《裏》〈雪と飛影〉六、【夢語り】その①
六、【夢語り(ゆめがたり)】
蝶の巣の秋が過ぎ、雪が溶け始めた頃、また蝶が一人増えることになった。二三歳で蝶の巣にやってきた褐色の肌を持つ女。優しげな垂れた目元と眉、質素な白い衣を着ていてもわかるほど大きな胸と尻、一段と細い腰にゆるく巻いた髪。声はつややかで、ただよう香は直接脳天を揺さぶるように甘い。
文飛が彼女につけた名は金檀。淡雪の向かいの室に金の室を与えられた。金檀ははじめのうちは大人しく繕っていたが、文淑が自分の室に来ないと横暴な態度を取るようになり、文淑が一番信頼をおいている芳梅にはたびたび楯突き、悪口を言ったりするようになった。そうして金檀がやってきて半年も経つと、金檀は隣室の紫翅を取り込み、向かいの室に文飛がいくように画策したり、万が一文淑が紫翅の室にいっても、許可したときでなければ金檀の室に誘導するようにと指示した。そうして、金檀が前の晩に文叔に相手をされた時に正妻であるという意味を込めて髪を結い上げて見せつけるようになってからはそれが蝶の巣での暗黙の了解となった。
そんなとき、淡霞に月のものが現れた。淡雪は一旦霖鵜に相談し「まだ体が幼いから」「このままでは芳梅姉さんに恨まれる」という二つの理由を持ち出して淡霞に説明し、その日のうちに二人で芳梅に相談した。芳梅ははじめのうちは困った顔をしていたが、淡霞がまだ十四という歳であることを気にかけて、淡霞が女の体になったことを隠すことを決めた。そしてそれは二年後、淡雪に月のものが来たときも変わらなかった。この頃になると金檀側には新しく蝶の巣にやってきた小雀も加わり、芳梅は文淑に「文飛を霖鵜や淡姉妹の室に連れて行け」と指示されることもあったことで、ますます金檀はつけあがっていた。
そうして金檀が現れたことで狂い始めた蝶の巣の均衡は、青黛が来たときに頂点に達した。
「そちら側は、女がひとり、こっちには四人。四人と言ってもそのうち一人は文淑様に嫌われた哀れな青君、残りの二人は私の奴隷も同然な紫黄の衣。文淑様がこっちに来たがるのも当然ですわ。それじゃあなたの家柄が泣きますわね」
八人の蝶が集まる食事の席で、金檀は結い上げた髪を自慢気になでつけていった。ゆるく巻いた髪には金細工に真珠がはめ込まれているかんざしが四本飾られていて、額にはチラチラと揺れる蝶の飾りがついている。金檀の正面に座っている芳梅は控えめな銀のかんざしと、布で作った赤い菊の造花を飾っている、侍女が運んできた水桶で手をすすぎ、流麗な仕草で指先を拭いながら我関せずというふうな口調で応えた。
「仰々しいのね、金檀。でも、どれだけ髪を結い上げても、所詮、あなたは妾なのよ」
言い終えてゆっくりと芳梅は顔をあげる、金檀を見る視線に鋭さはないが、空気は一瞬で凍りついた。
「負け犬の遠吠えね」
金檀はそう吐き捨てて、芳梅をにらみつけた。しかし室の扉が開き、文飛が入ってくると、みな立ち上がって何事もなかったように文飛に一礼をした。
「旦那様、酷いんですのよ。芳梅姉さんが、昨日旦那様が室に来たって自慢するんですのよ」
すかさず金檀は甘い声で文飛にすり寄っていった。文飛は金檀を抱きしめて受け入れると、芳梅の方に向いて言った。
「芳梅、それはいけないな。今夜は金檀のところに行こうか」
「まあ、旦那様、なんてお優しいのかしら」
