〈蝶の舞〉十、【蓮池の浮草】
十、【蓮池の浮草(れんちのうきくさ)】
秋、雨がしとしとと降り続き、文家の瓦屋根を叩いていた。回廊に出ると、外界と廊下を隔てるように瓦をつたった雨水が滴り落ちる。この日は珍しく
「これは、なかなかだよ。でも、少し手直ししよう」
文碧は熱い茶をゆっくりとすすった、顔はにこやかに微笑み、あかぎれた手で筆をつかむと、文飛の描いた竹に少し枝葉を付け足して、立派な墨絵に仕上げた。
「すごい、あんなに禿げ散らかしていたのに、すっかり逞しい
文飛は兄の手際を見て真似てみたが、やはり竹というよりは何かの樹木らしい珍妙な植物にしかならなかった。そんな弟の進展しない絵の手際を見ても、文碧は笑った。
何枚か珍妙な植物を書いてから文飛は筆をおき、文碧の顔をまじまじと見つめ始めた。秋は空気が乾いていることもあるのか、文碧は唇までただれてあかぎれていた。先ほどから文碧が何か言ったり笑ったりする度に、その傷口から血が滲み出てきそうで痛々しかった。そしてふと、女たちが日頃言うことを思い出した。
「よく女たちが、
文飛は一つ一つ思い出すようにゆっくりと言葉を連ねた。
「でも、兄上は、ちっとも可哀想でも、哀れでもない。いや、羨ましいんですよ」
「それは、病気だから、みんなにちやほやされるということかな?」
文碧は一丁前にふざけて見せた。
「哀れむという時点で、それは、兄上を見下していることになりませんか、可哀想だというのも……。私は、器楽や絵画の才能を持っている兄上の事が羨ましいんですよ。兄上は、自分のことを可哀想だと思ったことはありますか?」
文飛は至って真剣だった。文碧はそんなことを考えたこともなかったので少しきょとんとした顔で弟を見つめた。気づけば絵筆から墨が垂れて、紙の上にじりじりと広がっていた。
「誰かを可哀想だとか、そういうことを思っていいのは、自分自身だけでは……、あ!それでは、珀秀兄上はやはり、どこかで、兄上を見下していますよ」
「そうだね。でも、見下されるのも悪くないよ、期待もされないからね。のびのびするのが一番だよ」
文碧は少し苦笑いして、絵筆をゆっくりと置いた。
「期待されることはいいことでは?」
文飛は少しうかがうようにして兄の顔を見つめた。
「ごめんね。文飛、兄さん間違ったことを言ったよ、忘れておくれ」
そういって文碧は上着の袖で手を隠して腕組みをした。
「ねぇ、じゃあ、今、文飛は自分の事を哀れだと思うかい」
「いいえ、そうは思いません」
文飛は屈託なく笑った。そうして立ち上がって、兄の後ろに立ち、痩せた兄の細い肩を優しく撫でた。
「それは……よかった」
文碧は弟の綺麗な指に触れ、肩に触れている手をとんと叩いた。ゆっくりと目をつぶり、首を傾け、小さく息を吐いた。文飛はなんだか感慨深くなって病気がちの兄の肩を揉んでやった。いつも寝台に横たわっているせいか兄の肩はひどく凝っていた。
外ではしとしとと長雨が降り続いていた。外は薄暗く、灯籠の火で油を塗ってある兄の髪が艶々として、まるで雨にでも当たったようだった。兄の髪は花油の香りがし、首は白く細く、うなじにもただれが広がっていた。急に長年世話になった長兄への恩情の念が吹き出してきたようで、文飛は細い兄の体を後ろから抱き、肩に顔を乗せて身を委ねた。それに気づいた文碧は頭をもたげて弟の頭に添えるようにもたれかけた。兄の衣からは落ち着いた香りがする。なにとも言いがたい、いくつかの香が複雑に絡み合っていながら整然と纏まった香りだった。
「文飛、お前は、兄さんたちが守るから」
文碧の弱々しい声は、なぜか耐えられないものがあった。
自分は哀れでないのか、兄たちに守られて、この屋敷に守られてきた。ふいに心の中に黒い淀みができたような気がした。
その心の淀みをたちきるように、威勢よく部屋の扉が開かれた。立っていたのは緑の衣を着た霖鵜だった。
「旦那様!雨だよ、
「あら、大旦那様も!」
霖鵜は溌剌な娘だった。皮膚病にかかった文碧を見ても、他の女たちと違い嫌遠したりしなかった。霖鵜は文飛に駆け寄ると、にかっと笑った。
「旦那様、手が疲れたでしょ、私が大旦那様の肩を揉むわ」
霖鵜は文飛を押し退けて椅子に座らせ、文碧の後ろに陣取った。
「悪いなぁ、いいのかい、こんな私に」
文碧は朗笑し、鼻頭を人差し指で掻いた。
「とんでもない、大旦那様の服と私の服はお揃いだもの!」
霖鵜はそういいながら、文碧の肩をはたはたとたたいた。
「こんな娘ばかりだったら、私も縁談の一つや二つ、快く受け入れるのだがね」
文碧は乾いた声を張って、冗談めかして言った。霖鵜は至って構わない風にてきぱきと上手く肩をもみ、霖鵜はその後文碧のためだといって白い練り油を持ってきた。元々霖鵜はここに来る前、屋敷の下女をやっていて手足があかぎれだらけだったので、文飛が医師を遣わせて処方したのがこの薬草を練り込んだ練り油だった。霖鵜はそれを手にふんだんにつけると、文碧の手や、首、唇にたっぷり塗ってやった。文碧を恐れずに、ここまで親しくしてくれるものは侍女にも蝶たちにも一人もいなかった。そこで文飛は霖鵜に、兄の体に練り油を塗る、という仕事を与えることにした。文碧は一瞬困った顔をしたが、弟の好意を断りきれず承諾した。
その次の日から、霖鵜は夜になると練り油を持って文碧のところへ行くようになった。
✿✿✿
それから一ヶ月がたった。その日も長雨が降る夜だった。文飛はその日、
霖鵜が文碧の元に通っていることは秘密にされていた。霖鵜がそれによって他の女性たちから嫌遠されるのを防ぐためにと、文碧の気遣いであった。文飛が指で合図を出すと、霖鵜の頭の影がゆらゆら揺れたのが見えた。扉は閉められ、溌剌にぱたぱたと駆ける足音が遠巻きに聞こえる。垂らした三つ編みを揺らしながら兄の部屋へと駆けていく霖鵜の姿が目に浮かんだ。しかしその次の日、霖鵜は姿をけした。兄の部屋にもその姿はなく、自室である緑の部屋にも居なかった。そして、昼頃、霖鵜は変わり果てた姿となって見つかった。
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