〈蝶の舞〉十一、【不信】

 

十一、【不信(ふしん)】

 

 見つけたのは荷物を屋敷から運び出す下男だった。霖鵜りんうは屋敷の端にある、池の水を流す水路に引っかかって、浮かんでいた。

 文飛ぶんひはすぐに駆けつけて、その姿を見た。溌剌な少女は今や力なく、青白い顔をしてぐったりと横たわっていた。顔は苦悶に歪み、まるで生きていたものだとは思えなかった。文飛は死んだ蝶を見るたびにも同じ気分になっていた。死んだ蝶はまるで生きていたものとは思えない。それはひとつの装飾品であり、美しき調度にすぎなかった。だが、霖鵜はどうだろうか、まるで美しかった蝶だとは思えない。醜態と人間臭さに憎悪の念すらよぎった。霖鵜の命を奪ったものは自分から美しい蝶を記憶ごとまるごと奪ったということだ。文飛の中で押さえられぬ怒りが沸々と沸き上がってきた。

 文飛は医者に霖鵜の体を渡し、その死因を探った。池の中に落ちていたことから、溺死だろうと蝶たちは言っていたが、医者が霖鵜の衣を剥ぐと身体中につねったような紫の内出血や皮膚が裂かれた出血痕を確認することができた。医師に検死される霖鵜の体は生前の艶がかったものと異なり、妙に青白く、まるで乾いた豚の皮を切り貼りして作った醜い操り人形のようだった。そして現れた結果は姦淫による死であった。月経の週でもないのに下衣に血がついており、また陰部にいくつかの傷もみられ、霖雨は生娘ではなくなっていたので、これによって謎はさらに深まった。蝶の巣の中には男は文飛しか入れない。その他に出入りが自由なのは兄二人と弟、下男数名だけだった。初め下男や侍女たちは盗賊等による不慮の事故を想定したが、盗品がなにもなかったためその説は却下された。そして次には下男たちが疑われたが、昨晩は全員出払っていたということでこちらも却下となり、犯人の探索は難しく思われたが、芳梅が「昨晩、蝶の巣で文景ぶんけいを見かけた」と言ったことで事態は急転し、文飛は文景を追求するために兄弟四人で集まった。

 

 一番初めに部屋に入ってきたのは文碧だった。その次に文淑が入って来て、兄に暖かい茶を入れた。そして、最後に文景が現れ、順に席についた。文飛は事情を説明し、芳梅の証言を伝えた。すると、文淑は大きなため息をつき、灰色の上着の袖をはたつかせて、膝の上をはらった。

涼春りょうしゅん、まず、兄弟に疑ってかかるのはよしなさい。血を分けた兄弟が、なぜ、お前の蝶の巣を汚すような真似をする」

「しかし、盗賊が入り込んだ等ということはないのですよ」

 文飛は眉をひそめ、文景の方を睨んだ。自分がにらまれていると分かった文景は苛立ちを隠せぬ面立ちで卓子をバンと叩いた。

「私を疑うのですか、兄上は……。そもそも、では、女が自らそのようなことをして、死んだということはありますまいな?蝶の巣の女たちは生娘きむすめだが、女は女、性にうつつを抜かし、自分から淫行に手を染めたのでは?そもそもここにいる女どもは」

 とたんに聞きかねた文淑が声をあげた。

厳辰げんしん、やめなさい」

 兄に名を呼ばれると、文景は頭を震わせながら、ゆっくりと拳を握りしめた。

 

「蝶たちは、そのような女たちではない。それに、霖鵜の体にはつねったような青痣がいくつもあった」

 文飛は少し動揺したようなそぶりをした。指先が小さく震えたので、藤色の衣でさっと隠した。しかし、文景はそのしぐさを目にとめ、さらに食いかかった。

 

「涼春兄上は、女の何をご存じで?蝶の巣の女たちは俗世の女と違うのですか?年頃の女が、世に言う寵愛を受けられずに、よほど陰気が溜まったのでしょうよ。青痣も自分でつけたものじゃありませんか。そもそも、淫乱な女たちをこんなところに閉じ込めておくのが間違いな……」

