〈蝶の舞〉十五、【解髪】

 十五、【解髪(ときがみ)】

 

 蝶の巣を美しい古筝こそう旋律せんりつが包み込んでいるとき、文淑は本殿から蝶の巣に向かっていた。すんで兄の言葉が頭の中でこだまして立ち止まる。

文淑ぶんしゅく。それは私たちへの不信感だよ。足りないんだね、まだまだ」

 

 文淑は顔をしかめた。憤懣ふんまんに顔を歪めながらゆっくりと歩きはじめると、古筝こそうを弾き鳴らす音が耳に入った。まだ日が沈む前に、文飛は蝶の巣に渡っているのだと演奏を聞いてわかる。提灯を見ると、淡雪たんせつの部屋が灯っている。「春」を演奏する古筝の音は、まるで春の陽光の中にある光の粒のように屋敷を包み込んでいて耳に心地よい。文淑は回廊を渡り、ゆっくりと蝶の巣に入った。すんで流れている曲は古筝の名曲「高山流水」に変わり。なめらかな音の余韻が室を包んでいた。

 

 文淑はまるで忍ぶように歩いた。一見流麗な仕草で音は立てないがその足並みはどこか物々しさも含んでいる。風に揺れる袖先を手で押さえながら、扇子を取り出すと赤の部屋の戸を扇子の尻でコンコンとついた。

 

芳梅ほうばい

 文淑が呼ぶと、密かに戸が開いた。顔をうつむけた芳梅がゆっくりと顔をあげる。

珀秀はくしゅう様。いま涼春りょうしゅん様がどこにおられるかわかっているでしょう」

 芳梅は半分結い上げた髪に金細工と珊瑚の簪をつけていた。赤瑪瑙がはめられ、蝶の形をした金細工のピアスが耳に揺れていた。

とたん、部屋に押し入る文淑と、逃げるように後ずさる芳梅。寝台の傍まで行くと、文淑は芳梅の腰を掴んで強く引き寄せた。

「お前が静かにしていればいい」

 そう吐き捨てた文淑は芳梅の首筋に軽く噛み付いた。

 

「でも、私」

 芳梅は文淑の頭を引き寄せながら言った。文淑は顔を上げ、すんで二人の目が合う。文淑はもうすでに悦に入り目尻を溶かしている芳梅の顔を見て、少し笑い、口づけをするかのように見せかけて、芳梅の耳を噛み、口で蝶の耳飾りを外すと、軽く唇を重ね、針金部分を芳梅に噛ませた。

 赤い唇には、金細工の蝶が細く垂れ下がってチラチラと光っている。

「それを、落とすなよ」

 それを聞いて芳梅は、眉根を寄せた。嫌そうに首を振るが、文淑はそのまま帯を引っ張って脱がせた。乳房を撫でると芳梅が上ずるように声を上げ、文淑は寝台に芳梅の体を倒すと、真っ赤な裙を引っぱって脱がせ、程よく引き締まった太ももを手の平で優しく愛撫した。蝶の巣を包み込む古筝の曲は「高山流水」から、「出水蓮」に変わった。

 

 芳梅の口元には金のピアスがちらちらと輝いている。何度も打ち付けるように揺れるお椀型の乳房に汗をかいてベッタリと白い肌に張り付いた黒髪。ときに柔肌を弾く音が室に響き、そのたびに女のうめき声に近い嬌声が染み入るように響いた。芳梅の手は、文淑の体を強く引き寄せながら、長い爪は文淑の筋肉質な背中に突き立てられたと思えば、途端その指先が小さく震え始める。芳梅は我慢しきれず口に咥えていたピアスを落とし、押し殺しきれない甘い声で文淑の名を呼んだ。

 

 文淑はその声を聞くと、体を芳梅に引き寄せて、今度は深く口づけをした。

 抱きしめた腕の中で、芳梅が何度か激しく震えるのをきつく押さえつけながら、嬌声も、喘ぎ声も全てからからめとるように、深く深く、舌先と体をからめると、芳梅の体がまた激しく震えた。

 

 ✿✿✿

 

 淡姉妹たんしまいの部屋で美しい古筝の音色に包まれていた文飛は、はじめはいつものようにただ美しい旋律に身を任せていたが、だんだんと霖鵜との思い出が頭の中をよぎるようになった。そして霖鵜が一番好きだった「出水蓮」の演奏になると耐えきれずに頬を熱い涙が伝った。溌剌な少女は大好きだった蓮の刺繍を施した靴と一緒に燃やされた。豚の皮のように茶色くなった皮膚、まぶたも閉じられない苦悶の形相であったが。その安っぽい人形のような顔にはあのきれいなお下げ髪がついていて、見れば見るほどどことなく霖鵜の面影を思い出し苦しくなった。

