〈蝶の舞〉九、【長兄の願い】

 九、【長兄の願い(ちょうけいのねがい)】

 

文淑ぶんしゅく文飛ぶんひは今、幸せだろうか」

 兄の消え入りそうな細い声に、文淑は打たれたように顔を上げた。文碧は乾いた咳を噛み殺すと、苦しそうに頭をもたげた。

「なぜそんなことを言うのですか」

 自分がつい落ち着きないそぶりをしたことを分かった。文淑は、一度小さく息を吐いてから書籍を手に取り、兄の方を見つめた。遠くでは、淡姉妹たんしまいの連弾の琴の演奏が川のせせらぎのように響きなっていた。

「蝶の巣はやっと完成した」

 文碧は少し憂鬱そうな顔をして、寝着の上から薄い上着を羽織った。文碧の指は皮膚病のためガサガサで、所々あかぎれになっているのが上着の布地にひっかかっていた。

「完成しましたね。やっと……ですから兄上も、もう結婚してください。文家といえば、嫁いでくる女性は、多いでしょう」

 文淑は兄の手をゆっくりとつかむと、上着に引っ掛かっているのをはずして、何度か優しく撫でた。

「淑、いればいいさ、こんな病気を持っている私に、嫁いでくる女ほど惨めで、哀れなものはないよ」

「兄上の病気は、うつるものじゃあありません。それに、少し肌が荒れているだけで兄上は元気ですから。子宝にだって恵まれますよ」

 文淑は、寝台の戸棚から油の入った器を取り出すと文碧の手に塗りはじめた。

「兄上は、この病気を少しでもよくしようとお思いか? つもりがあっても、なにもしなければひどくなります」

「もう、諦めた。もう、とうの昔に……」

 文碧の声は大人びていて、乾いていた。兄のあかぎれた手は、墨をつけたまま固まった筆をさわるような心地だった。諦めたと言い捨てた兄の顔を見上げると、その言葉に真実味を帯びさせる乾いた兄の瞳があった。文淑には、これ以上何も言うことはできなかった。

珀秀はくしゅう、文家の財産は残り少ないんだろう。」

 文碧は文家の当主をしてはいるが、財産についてはすべて文淑が担当をしていた。文淑は何度か咎めたが、文碧が蝶の巣を作るためにいくらでも金をかけて構わないとしてきたので、その通りにして来た。中途半端にすると、文碧から何度か注意されたこともある。

「父上が遺していたものはほとんど……、ただ当代で築き上げた財産もあります。残り少ない、というわけではないです。」

「今のままで、これから何年、蝶の巣を保っていられる」

 文碧はまた、乾いた咳を噛み殺した。

 文淑は答えられなかった、「これから何年か?」そんなことはわからない。文飛が毎日のように新しい宝玉や衣を求めたり、強いては家を大きくして、新しい蝶を迎えると言い出せば、すぐにでも文家の財産は底をつきかねないが、今のままで満足し、食費、生活費だけを賄うだけならこの先四十年は安泰だと言える。でもそんなことは文淑には分からない。すべては文飛次第だ。

 するりと静寂が落ちた。琴の音と、庭のきりぎりすの声がよほど遠くで聞こえるように文淑には思えた。

「文飛には、不自由させないでほしい」

 文碧は真っ直ぐに文淑を見つめて言った。とたん、文淑ははっとした。

「なぜですか」

 今まで、気にかかってきたのに言わなかった言葉が咄嗟に出てしまったが、言ったあとひどく後悔した。兄は昔から特別文飛を可愛がっていた。文飛が病状のおりには一晩中侍女に混じって看病をし、文飛が一人でいれば遊んでやり、楽器、漢詩を教えてやっていた。弟を気遣う事に、理由など要らない。兄はきっとそういうだろうと文淑は顔をしかめた。

「淑、お前は、理性的な人間だと、私は思っているよ。だから、理解できないのもわかる。言いにくいことだが、でも、ちゃんと言わなければ、きっとお前は、少し手を抜いたりするかもしれないから、言わなければね。全部。お前は、責任ある男だと、私は誰よりも知っているから」