文景ぶんけい!」

 今度は文碧の声だった。いつもの優しげな兄と違って、研ぎ澄まされた剣のような鋭い声だった。兄の怒号めいた声に、文淑、文飛は驚いて一瞬すくみ、じっと長兄の姿を見つめた。文碧は咳を一度なげやりに吐き出すと、卓子を三本指でとんと叩いた。

「では、お前は蝶の巣にいる女たちの何を知っている」

 今度はいつも通りの優しい声で文碧は話したが、文景はすっかり頭に血が上っていた。

環叡かんえい兄上が女性について語られるのですか。結婚もせず、女たちには杜撰に扱われ、まともに女に触れたこともない兄上が、それを語るのですか?」

 そう、文景が言い放ったのを聞いて、文飛は思い出したように呟いた。

「霖鵜は、あの日も兄上のところへ行った」

 文飛は呟いたあとすぐさま立ち上がってそれをもう一度繰り返すように叫んだ。

「あの日も霖鵜は、兄上の元へ練り油を塗りにいった!」

「なぜ、霖鵜が兄上の所に練り油を塗りに行くのですか」文淑は少し急いたような声で尋ねた。

「霖鵜は兄上の病気を恐れていなかった。だから、兄上の所に遣わせた。一ヶ月ほどになるだろうか、霖鵜の体裁を気にして、誰にも言っていなかったが」

 夜になって、文碧の部屋を訪れる人は居なかった。そもそも文碧は自分の病気を気にして、大抵は屋敷の別館に居り、侍女たちや下男たちも好んで近づこうとしなかった。

 それを聞いて文淑は下唇を噛み、文景は高らかに笑った。

「環叡兄上が、今まで女にも触れたことのない兄上が、そのような優しい女と一ヶ月も夜を共にしたと。情がわき、粗相がないはずがありませんよ。あげくに殺してしまったということですか。なんと、兄上は自分の罪を弟に擦り付けるつもりですか」それを聞くなり、文碧は下に俯いた。小さく息を吐き、目の前で自分を嘲笑う弟の顔をゆっくりと見上げた。

「私はそんなことは決してしない」

 その声を聞いて何かを吐き捨てようとした文景に、文淑は横やりをいれるように尋ねた。

「厳辰、それならお前はなぜ、蝶の巣に行った?今までそのようなことはあまりないように思えるが」

 その声に文景は鼻を鳴らした。

「変に嘘をついて疑われてもしょうがない。青の部屋に首飾りを取りに行ったのですよ」

 すると、文飛はすかさず言い返した。

「首飾りを取りに?青黛のものなのにか?」

 文景はそうやってわめく三兄に目もくれず、自分を疑る次兄の目にまっすぐ向かって言った。

「青い宝玉、しかもあれは上等な青金石。高額なものです。他の宝石はまだいい、だがあれだけは兄上に買ってやれるような代物ではありませんからね。私の財産は文家の財産とは違う。商いをしているんです。この蝶の巣もすべて、兄上の自己満足の賜物でしょう。哀れな涼春兄上は、何も知らない無垢なお人形ですか? 」

 文飛には弟の言っていることが、先ほどから自分にとって少しずつ理解しがたいものになっていることにきづいた。気づけば霖鵜の死に対する苛立ちでなく、兄弟に対する不信感と自分という存在に対する不安感がひしひしと沸き上がってくる。

「飛兄上の母様への償い?は、笑わせてくれますな、我々の父上を殺したのこそ、その文飛兄上だというのに!」

 そのとたん文淑が勢いよく立ち上がって文景の頬を打った。文景は、細身の文淑に打たれて勢いよく床に転げた。

「でたらめを言うな!」

 文淑は嘆息しながら、弟を見下した。

「でたらめとは、兄上たちの事を言うのだ!」

 文景は床につくばったまま文淑の顔を睨んだ。

 

 ✿✿✿

 

 文飛の頭のなかは一瞬白飛びしたようだった。先ほどから訳のわからない言葉ばかりが自分の前で飛び交っていた。いつもは穏やかな二兄が感情を顕にして、弟に殴りかかろうとしているのを、背の高く痩せ曝えた長兄が必死に押さえ込んでいた。

