〈蝶の舞〉十四、【傀儡】その①

十四、【傀儡(かいらい)】

 

 文飛は昼前に起きた。隣に文淑の気配はなく、木蓮香の香りも残っていなかった。朝かなり早く、空が高く日の光と有明の月の光が出会う時間、そんなときにはもう部屋を出ていってしまったのだと思い、文飛ぶんひは寝台の上で足を抱えこんだ。目をつむると、兄の姿が目に浮かぶ。もういっそすべて、幻であったのだと、文飛は信じたかったが、肌に残る蝶の噛み跡が、夢でないのだとしきりに語りかけてくるようで、顔を上げる。窓にはさやさやと舞う枯れ葉の影が写っていた。

 その日、文飛はなんとなしに金檀きんだんの部屋を訪れた。金檀は白い絹布に孔雀の金糸刺繍のしてある上着を着て、結い上げられた黒髪には絢爛な金細工が飾り立てられ、胸元も手首もすべて同等の金細工で覆われていた。金檀は手つきが艶かしく、声も甘く柔らかい。

 

「旦那様。外は寒いでしょう」

 

 金檀がうつむくと、きらびやかな金細工たちがその度にキラキラときらめいた。

 文飛は金檀の名を呼んで、金檀の顔を優しく撫でた。肌ははりがよくしっとりとした小麦色である。文淑は日頃の話などをしながら寝台に行き、金檀の膝の上に頭を乗せて横たわった。ちょうど窓から秋の澄んだ光が入ってきて、白い石の床に窓型の光の影を落としていた。時より庭の植木がそよぐのか、床の上の光の影が、丸く満ちたり、欠けたりを繰り返しているのを文飛は呆然として眺めていた。金檀は文飛の好きな白檀香を焚き、膝の上にある文飛の頭をゆっくりと撫でた。金檀は文飛の髪をひと房だけをすきあげて、手の上でもてあそんだりした。

「旦那様は、今日は少し大人っぽい面持ちですわね」 

 金檀は鼻にかけたような声でいった。

「今まで子供らしかったのか、私は」

「いいえ、旦那様は、可愛らしい旦那様ですから」

 そう言って金檀は文飛の額を指で撫でた。

 

「そういえば今朝、珀秀はくしゅう様とすれ違いましたよ」

 聞いて、文飛ははっとした。朝起きたときには兄はすでにいなくて、昨日のことも夢のようだと思われた。

「御髪を下ろしてらっしゃいましたから、やはり、殿方は少しだらしない方が、わたくし、好みのようですわね。」

「私は、だらしないということかい、金檀」

「いいえ、旦那様は、いつもこれですから、これが普通なんですよ。可愛らしい、旦那様」

 金檀は垂れ目な目を細めて安らかに笑った。そうしてまたゆっくりと文飛の頭を撫ではじめる。

「兄上は、どこへ行ったんだ。」

「大旦那様のところとか、最近寒くなってきたので、心配だそうですよ」

 文飛は頭を捻った。碧兄上は一見病弱だが、今まで風邪も引いたことはなかった。

「淑兄上は、碧兄上を思っているのだな」

 文飛は照らされた床ではなく、一度丸窓をゆっくりと見上げてみた。光を取り込む窓は眩しくて、一瞬、目の奥が焼けるようだった。

「あぁ、そういえば、珀秀様、何かおかしなことを言っていましたわ」

「なんだ? 」

 一瞬、庭木が大きく揺れて部屋が暗くなった。

「弟を傷つけてしまったかもしれないって」

「そうか……」

 今まで自分は文淑に対して距離をとってきた。兄の体に熱がないと思うのはきっと、あの記憶を思い出しそうになるからなのだと、今では思う。だが、すべて思い出した今はあの熱が恋しい。それなのに兄は、自分を傷つけたかもしれないと思っている。違う、そうじゃない。

 

 遠巻きに枯れ葉を巻き上げる風の音が聞こえていた。

 

「胡弓を弾いて欲しい」

 金檀が得意としているのは馬頭琴だった。どうやら故郷の楽器らしく、馬頭琴を弾いているときの金檀は輝いて見えた。だが馬頭琴の音色は隆々として勇ましく熱気に満ちている今聞いてしまったら、気が押されそうな気がした。

「いいですよ」

「そこで、弾いて欲しい」

 そう言って文飛は丸窓の光が入って明るくなっているところを指差した。金檀はゆっくりと立ち上がって、寝台の横に置いてある台から胡弓を取ると、椅子を光の差す場所まで動かして座った。照らしつける白い光に、金檀の身体中に施してある装飾が、まるで日に照らされた水面のようにちりちりと光っていた。

 

 胡弓の棹を引き寄せると大きな房なりの胸に当たり、胸の装飾がまた鋭く光る。

「どこで弾くつもりかい、金檀」

 文飛は少しからかったようにいった。

「わたくし、心で弾きますわ。」

 金檀はそういうと左手に持ってある胡弓の棹を胸の前まで引き寄せて、一度深く息をした。

 

 胡弓の演奏は、ゆったりとして流れる川を思わせれば、風雲雷雨を思わせることもある。文飛は寝台に横たわったまま金檀の演奏を聞き、ゆっくりと目を閉じた。庭の植木がまた風にあおられて大きく揺れた。

 

 ✿✿✿

 

 胡弓の音色が屋敷の中に響く頃、文淑はすっかり身支度を整えて、文碧のいる離れに近づいていた。ふと、離れの入り口を見ると、兄付きの侍女が何かを持って部屋を出ていくのが見えた。何か白い布。寝具を変えたのだろうか。文淑は侍女に声をかけた。だが、侍女は文淑を見るとひどく驚いたような顔をしてその荷物を落っことした。

 

 それが何なのかを文淑は優しい口調で侍女に問いかけた。侍女が落とした荷物はこのときもう文淑が取り押さえていた。

「燃やすんです!どうか、お返し願います」

 侍女は慌てた様子で文淑から荷物を取りかえそうとしたが、どうもうまくはいかなかった。

「どうして燃やしてしまうのかな」

「大旦那様が、ご自分が身につけたものなので、病気がうつるといけないと……なので、最近のものはすべて燃やしてるんです」

 文淑はそれを聞いて驚いた。何も気を利かせてそこまでしてやらなくたっていい。

「それで、この事は秘密にしろと、言われたんだね」

 文淑が侍女の顔を伺うように眺めると、侍女はゆっくりと頷いた。

「お前も知っていると思うが、兄の病気はうつらない。わざわざ衣を燃やすようなことしなくたっていい。だから、下がりなさい」

「でも……」

「下がるんだ」

 文淑は少し低い声でいった。侍女は頭を下げてそそくさと言ってしまった。

 侍女が行ったのを確認すると、文淑は侍女が持っていた白い布の包みを開いた。兄が身に付けているものだって、もちろん上等な絹でできている。それを毎日燃やされていたとあってはたまらない。だがとたん、文淑は手にかかえていた包みを取り落とした。

 

 文淑はその包みを持って、文碧の離れに入った。文碧は寝台の上に横たわっていて、身支度もまだろくに終えていなかった。弟がやって来たことに気づくと、文碧はゆったりと起き上がった。

 

「ごめんね。珀秀。だらしなくて。昨日夜が遅くてね。寝ちゃってたよ」

 文碧はそう言って何度か咳を苦しそうに噛み殺した。

「兄上、これは、何ですか」

 文淑は腕を震わせながら、包みの中身を取り出した。中に入っていたのは、兄の寝着である白絹の上衣と白い布巾で、衣には胸の辺りにべったりと血がつき、布巾はまんべんなく血で染まっていた。

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