《裏》〈雪と飛影〉五、【白花の露】その①

五、【白花の露(はくかのつゆ)】

 

「淡雪、あまり大きな音を立ててしまったら、淡霞に悪くないかい」

 それは晩秋の頃、急な冷え込みに霞が熱で寝込んでしまった日、淡雪が一人で古箏を演奏しているときだった。いつもであれば姉妹二人は雪の室で寝て、文飛は淡霞の室で寝るが、この日はそうもいかず、また淡霞がいないと露骨に嫌がった素振りをし、ふたりきりになるのをあまり好まない淡雪に気を使って文飛は少し離れて古箏の演奏を聞いていた。

「悪いね。淡霞が熱だとも知らず。淡雪の室を選んでしまって」

 薄暗い部屋で、遠くに文飛が申し訳無さそうに頭をもたげているのが見えて、淡雪はゆっくりと首を振った。

「こういうときは、早めに床についてしまおうか。少しだけ話し相手になってくれるかい」

 その声に淡雪は小さくうなずいた。

 

 白百合の装飾がされている寝台に文飛が横たわる。薄い絹布のカーテン越しに見える文飛の姿を淡雪は見つめていた。寝台の中にある蝋台に火をつけ、部屋の明かりをすべて消せばカーテンの外側は内側からは見えなくなるようになっていた。

 

「淡雪」

 と、小さな声が聞こえ、淡雪も小さな声で返事をした。

「そなたたちの琴は、本当に見事だが、一体誰から教わったんだ」

 淡雪の返事が聞こえると、文飛はなんとなく顔を淡雪の方に向けながら言った。

「母です。食いっぱぐれないようにと、教えてくれたのだと思います」

 淡雪は目が合ったようでどきりとして、顔をうつむけながら小さな声で答えると、文飛は視線を天蓋に移して、少し低い声で言った。

「優しい母上だったのか?」

 淡雪はそのような落ち着いた文飛の声を初めて聞いて、言葉が出なかったが少し息を整えてからゆっくり語り始めた。

「私がこんな見た目なせいで、愛することを許されなかったのでしょうが。きっと愛のある方だったと思います。自分の産んだ子を恨む事のできる親はいません」

 淡雪の母親は自分たち姉妹の名前を呼ぶことはついになかったが、見世物小屋に姉妹を売るとき、馬車に乗せられて運ばれる姉妹の事を、数歩追いかけて立ち止まった。姉妹に背を向けた母の姿。馬車に揺られながら段々と小さくなるその背中を淡雪ははっきりと覚えていた。最後まで見送らなかった母の後ろ姿を幼い頃には恨めしいと思ったが、今となっては自分たちを愛していたからこそだったのだと思えるようになった。なによりも異形の子を殺さずに育ててくれた母に、感謝の気持ちを持たずにはいられなかった。

 淡雪は言い終えておそるおそる文飛の方に向いた、文飛は天蓋を呆然と眺めていたが、少し眉根を寄せて一層低い声で言った。

「そうか。だが、きっと私は恨まれているな」

 それは今まで聞いたことのないような悲しげな声だった。蝋燭の火が少し揺らめいて、一瞬文飛の顔に影が落ちたように見え、淡雪はすぐに口を開けず、一度息を吐ききってから「どうして」と小さな声で尋ねた。

「母上は私を生んで亡くなったからだ」

 そう話す文飛は声色だけでなく、顔つきまでもいつもの様子とは違うように淡雪には見えた。

 

「そうなのですか。どんな、方だったのです」

「わからない。だがきっと、そう愛される人ではなかったのだろう」

「なぜです」

「私の母は身分が低かった。幼い頃淑兄上に尋ねたが、なんだか言いづらそうな顔をされた。碧兄上に聞いても、悲しそうな顔をされただけだった。哀れまれているようだった。だからもうそれ以来、母上の話はしていない。碧兄上たちの母上にとって、私の母上は喜ばれるものではなかったのだろう。だが母なしのおかげで、兄上たちは私にこんなにも良くしてくれているのだろうな」

 

 小さな声で紡ぐようにはなす文飛の横顔、ベール越しにその瞳が揺らぐ、淡雪は胸がきつく締め付けられたように感じて、膝の上に揃えておいてある手をきつく握った。

 

「そんな事はありません。きっとご存命でも……。」

 言いかけて、淡雪はそれ以上言えなくなった。ふと文淑のことが頭によぎって言葉が詰まった。

「私には、今、兄上達がいる。だからそれでいい。幸せだ」

 文飛はつぶやくように言うと、少しだけ微笑む。自分はなんと幸せものなのだろうと、二人の兄の顔を思い浮かべるが、淡雪はその嬉しそうな顔の文飛を見て、さらに胸が詰まった。