 「自分が父を殺した」「母上への償い」一向に意味のわからない言葉が頭のなかで回った。目の前の光景はそのうち音を伴わない映像のようになって見えた。頭のなかで何かがちりちりと燃えて見えた。なにかが暗闇のなかで光って見えた。父の顔、浅黒い瞳が、生気を失って床の上に倒れているのが見えた。これはいつの、一体いつの記憶なのだろうか。

 文飛が頭を抱えたそのとき、部屋の扉が開き、金檀きんだん青黛せいたいが順に部屋に入ってきた。とたん部屋には香木の爽やかな香が漂い、四人は突然の来訪に呆然としてその二人を見つめた。そして金檀きんだんは、猫が鳴くような甘い矯声で言った。

 

「ここにいる青黛せいたいが、厳辰様を夜明けがたの蝶の巣でも見たと言っております。末の妹の言うこと故、私がついて参りました。」

 金檀は頭を垂れ、ゆったりと一礼をした。礼に合わせて、額の近くにある金の垂れ飾りが妖艶に光った。

「女め、でたらめを言うな!」

 文景が、声を荒げて叫んだが、青黛は凛とした顔をして一歩前へ踏み出した。

「冗談や、でたらめではありません。さぁ、出ていらっしゃい。」

 青黛は深い青色の上着の袖を整えてから廊下側をちらりと見た。そうして、部屋に入ってきたのは文景づきの侍女であった。その侍女の顔を見たとたん、文景は動揺を隠しきれぬ様子で、何かに突かれたように一歩前に進み出た。その侍女は文景に視線を少しやると薄緑色のスカートを手で持ち上げて床の上にゆっくり座り、四人に頭を下げた。

「私は、厳辰様づきの侍女、花衣かいです」

「花衣、なぜここにいる」

「花衣、続けなさい」

 青黛は文景の声を絶ち切るように言うと、花衣が恐る恐る話し始めた。

 

「昨日。旦那様はおっしゃっていました。蝶の巣など終わらせてやると、まず手始めに、蝶を姦淫してやろう。と。厳辰様はそのために、疑り深くない、霖鵜様を選び、姦淫なさりました。私は、その間中ずっと周りを見張り、事が終わったあと、霖鵜様の亡骸を池に運ぶのを手伝いました。不肖な者共ゆえ、池に投げ捨てれば、溺れ死んだと勘違いするだろう、と」

 

「霖鵜様の、あんまりにも痛ましいお姿、旦那様は……」

 そういい始めたところで花衣は崩れるように泣きはじめ、それを聞いた文景はもう何を言うわけでもなくじっと椅子に腰かけて動かなかった。目はあらぬ方をみつめ、魂が抜け落ちてしまっているようだった。

 花衣のすすり泣く声と、落ち葉が庭を這う乾いた音が文飛の頭の中にじっとりと染み込んできていた。いつぞや倒れたのか知れぬ湯飲みから茶がこぼれ、机の上からその雫がポタポタと床に垂れていた。卓子の上にこぼれた茶は、座り尽くす弟の後ろ姿と、立ち尽くす兄二人の姿を逆さまに、まるで安っぽい写真のように単色に写し出していた。

 文飛の頭のなかでは理解したいのか、したくないのかわからない多くの言葉や感情が浮かんでは消え、滝壺で右往左往する落ち葉のようだった。浮かび上がった落ち葉は、上から降り注ぐ激しい濁流に飲まれ、沈む。そのうちもう浮かんでこられなくなって、川底のヘドロになるまで、何度でも水に飲み込まれて漂う。

 そのうち、文景の処分をどうするか兄が尋ねたのが分かった。もう二度としないと誓わせるか、いや、誓わせるだけでは足りないだろう。文飛は呆然としたまま、文景を去勢するように言った。そして文淑はそれに反対したが、文碧の決定で文景は去勢されることが決まった。文景は宦官と同じように、陰茎と陰嚢を取り除かれることになる。それを聞いて文景はひどく暴れたが、下男たちに取り押さえられて外に運ばれた。そして、翌日には近くで商売をしていた医者がやって来て腕を振るった。気候が涼やかな秋こそ、手術に最適の季節だった。手術が終わると文景は頭から下を土のなかに埋められて、動くことは許されなかった。

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