〈蝶の舞〉十六、【朽木に水を差す】

十六、【朽木に水を差す(くちきにみずをさす)】

 

 その日、朝早くから文碧は自室に文飛を呼び、軽く談笑し、文飛を帰らせてから文淑を招いた。文飛は芳梅の部屋へと行ったのか蝶の巣からは美しい琵琶の音が聞こえてきていた。

 文飛は文碧の変化に気づかずにいた。最近はいっそう痩せさらばえ、床から起き上がることも少なくなったが、それよりも、文淑に夢中になっていた。そして文碧が亡くなったときも、文淑のことが気がかりでならなかった。兄の訃報を侍女から聞き、文飛が急いで芳梅の部屋から駆けつけたとき、文淑の唇は赤く血に染まっているのが見えた。死に顔を文飛に見られたくない、という文碧の要望があったと聞き、すぐに部屋を後にしたが、そのときのチラと見えた長兄の顔よりも文淑の顔のほうが全く色がないように見えた。血の気が引いた青白い顔に、固まりかけた濃い血で染まった唇は赤黒く、漠然として、まるで、生きているようには見えなかった。兄の視界の中に自分は入ってはいけない。きっともし兄に近づけば、自分はきっと虚しい心のうちを悟らずにいられないだろうと文飛は感じ取った。そして文飛は、その日、文淑に触れることも、声をかけることも出来なかった。


 文飛はそのまま文碧の姿を見ることなく、芳梅の部屋に戻った。芳梅は、何も聞かずに、ゆっくりとうなずいて、文碧に葬送の琵琶の曲を弾いた。

 冷たい雨が一日中降りしきる霖雨のなかで、涙の滴る音のような琵琶の音が、蝶の巣を包んでいた。

 

 ✿✿✿

 

 文碧の葬儀には多くの親戚や商業仲間が押し寄せ、蝶の巣とは逆方向にある本殿は常に騒がしかった。文碧から譲り受けて家長となった文淑は忙しく駆け回り、息つく間もなく、やっとのことでさまざまの事が終わったのは火鉢の炭が真っ赤に燃える頃だった。

 

 文飛は安楽椅子に腰かけていた。火鉢の炭がぱちぱちと勢いよく燃えていた。文碧の死後、文淑は全く変わってしまい、文淑が文飛の部屋を訪れることはなくなり、めったに笑わなくなった。

 文飛は葬儀の間中、兄を思ってわんわん泣き、棺を運ぶ直前になるまで兄の棺の前から動かなかったが、文淑は泣くこともなく、文飛をなだめて、棺桶から引き離した。それも、優しい兄の顔ではなく、まるで城門の前で銭を催促する乞食を追い払う役人のような冷えた顔で。

「兄上から、離れろ」

 その声は日溜まりのようで海のような、そんな声でなく、乾いた枯れ葉の山をガサガサとまさぐるようで荒々しい、そんな声だった。

 急に火鉢が ぱちん と大きな音をたて、文飛ははっとした。文碧の葬儀を終えて一週間になる。文淑は本殿の方で仕事をしているようだがここにはやってこない。蝶の巣にもしばらく行かず、蝶が部屋を訪れることも許していなかった。この一週間はまるで自分の視界から色が抜け落ちたようだった。扉を開くと銀世界が一面に広がっている。庭に植えてある南天の実を鳥がついばんでいるというのどかな風景を文飛はまるで掛け軸でも眺めるようにぼんやりと見つめていた。指先は冷たく小さく震える。ふと立ち上がって蝶の巣に渡る。この寒さのため蝶たちは皆室の中にいるようで巣は静まり返っていて、池から流れ出る小川の流れる音だけが耳に心地よく聞こえていた。

 

「白い椎茸みたい!」

 凍らない水路の上に覆いかぶさった雪が、傘のようになっている。去年の冬、女達が雪の傘だと言って色めいていたのに、霖鵜は椎茸だと言って場を和ませていた。

 文飛はふと霖鵜の部屋に手をかけて中に入った。侍女に言わせて室の掃除はさせているので室の中はきれいに片付いている。霖鵜が亡くなってから数ヶ月、美しい調度の数々は息を潜めて主の帰りを待っているように思えて指でなぞる。掃除はするようにといいつけているはずなのに、箪笥の上に指の線ができて、文飛は眉を潜めた。ふと寝台に腰を下ろすと、寝台のなめらかな木目を撫でながらゆっくりと横になった。あの日の晩、兄とこの寝台で体を重ねたことが克明に思い起こされるようだった。あの熱を、あの香りを、あの指先を、激しく自分を求めるあの腕を、文飛は寝台の上でしばらく自分の肩を抱いて泣いた。ひとしきり泣いてゆっくりと目を開くと垂れ下がった宝玉のカーテンが陽の光を受けて輝き、霖雨のように見えて、また頬に涙が伝った。

 

 刹那、ばたん、と格子戸が開けられ、使用人があわてふためいた様子で文飛の前に膝まずいた。 

「旦那様!探しましたよ!女が死んでいます!若い女です」 

 文飛は頭が回らなかった。一体誰が?どこで?こんな昼間に?

「誰が?」

 聞き取れないような細い声だった。使用人は急いだ様子で文飛の腕を引いて、雪の積もった東庭まで連れていった。見ると、庭の植木がすっぽりと雪の帽子をかぶっているなかに桃色の裾が見えた。その裾は血色に染まっていて、布を重ねて縫った質素な靴が近くに落ちている、文飛は急いで近くに駆け寄ると、それは文景の侍女をしていた花衣(かい)だった。

「どうして、花衣が」文飛はそう言って膝から崩れ落ち、雪の中にズボリと膝まで埋まった。

 そしてその直後、後ろから足音が聞こえて振り返る、同じく侍女に呼ばれたのか分厚い上着を着た文淑が歩いてきていた。

「兄上」

 文飛は明るい声で言った。久しぶりに見た文淑の姿は前と変わっていなかった。整えられた衣と髪は一糸も乱れず、木蓮香の匂いも変わっていない。文飛は立ち上がって文淑のそばに寄ろうとしたが、文淑は花衣の姿を見るなりすぐに踵を返した。

 

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