「でもやはり、自分の子を恨む親などいませんよ。きっと、文飛様の母上も、愛していたはずです。」

 淡雪がそう言うと、文飛のまつげが少しだけ震えた。水をいっぱいに含んだ水風船が割れる手前のような張り詰めた顔をして、吐息もかすかに震える。淡雪はその様子に耐えられなくなって立ち上がるが、文飛はその震えを押さえ込んで溌剌に破顔すると、淡雪の声の方に顔を向け、先程までとは打って変わって明るい声色で言った。

「そなたは強いのだな。不安になりはしないのか」

 とたん、淡雪は頓狂な声を短く上げ、文飛はそんな淡雪の声を聞いてまた無邪気に微笑んだ。

「私は、目に見えないもの、体に触れてわからないものを信じられるほど、できた人間ではないんだよ。ときどき、糸が切れそうになる時がある。自分の体に熱が感じられない時がある。誰かの肌に触れて温めなければ、心がまるごと凍ってしまいそうになる」

 

 言い終えると文飛は寝返りをうって、体を淡雪の方に寄せた。寝台の端に寄って体を丸める姿は、寒さに震える猫のようで、その目は飢えてもただ鳴くしかない子猫のようだった。

「だが、蝶を見ると、彼らには体温はないが、なぜか遠い昔の事を思い出させてくれるみたいで、心があたたかくなるのだよ。だから私はきっと、蝶なしでは生きていけない」

 最後その声は室の暗闇の中に吸い込まれるように消えていった。うるんだ瞳に被さる長いまつげ、少し乱れた黒髪と艶のある薄い唇。精緻な人形のような面立ちの頭部からスラリと伸びる長い首。上等な絹で作られた寝衣は呼吸するたびに揺れ、文飛の細い体を蝋燭の火の下に浮き彫りにするようにも見えた。

 ベールの外にいる淡雪にはその吐息の音、指先が寝具にこすれる音も耳元で聞こえるように近く感じられ、その心臓が脈打つ音さえ聞こえそうで、その指先はいたずらに文飛に吸い寄せられた。

 

「そして、兄上たちがいなくとも、生きていけない」

 ただ、文飛がそうつぶやくと、淡雪は手を止めた。自分と文飛との間にあるただの薄い布切れ一枚が鋼でできている屈強な扉のように感じられ、体がひどくこわばった。だが文飛はそんなことはつゆ知らずまた自分に親しい兄の姿を思い浮かべた。少し心があたたまる心地がして体をゆっくりと起こす。

 “離れてしまう”と、淡雪はその姿を追いかけようと手を伸ばしたが、文飛はそれに気づかず居住まいを正して寝台の真ん中で仰向けに寝そべると、その顔貌はもういつものような満足げで、愛嬌に満ちた美しい顔だった。

 

「一人で空を飛んでいる蝶を、羨ましく思われないのですか。貴方様も、この蝶の巣に捕まっている蝶の一人だとしたら、どうです」

 淡雪はベールに軽く触れた指先をそっと戻してから言った。文飛は少し驚いた顔をしたが、すぐに落ちついて甘い声で言った。 

「淡雪。面白いことを言うね。ここは虫かごでなく、蝶の巣なのだよ」

「蝶の巣というのは、帰るべき場所ということですか」

「そうだよ、淡雪。ただ、蝶には巣はないんだよ。本当の蝶にはね、帰る場所はないんだ。一度飛び立った蝶は二度と戻ってこないのだよ。でも、一度手に入れたものを、失うのはなんと辛いだろうかと、私は幼心に悟ったのだろうね。私の蝶になった女達は私のことを愛してくれているからか、失うのが怖くなる。だから巣を作った。失わないように」

 文飛は言いながらゆっくりと目を瞑った。


「そういえば、質問に答えていなかったね。一人で空を飛んでいる蝶を羨ましく思うか、だったか」

 もう眠ってしまうという様子であったのに、文飛はまたはつらつとした声でいった。無邪気に瞳を輝かせ、視線はベールの外にいるであろう淡雪の方に投げた。

「はい。でももうそれは良いんです。誰だって、一人では生きられないんです」

 だが淡雪は文飛の言葉に間髪入れずにそういった。文飛は残念そうな声で

「そうか」

 と言って、そのまままた目線を天蓋に移した。淡雪の寝台で寝ることは少ない、文飛は目に写ったゆりの彫刻を見て、しみじみと言った。

「百合の花とはしとやかだ、首をうなだれて、美しい姿なのに謙虚さを忘れない。そなたは他の女達と違って、聞き上手だ。私の言葉をしっかりと聞いてくれるし」

 文飛は言いながら不思議と考えた。他の女たちと淡雪の違い、聞き上手で言えば芳梅だって負けていない。と少しの間考え、文飛は思いついたように言った。

「そなたに私への好意がないから。つまり私のものではないから。ついつい何でも話せてしまうのだ。私は醜悪な生き物だとも、な」

「貴方様は醜悪などではありません」

 淡雪はそう言って口をつぐんだ。ただ冷え切った空気がしもやけになった指先の痛みを思い起こさせ、少しだけ顔をしかめた。

 

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