 文碧は自分のあかぎれた手のひらを見つめながら言った。文淑はその様子をじっと眺めていた。

「淑、これは一種の償いだよ。私たちのね」

 文淑にはさっぱり意味がわからなかった。頭で何か考えようとしたが、難しかった。

「端的に言うと、飛の母君を殺したのは、私たちの母上だ」

 とたん文碧は咳を噛み殺さずに何度か吐き出した。まるで今まで隠してきたもののすべてを吐き出してしまいたいかのように、苦しそうにしゃくり上げた。

 しかし、その言葉の後文碧は一言もしゃべらなかった。文淑は兄の言葉を何度も追いかけながらやっとのことで言葉を絞り出した。

「なぜ…ですか、なぜ兄上はそれを」

「母上は美しかった。だが、文飛の母はもっと、美しかった。その上、私はこんな恵まれない容姿で、母上は心細かったのだろう」

 文碧は「私は」としか言わなかったが、その事が文淑には息苦しく思えた。

 ふと、文淑の頭の中に文飛の母の姿が浮かんだ。顔立ちは爽やかに整い、笑うと花が咲いたような人だった。衣からは澄んだ甘い香りが漂い、黒髪を風になびかせながら、よく歌を歌ってくれた。自分の母の事を姉と慕い。血の繋がりのない自分達ともよく遊んでくれた。母はといえば、文飛の母がやって来てからは塞ぎこむことが多かった。見た目は繕っていたが、自室に戻ると狂ったように喚くことも多かった。母の微笑みは野に咲いた花々が風に揺れる、まるで水銀鈴の音のようなさやかな美しさがあった。そんな母の事を自分達二人は愛していたのだ。しかしいつからか、母は次第に変わっていった。文淑が今でも忘れられないのは自分が七つの時の事だ。父に体を取り押さえられて愛撫されたので、堪らなくなって暴れると、その足は父の顔を蹴りあげて、父の歯がぽろりと落ちた。それを聞いて母は自分の顔を三度撲って、父が抜けたのとおんなじ歯をねじり抜いた。それを止めに入った文碧も母に一度ぶたれて床に倒れこんだ。叩かれた頬の痛み、抜かれた歯の痛みよりまず、あの母がくしゃくしゃに丸めた厚紙のように顔を歪めて怒鳴ったことの方がよっぽど心に痛かった。母は自分にも兄にも何か罵声を浴びせていた。どんなことを言われたのかも覚えていない。ただ、淀む視界の中、倒れこんだ兄を蹴りあげながら、兄に何度も罵声を浴びせる母の姿をはっきりと覚えていた。自分の苦しみよりも、兄にそのようなことをされるのが何よりも耐えがたかった。兄は一体何をしたのだろうか、生まれつきの不遇な病気に犯されているのであれば、それは兄のせいではない、なんならば産んだ母の責任だ。そんな残酷なことすら一瞬頭をよぎった。

 ただ、言えるのはその後すぐ文飛の母がやって来て、母は相手にされなくなったということだ。そして今になってわかるのは、母がいかに父を愛しているか、ということだった。あの厚紙をくしゃくしゃにしたような形相は、愛という形のものが人を変えうるということの最悪の結果なのだと、文淑は思っていた。しかし、そんな母でも、まさか他人の人生を奪うほどまでに愚かだとは思っていなかった。

「兄上は、なぜそれを」

 優しい兄の思い込みかも知れない、文淑は一瞬そうであることに期待した。

「毒だ。母上は文飛の母君と仲のよいふりをして、体にいいと薬を渡していた。お産の日もそうして薬を渡した。そして文飛の母君はお産の後亡くなった」

 そんなことなら自分も知っている。と文淑は思った。ただ薬を渡していても、それが毒薬だと、どうして兄は言い切るのだろう。

「それでは、確信にはなりません」

 文淑は兄に食いかかった。

「違う、違うんだよ、淑。その後、私は母上が体調を崩したからその薬の事を思い出して母上に渡した。そしたら母上はひどく怒って……怪しく思ったのでそれがなんなのか調べた。そしたら、それは毒だとわかったんだ」

 当時文碧は齢十六、できないことではなかった。

 とたんに文淑は思い出した。文飛の母君の葬送の日、母は扇の裏で不遜に笑っていた。さやかな美しさを持つ微笑でなく、歪んだ土器のような陰鬱な微笑だった。

「淑、聞いておくれよ。私たちにはまだ愛してくださる母上がいた。しかし、文飛はいない。たった一瞬ですらいなかった。それをしたのは、私たちの母上だ。そして、父上さえ居なくなった、もう、私たち兄二人しかいない」

 文碧は一言一言噛み潰すようにゆっくりと落ち着いた声で話した。文淑はただ、呆然とするしかなかった。

「兄の事を哀れんで構わない、この病気も私のせいで構わない。ただ、母上を変えてしまったのは私たちだ」



 とたんに文碧の寝室の扉が開いた。文淑も文碧もはっとしてその方を見つめた。そこに仁王立っていたのは弟の文景ぶんけいで、月の光がその姿を暗闇に浮かびあがらせていた。

「景……」

 文碧は弱々しい声で呟いた。

「兄上たちの自惚れや、自尊心のためなら、私を巻き込むのは止めてくださいっ。今まで商隊の金を、いくら注ぎ込んだと……、そんな理由なら、私は関係ない!」

 文景の声は低く、夜闇を引き裂いて響いた。しかし、蝶の巣で、翅を休める文飛には、その声は微塵も届かなかった。

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2024年10月24日 20:00
2024年10月24日 20:00
2024年10月25日 20:00

蝶の巣 小原楸荘 @obarasyusou

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