 肉を焼く臭いのする火の中に、文飛はその靴を投げ入れた。水で腫れた霖鵜の足には靴は入らなくなっていたからだ。燃やしてしまうのは残酷だという声もあったが、この醜い姿では霖鵜が次生き返ったときに不憫だろうと文飛は考えた。肉体を捨て少女の純粋な魂だけよ。どうか天に帰り給え。文飛はそう願って靴を投げた。それはちょうど昼過ぎのことで、金檀の部屋から出ると、下人たちが遺体を運んでいるのが見えた。蝶たちもその場に立ち会い涙を流しながら霖鵜を見送った。蝶の巣はやはり間違っているのかもしれない。文景の吐き捨てた言葉は忘れようとしても頭の中をぐるぐると回っていた。どうしようもなく、心にポッカリと穴が空いた心地がして我慢できなくなる。指先が氷のように冷たく感じて、息苦しくなった。

「もう、やめてくれないか。」

 文飛がそう言うと、まず淡雪が演奏を止め、顔を上げ、それに気付いた淡霞も演奏を止めた。文飛はゆっくり立ち上がると、文飛は踵を返し、戸の方に歩いていった。後ろから淡雪がついてくるのがわかって振り返る。何かを言いたげに口を開くが、淡霞がそれを引き止めて「旦那様もお辛いの。甘えちゃいけません」といった。淡雪は顔を少し歪めて、そのままじっと文飛を見つめた。

 文飛は胸が苦しくなった。心優しい蝶たちは、霖鵜の死という苦しみを味合わざるを得なくなった。それも全部自分のせいなのか。文飛はそのまま淡雪の視線に後ろ髪を引かれるように部屋を出た。

 

 頭の奥がズキズキと痛む。指先が冷え、少し震える。そのまま室の前でしゃがみ込もうとしたときに、甘い木蓮香の香りが鼻をなでた。惹き寄せられるようにハッとして顔を上げる。眼の前に文淑の姿が見えた。

「古筝の音がしたからここに来たんだよ」

 文淑は明るい声で言う。その声を聞いただけで指先がじんわりと熱を持った気がした。整然と整った衣は深みのある木賊色、襟と内衣の合わせは寸分の狂いもなく、一糸の乱れもない頭髪に、きれいに整えられた指先。近づいてきた兄の姿に文飛は目頭がかっと熱くなって、そのまま文淑に抱きついた。着心地の良さそうな柔らかい衣、布目に一糸の空きもない目の詰まった柔らかい衣。まるで兄の優しさそのものを表しているようで心が疼いた。そのまま文飛は文淑と唇を重ねた。もつれ合うようにして、すぐ傍にあった緑の部屋に入って、そこで体を重ねた。


 それから、文飛は蝶の巣を鑑賞しながら、ときに兄とも体を重ねた。兄は自分が求めれば快く応じてくれた。兄はいつも優しくて、あまい木蓮香の香りは嗅ぐ度に頭に父がなくなったあの日のことを思い起こさせたが、それさえも自分と兄だけが共有できる唯一のつながりのようで嬉しかった。

 

 ある日文淑は文飛に美しい刺繍のしてある緑の上着を贈った、木蓮香の染み付いた、柔らかな衣、文飛は嬉しくなってその衣を身に着けたまま兄と体を重ねた。

「兄上は、私を傷つけたやもと、思ったのですか?」

 文飛は衣を手でなでながら、文淑の顔を見上げた。初めて体を重ねた翌朝に文飛が金檀から聞いたことだ。文淑はその言葉に眉をひそめ、「文碧兄上なら、なんというか」とつぶやき、すぐに笑顔を取り繕い言った。

 

「不安だった。お前の心が、離れてしまったかもしれないと。大切な弟なのに」

 その声に、文飛は哀切極まった顔をして、文淑の胸に抱きつく、文淑は髪を優しくなでつけながら、小さく笑った。

「兄上は、私にとって、大切で、特別な人ですよ」

 文飛はそう言って、文淑の頬に触れ、ゆっくりと引き寄せると唇を重ねた。

 ただ、文飛にとっては兄と過ごす夜は砂糖が舌先で溶けていくように儚く、そして濃密で、甘美なものだった。

 

 ✿✿✿

 

 しかしその甘い夜は、長く続きはしなかった。

 季節は冬になり、雪になりきれない霙のような冷たい雨が降る日に、文碧が息を引き取った。

 

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