋をはじめて十六手ほどになったときに文飛にはなんとなく勝つすべが見えた気がした。自分の象棋の腕を磨いてくれたのは文碧で、よほど上達が早かったのか、思えば象棋では文淑に負けたことは数えるほどしかなかった。
「喋り始めるということは、余裕ということかな。涼春(りょうしゅん)」
文淑は少し文飛をからかうような口調で言い。渾身の一手という風に駒を動かした。
「兄上は、僕と象棋をして楽しいですか。負けるのに」
文飛は落ち着いた声で、文淑の駒を端から取っていく。兄の渾身の一手もすっかり読みきれていた。
「負けるけれどね」
文淑は、盤の上で手を泳がせながら言った。
「負けるけれどね。私は、こんなものでもないと、弟と面と向かうのも難しいのだよ」
文淑は次の一手を打ちながら、落ち着いた声で言った。
「難しいというのは、どういう意味ですか?」
気難しそうな兄の声色に耳を傾けながらも、文飛は一手打ち、文淑の駒をまたひとつ取った。
「いや、昔から。……お前は環叡兄上のところへは行くけれど、私のところには来てくれなかったからね。勉強しか教えられなかったからかな。弟に構って欲しいお兄さんは、何か手土産でもないといけなかったからね」
文淑はそういい終えると、また一手打ち、文飛の顔を見つめて微笑んだ。文淑が笑うと少し顔がくしゃりとなり、頬にえくぼが浮かぶ。
「それは、なんだかすみません」
文飛は少し気恥ずかしそうな顔をしてまた一手打った。
「……文飛、お前の質問に、全部正直に答えるよ」
文淑はそう言うと、文飛の駒をひとつ取った。文飛は名を呼ばれたので驚いて、伺うような顔をして、兄の顔を見つめた。
地いいと同時に物足りなさがあった。
ただ、自分には、支えてくれる兄たちが居ないと蝶の巣をこれからも維持することはできない。と考えて、ふと、なぜそう思うのかと自分に問いかける。『自分でも分かっているからだろうか。“蝶の巣は不可思議なものだ”』と?……とたん、何に対してか、心の中に浮かんだ嫌悪感は体をひしひしと痛め付け、体が酷くこわばった。
文淑は文飛の言葉を聞いて、一瞬矢に射ぬかれたような顔をしたが、まっすぐと弟を見つめると、ゆっくりと、一言一言、言葉を飲み込むように言った。
「文飛、私は、お前のことを大切な弟だと思ってるよ。だからね……。大丈夫」
なぜだろう。文淑はいつも、自分の言って欲しい言葉がわかるようだと思った。兄の透き通った瞳、陽光のような朗らかで海の底のように深淵な声、身体中固くなって喉から出そうになった心臓が、羽毛でゆっくりと撫で下されるような心地だった。ふいに体の力が抜けて、文飛は安楽椅子に持たれかけると、兄の顔から目をそらした。心の緊張がほぐれると自然と視界がかすんで、蝋燭の火だけがゆらゆらと輝いて見えた。兄のその言葉が、今にも崩れそうな心を引き留めてくれた。そんな気もした。
しかし、文飛にとってまだ心残りな事はあった。それは文景が声高に叫んだ“父殺し”の件だった。そしてそれに何よりも敏感に反応したのが、今目の前にいる文淑だった。文飛はそっぽを向いたままその事について兄に尋ねると、顔を背けていても、卓上に置かれた兄の手がかすかに震えるのが視界の隅に写った。
「文飛。お前はまだ幼かった。覚えていないのも当たり前だし、あれは、事故だった。景はそれを、少し誇張して、悪い言い方をしただけだよ」
「私に父殺しのことを隠していたのは、私を守るためですか……。兄上は、本当の事を知っているんですね」
文飛はゆっくりと兄の方を見ると、兄と視線がぶつかった。文淑は黙ったままで、口を開いても、何か言いかけて、またすぐに閉じた。
「ちょっと待って欲しい。話しにくいことだから」
「兄上は、その場所にいたんですか?碧兄上も?」
「いいや、兄上は居なかった」
「淑兄上だけが知っているんですね。どうして」
「ちょっと待ってくれないか、文飛」
「僕は、もう守られなくたっていい!教えてください」
とたん文飛は勢いよく立ち上がり、卓子に当たったので、卓上の駒がバラバラと崩れ、半分ほどが床に散らばった。
象棋の駒が床に散らばる音はまるで、文飛の心の関が崩れる音のようだった。それは呆気なく、突然で、今まで積み重ねてきたものをすべてどぶに捨てるようでもあった。そんな弟の姿を見て、文淑は苦虫を噛み潰すような顔をし、ゆっくりと語りはじめた。
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