〈蝶の舞〉十四、【傀儡】その②
「兄上、これは、何ですか」
文淑は腕を震わせながら、包みの中身を取り出した。中に入っていたのは、兄の寝着である白絹の上衣と白い布巾で、衣には胸の辺りにべったりと血がつき、布巾はまんべんなく血で染まっていた。今まで肌が乾燥して、寝着が所々汚れていることはあったが、今回のそれはそのような程度でなかった。
「文淑」
文碧は乾いた声で言った。寝台に腰かけたまま。まっすぐ弟を見つめていた。
「……淑。考えすぎだよ。お前はいつも考えすぎる癖がある」
「隠し事をしないでください」
「隠し事をしてたんじゃない。誰も聞かなかっただけだよ」
文碧はそう言ってにこりと笑った。文淑は心に何か刺さったような痛みがして、顔を歪めた。
「少しひどい風邪みたいなんだ。ただ、今まで病気なんかしたことなくてね。身構えちゃったよ。ほら他のことだって全部、帳尻合わせられるだろう、お前の頭なら。怪しいことなんて何もない」
文碧はそう言ってまたにこりと笑った。文淑は頭で考えないようにした。昔から兄がこういうと、もうどうにも説得することはできなかったからだ。自分の心のためにも、兄の言うことを信じることした。
そうして落ち着くと、文淑は文碧の寝台の横の椅子に腰かけ、昨日の文景への処分について気にかかっていたことを聞いた。
「昨日の、景のことです。いくらなんでも罪が重すぎるのではありませんか」
文淑はずっと気になっていた。まさかあの兄が弟にあのような仕打ちをするというのに賛成するとは思っていなかった。
「淑。言ったろう。責任がある。この蝶の巣を守り、文飛を守る。文飛には幸せでいて欲しい」
「しかし、兄上、昨日文飛は言いました。母親がやったことに、子供は関係ないと。それに、文景だって弟です」
「言ったろう。淑、母上がおかしくなったのは私たちのせいもあるとね」
「しかし」
「文淑。もしそんなことを文飛が言ったならきっと、それは私たちへの不信感だよ。足りないんだね、まだまだ」
文碧は下に俯いて、自分の荒れた手の平を見つめた。
「兄上、こんな愛しかた間違ってると思います。なんでも与えて、なんでも思い通りなんて、それではやはり、はた目から見れば文景の言うように、都合のいいお人形に見えます」
「人形は不幸なのかな。文淑……。勝手なことを言っているかもしれないけれどね 」
そう言って、文碧は文淑の目をまっすぐ見た。文碧の顔立ちは、一見肌の病で悪く見えがちだが、形のいい鼻や、幅広な二重の綺麗な目は年を重ねゆくごとにだんだん整ってきていた。文淑は自分の目を見つめられているのに、兄の目線は自分の体をすり抜けて文飛に向いているように思えた。やはりこの兄が、狂おしいほどに文飛を気にかけていることはわかりきったことだった。ではそれはなぜか、もし、自分の母親が文飛の母親を殺していなければ、兄は自分を庇ってくれたのだろうか。
こぼすようにため息をつくと、文淑は兄の手をとり、何度か撫で付け、近況の話をするとそのまま部屋を出てた。文淑が出ていったあと、文碧は何度か咳き込み、一度水っぽい咳をして口を押さえた。文碧のささくれ立った白い手から、赤々とした鮮血が嘲笑うように滴り落ちた。
「ごめんね。文淑」
ぽつり、と文碧は呟いた。
✿✿✿
その日、霖鵜の火葬をしてから、文飛は室で日暮れ寸前まで文淑を待ったが、来ることはなく、文飛の部屋には寂寞とした斜陽が差し込んで来ていた。「自分を傷つけたかもしれない」そういった兄に、「違う」と言いたかった。なぜどうして自分を傷つけたのかと、兄が思うのかがわからない。「自分などいないほうがいい」という問いに兄が答えなかったからだろうか。だが答えなくても、兄の体の熱を肌で感じられて、その心の痛みを分け合えるだけで十分だと感じられた。文飛は蝶の巣がいびつに歪んだものなのか、しばらく考えた。前に紫翅が「もしここに来られなかったら、私も、両親も死んでいただろう」と話していたことを思い出した。小雀も身売りに出された娘だと言っていたが「こんなに贅沢な暮らしができて嬉しい」と蝶の巣に来た日に言ったことがあった。蝶の巣は自分だけの巣。その娘の貴賤に関わらず蝶には美しい着物と一級の食事を与え、その体を汚すことも、辱めることもしない。これは歪ではない。文飛はそう言い聞かせ、蝶の巣に渡ることにし、それを侍女に告げた。蝶を失った痛みは、蝶の巣で癒そうと思ったのだ。
しばらくして蝶の巣に文飛は渡った。少し行くと、霖鵜の部屋に明かりが灯っていず、緑の提灯も出ていないのが目について、その前でしばらく立ち止まった。緑の部屋に入ろうと戸に手をかけたところでふと足を止めた。霖鵜は緑の蝶だった。ならまた緑の蝶を迎えればいいことだ。と、引き下がり、淡姉妹の元へ、今日は雪の室から入った。
雪の部屋は白い調度で埋め尽くされていて、部屋の前と奥は天井から下げられた何条もの白い絹布で仕切られている。いつもならば部屋の三ヶ所の蝋台に火がつけられているが、今日はなんとなく仄暗い。どうやら寝台の頭元にある蝋台にしか火をつけていないようだった。
「淡雪」
文飛はそう声をかけた。だが返事はない。ゆっくりと部屋の奥に進み、白布を手で開くと淡雪が肩をすぼめてうずくまっているのが見えた。
「雪」
文飛の声に淡雪はゆっくりと顔を持ち上げ、立ち上がると、前と同じように文飛の体に身を寄せた。今日は一日中横になっていたのか、着物はシワが付き、顔は化粧もしておらず、髪も一つにまとめただけの姿だったが、震えるその指先を文飛は軽く握った。
「文飛様、霖鵜が……」
淡雪はそう声を潜めていった。途端関が崩れるように泣き出して、小さく震える肩を文飛はしっかりと抱きしめた。今まで蝶が涙を流す姿を文飛は見たことがなく、不甲斐なさに顔が歪んだ。淡雪が蝶の巣にきて初めての妹が霖鵜だった。四年間ともに暮らし、霖鵜は淡雪のことをよく慕っていた。先程、新しい蝶をと言っていた自分が情けなくなった。ここにいる女達は蝶である前に一人の女で人間なのだと、分かっていたことなのに重苦しく感じられた。
「霖鵜はっ……」
と淡雪が声を上げた。すんで淡霞が現れた。
「姉さん」
と呼ぶ声に淡雪は肩を震わせ、淡霞は心配そうに姉の様子を伺いながら淡雪を後ろから抱きしめる形でなだめた。
そしてそのまましばらくして、淡雪が泣き止むと、姉妹二人で古筝の演奏をした。淡霞が「霖鵜のために、弾こう。」と言ったのが始まりで、そのまま五つほど、霖鵜が好きだと言っていた曲を演奏しはじめた。
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