〈蝶の舞〉十七、【蝶の諍い】その①
十七、【蝶の諍い(ちょうのいさかい)】
蝶の間には文飛と文淑が座って待っていた。文飛は一週間の間会うことが出来ていなかった兄に会えて嬉しく感じ、花衣が暴漢かなにかに殺されたことを幸運だと思いもした。
「兄上」
文飛は分厚い上着を引き合わせて寒そうにしながら文淑の方に向いた、その目はどことなく輝いていて、熱を求めるように震えていたが、文淑は味のない顔をしてただ火鉢の炭を眺めているだけだった。
「珀秀兄上。最近は、お忙しいのですか」
文飛の声に文淑は答えない。ぱちんと炭が弾け、一拍置き、文飛は明るい声色で言った。
「淑兄上は、お忙しいですよね」
「ああ」と文淑は、短く低い声で答えた。吐き捨てるようで、その目線はまだ火鉢の炭に注がれていた。
「兄上。今度また、なにか宴でも開きましょうか」
文飛は明るい声で言った。とたん文淑が文飛の方に向いた。文飛は嬉しくなって一瞬浮足立ったが、文淑は睨みつけるような顔をしていた。
「お前は、正気か、侍女が殺されているんだぞ」
そうとだけ言って、文淑はまた火鉢の方に向く。文淑は自分の知っている兄上ではない。文碧が亡くなってからすっかり変わってしまったとわかってはいたが、苦しかった。兄はなんのために自分に優しくしたのかを見せつけられるようで口の中が苦く感じた。今兄に「自分のことを大切に思っているか」と訪ねたら、帰ってくる答えに耳を塞ぎたくなることも自ずと悟って、文飛は苦虫を噛み潰すような顔をした。
「すみません」
と、力ない声で文飛は答えた。
ぱちんと火鉢の炭が弾ける音が聞こえた。もう花衣が誰に殺されていようと構わない。文飛は一瞬、そんなことを思いもした。
✿✿✿
「芳梅、参りました」
その声とともに蝶の間の扉が開かれる、白い毛皮のついた赤い上着を身に着けた芳梅、唇には真っ赤な紅をさし、黒髪には柘榴石のついた簪を飾っている。後ろには淡霞、淡雪と続き二人は揃いの長い上着と、襟飾りのついた袍を着ており、淡霞は水色のリボンを、淡雪は茉莉花の細工がしてある銀の簪をつけていた。
「昨晩、怪しいものを、見なかったか」
「いいえ、見ていません」
「私も、見ていません」
文淑の声に、まず芳梅と淡霞が答えた。
「淡雪。お前は」
だんまりを決め込む淡雪に文飛は聞いた。だが淡雪はなにも答えなかった。ただ唇をぐっと噛み締めて、ふと文飛の方に向く。淡霞がなだめるように淡雪を抱きしめ、淡雪の目は少し潤んでいた。
「言えるわけがありませんわ」
その声とともに蝶の間の扉が開いた。頭に毛皮の四角い帽子を被り、上質な毛皮の上着を着た金檀がにこやかに笑っていながら室の中に入ってきた。
「私、あまりに恐ろしいことに、黙っていましたが、実は見たのです。」
金檀はそう言うとハラハラと床に崩れ落ちた。
「私、淡雪お姉さまが、花衣を刺し殺すところを。見たのです。」
そう言って金檀は顔を上げた。その目は涙で潤んでいたが、しっかりと淡雪を見あげていた。
「そんな、私は」
とたん淡雪は一歩下がった。淡雪を抱き寄せている淡霞もつられて下がるが、姉のことを強く抱いたまま、肩を揺すった。
「先程は、一言も喋らなかったのに、つい口答えをするのは、図星だからでしょう。お姉さま。もう何も言わないでください」
「淡雪、どういうことだ」
文飛は淡雪の白い顔をじっと睨みつけた。見れば人の血の通っていないような涼しい顔をしていて、文飛の顔はぐっと歪んだ。
「私は、していません……。旦那様。信じて……」
淡雪はそう言いながら一歩、二歩とまた下がっていき、その腕を金檀がひっ捕まえた。
「旦那様、私見ました。あれは夜遅くでしたわ。銀の簪で花衣の胸を突き刺し、その衣が真っ赤に染まるのを、まだ処分しきれてないはず。探しに行かれてください。きっとまだ雪姉さまの部屋か、この蝶の巣のどこかに」
「そんなもの、ありません」
淡雪は、金檀から腕を振り払い、文飛の方に向いた。しかし文淑が下男を呼びつけ、部屋を探させるように指示を飛ばした。
「では、誰だというの。いま誰の名前を言っても、証拠が本当だったなら、あなたは嘘つきになるのよ」
芳梅が横から口を挟む、真っ赤な紅の口元と、頭に刺した簪が小さく震えた。
「私ではないのです。旦那様」
淡雪は目に涙を浮かべ、文飛に一歩近づいた。とたん淡霞が叫んだ。
「姉さん、もうやめて」
妹の声に淡雪は立ち止まる。薄桃色の唇はきつく結ばれ、その目線がゆっくりと下げられると、目からは涙がこぼれ落ちた。
「なぜ、花衣を殺した」
文飛はこの状況を未だに飲み込めずにいた。淡雪が花衣を殺すとは思えない。あの心優しい淡雪が、花衣を手に掛けるとは思えなかった。文飛の声を聞いて、淡雪はゆっくりと顔を横にふった。「私ではない」と訴えかけるようだが、他の蝶たちの言い分を聞かないわけにもいかない。
「旦那様、私それも考えましたの。雪お姉さまに限ってそんなことはしないと。でも、霖鵜のことについて。あの花衣は霖鵜を殺めた文景の手助けをした、いわば敵のような存在。であれば、心優しい雪姉さまだからこそ許せなかったのではないかと……ここに来て言うのも相当に苦しいことでした。姉さまがまさか人殺しをするなんて」
金檀は言いながら、目から涙をはらはらと溢した。
「霖鵜の敵だというのか。」
文飛は何もかもしっくりと来て、淡雪の顔を見た。まだうつむいたまま、ゆっくりと首を振った。
「…………。いいえ、違います」
「お姉さま、もう苦しむ必要はありません」
金檀はそういって淡雪に近づこうとすると、扉が開いた。
「衣が見つかりました!」
そう叫ぶ下男。手には真っ赤に染まった淡雪の衣を持っていて、文飛は驚きのあまりめまいがし、頭を抱えたまま、ゆっくりと椅子の上に腰掛けた。
「ほら、やっぱり。私の言った通り。その手は血で汚されているのよ」
金檀は声を震わせながら淡雪から離れた。
「どこで、やはり銀雪音(ぎんせつおん:淡雪の室)でか?」
文淑が落ち着いた声で言い、文飛は文淑の方に向いた。兄は椅子の手すりに肘を付き、目を細め気だるそうに座っている。血のついた淡雪の衣に動じることもなく、訝しげに金檀を見つめていた。
「それ以外、どこでみつかるというのですか」
金檀が弱々しい声で言い返したが、下男はすぐに答えずに、言葉をつまらせた。
「いいえ、それが」
「黙っていないで、早くおっしゃい」
顔をうつむけて、口をぱくぱくさせている下男に、芳梅が言った。鋭い声に下男はビクッと肩を震わせ、顔をゆっくりと上げた。
「それが、金鳳弓(きんほうきゅう:金檀の室)で、見つけました」
その瞬間、部屋の者はみな、衣を持った下男の方に向いた。そしてその後、金壇は落ち着いた様子のまま、文飛の方に向き直った。
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