《裏》〈雪と飛影〉五、【白花の露】その②
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しばらくして、文飛が小さな寝息を立て始めると、淡雪は立ち上がって室の窓のそばに歩いていった。窓の外に月は見えず、高く上った月から降り注ぐ光線が室の中に張り巡らされた絹布のように闇夜を染めている。
透かし細工のある窓のむこうは真っ白な光で満ちた世界、室の中もまた真っ白な絹が飾られ、あまつさえ身につける衣もまた艶を持った白色。一面熱のないような世界の中で、ただ寝台の中に吊るした小さな灯籠だけが蝋燭の淡い熱のある光を持って揺らめいている。
淡雪はそっと寝台に近づいた。ベールにそっと手をかけて、時計の短針が動くようにゆっくりと開いた。ベールの内側は空気が暖かく、爽やかな乳香の香りがする。寝息に合わせてかすかに揺れる黒髪、無造作に重ねられた白木のような手のひらに目をやって、しばらくそのまま立ちすくんだ。このベールの外側と内側、柔らかな蝋燭の光で照らされた寝台の中と、鋭い月光が身を焦がす寝台の外側、その丁度真ん中に淡雪立っていた。やがて空気はとろりと重たくなっていく。濃密な香のせいか、温かい空気が寝台に流れ込んで、少しだけ粘度を持つようにして体にまとわりついてくる、淡雪の体はどくどくと仰々しく脈打っており、そのまま引き寄せられるように浅く寝台に腰掛けた。淡雪の体と文飛との間は大判の本がちょうど一冊は入るほどだった。だがその間を埋めることは淡雪にはできなかった。ただ背中にかすかな熱を感じられるだけで、十分に感じられた。
淡雪は膝の上に揃えておいている手をゆっくりと寝台の上に置いた。ふと寝台のそばにおいてある古筝がめについた。古筝も自分と同じように、ひっそりと息を潜め、数十本の張り詰めた弦と押さえつけられた琴柱は悲鳴を上げているように思えた。
“弦は理性の楽器なの。弦の数が多ければ多いほど、好き勝手にしてはままならないのよ”
それは昔、淡雪の母が、まだ幼い淡雪に言った言葉だった。その言葉の意味を幼い頃は理解できずにいたが、今ならなんとなくわかるように、淡雪は思っていた。自分と妹を守るためには、自分の思いを殺さなくてはならない。
背中に淡い熱を感じながら、淡雪は吊るしてある灯籠を見上げた。いっそ、真っ暗にしてしまえば、何も見えなくなる。月光だけがこの室に残って、自分の嫌いな一面真っ白な世界の中に全部沈んでいく。
そう思った瞬間だった。淡雪は自分の冷えた指先を急に暖かなものが包み込むのがわかった。それは一瞬のことで、手を引っ込めることも間に合わなかった。心が激しく震え瞳が蝶の瞬きのように震えた。
「淡雪」と文飛の眠たげな声が寝屋の中でかすかに響く。淡雪は文飛の方に向くこともなく、ゆっくりと繋がれた手を膝の上に戻した。ただ真っ白な窓の外の世界を見つめて、ゆっくりと顔をうつむけた。
「こちらに向いておくれよ。でないと、怖いじゃないか。一人でいるみたいだ。」
文飛のその声に淡雪はハッとして顔を上げた。振り向いて文飛と目が合うと目の奥で導線が焼ききれるような心地がして、目線だけふっとそむけると、文飛は子供が親に言うような声で言った。
「淡雪、どうしてそなたはいつも、そのような悲しい顔をしている?」
淡雪はその時初めて自分がどんな顔つきをしているのかを考えた。文飛のそばにいればいるほど、近づけば近づくほど、体の奥から溢れてくる気持ちは行き場もなく白い色に溶けていく。もし思いを伝えても、姉たちや霖鵜がやりおおせているように、この蝶の巣の秘密を守りきれるだろうか。もし守りきれなければ、妹や自分だけでなく、蝶の巣にいるすべての女たちが路頭に迷ってしまう。「私は悲しんでいるのだ。蝶の巣にいる姉妹たちを顧みずに、自分の思いを果たせないことを悲しく思っているのだ。」淡雪の中ではそう結論づいた。そしてその結論は淡霞の姉であり、霖鵜の姉である自分にふさわしくないのだと考えるのに時間はかからなかった。
「悲しくなど、思っていません」
淡雪はそう言って、少し微笑んでみせた。薄い唇を細めて、銀色のまつげでゆっくりと風を切る。その仕草の美しさに文飛は少しだけ息を吹きもらすと、軽く身を起こした。
「そうだ、いつか花畑を見に行こう。白い小花が絨毯のように一面咲き乱れていて、そこに白い蝶が番で飛んでいたんだ。ぜひ見せてやりたい」
そう言いながら、文飛はゆっくりと手を伸ばした。ゆっくりと重なる手のひらに、文飛の体の熱が指先から伝わってくるのがわかる。空色に見えるすんだ瞳の中で揺らぐ蝋燭の光、その瞳の奥に淡雪は一瞬だけ白い花畑の幻影を見た気がした。きっとそれは美しい世界。冷たくもなく、誰も苦しめるわけでもない純白な色は甘美な香りに包まれている。美しく咲き誇る花々は虫たちにすみかを与え、人々の心を癒す。この世界にはそのような美しい白色もある。もしそんな場所があるのなら、他でもないこの人と、その場所に行くことができるのなら、どれだけ嬉しいだろうか。そう考えてすんで淡雪の唇は少し震え、文飛のもう片方の手が、ゆっくりと髪をすき撫でていった。
「文飛様。私は行けません」
淡雪はそう言いながらゆっくりと寝台の外に出た。するりと手のひらから落ちていく淡雪の髪を、文飛は掴みそこね、ただ空虚に漂う文飛の指先を淡雪は目で追いかけた。
「そうか、そなたは体が弱いからな。本当の蝶のようだ」
文飛はわかりきったようにそういって、そのまま眠りについた。そうしてそのまま朝方まで起きることはなく、日の出とともに淡雪の室を去っていった。文飛が去っていった室は異様なほど静かで、灯籠の蝋燭もすっかり消えてしまった。淡雪は文飛を見送ったあと、ゆっくりと寝台に近づいていった。手で撫でると、まだ少し暖かく、寝そべると、文飛の香がふわりと立ち込、ゆっくりと目を閉じれば、瞼の裏に文飛の話していた真っ白な花畑が姿を表す。一面の白い花、風が吹くとざわざわと揺れ、天へ帰っていくように花びらが舞い上がる。有明の月の下で結んだ露の玉が弾けて消えるような儚い夢だった。目を開くと、夢の中で散ったはずの朝露が、頬を伝って流れていった。声を押し殺して泣く淡雪の声は、雪の下で潰された白い菊花のように誰の目にも耳にもとまることはなかった。
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