金檀嬉しそうな顔をすると、文飛の肩に頭を乗せて、芳梅に見せつけるように睨めつけた。すかさず霖鵜が「ずるい」といって出てきて金檀の上着の裾を引っ張り、茶番のような文飛の取り合いが始まる。
「昼食が終わったら、珀秀様をお見送りしましょうね。」
文飛を取り合う金檀と霖鵜の間に割って入るように紫翅が言い、小雀も紫翅について文飛のそばによってきていた。
「そうね、紫翅。珀秀様はお忙しいのよ。次はいつ帰ってくるのかしら」
そう言いながら金檀は椅子に座ったままの芳梅にちらりと目線をやった。芳梅は気にもとめていないような様子でただ椅子に座っていて、金檀は文飛に聞こえないように小さく舌打ちをした。
「さあ、兄上はご多忙なのだ」
「でもそれじゃ、旦那様は寂しい思いをしますわね。私も悲しいですわ」
金檀はそう言いながら、顔を上げて文飛の腕を自分の体に引き寄せた。他の女たちも群がる中で、ただ淡雪と淡霞だけは椅子に座ったままその様子を見ていた。
「そうだ、お前たち。宴を催すことになったぞ。とてつもなく豪華な宴だ。皆が参加し、宴には珀秀兄上も参加する。青黛は踊り、お前たちは美しい演奏を期待しているぞ」
そうして、忙しく夏の宴の準備が始まった。
✿✿✿
宴は見事なものだった。青黛の舞も、演奏も何もかもが夢のように美しく、宴の締めくくりは霖鵜が提案した雨の舞だった。八人の蝶、それぞれが自身の色の細長い絹布を持って舞う。舞をしたことのない淡雪は淡霞とともに必死に練習を重ねたが、それでも動きは他の蝶たちに比べればぎこちない。それでも淡雪は必死になって、文飛のために宴を成功させるのだと頑張ってきた。
だが本番になって淡雪の想定していないことが起きた。なんと金檀が文飛を壇上に上がらせて舞台の真ん中に立たせたのだ。淡雪は体がわっと熱くなるのを感じて足もズシンと重たくなった。家付きの音楽隊の演奏が始まると、ついに舞が始まったが、それでも気持ちは収まらない。芳梅は軽やかな足取りで、金檀は色っぽい顔つきで、霖鵜は活発に、青黛は技巧を凝らすように、あれだけ自信がないと言っていた淡霞の舞も、自分の千鳥足の舞に比べればずっと上手に見えて、淡雪は顔をうつむけた。八人の蝶がいる中で自分のことが酷く滑稽に思えてならなかった。そうしてもう舞をやめてしまいたい、と思ったその瞬間、淡雪の持っている絹布は強く引っ張られた。淡雪の足はもつれて体は重心を崩し、倒れそうになるとすんで力強く支えられて、何かが両耳を塞ぐように覆いかぶさった。声を上げることもできず、必死で小さく息をすると乳香の香りがして体がこわばる。淡雪はその時何が起こったか分からなかった。足は地面の感覚を失い、宙に浮いているように感じた。霖鵜の声が聞こえ、他の姉妹たちの声も聞こえるがなんと話しているかまでは聞き取れず、自分の心臓が喉元まで上がってきているようで、その鼓動は体全体をズキズキと蝕むように痛く、熱かった。
「淡雪」
と文飛の声とともに、急に視界がひらけた。まばゆい月光に目の前が白飛びする。文飛の顔の輪郭が見えるよりも先に決死の思いで文飛から離れ、そのまま蝶の巣に戻った。急いで室に入ると、糸が切れたように床に座り込む、小さく震える手足と浅くなっている息、淡雪は自分の体に何が起きたのか分からぬまま、ゆっくりとうなだれた。ただ段々と体の熱が抜けていくと、今度は心が凍てついてしまうように感じた。頬に残った柔らかい絹の感触、薄い絹ごしに触れ合った体の熱が鮮明に思い起こされて、体の中で高波が打ち寄せているようだった。
「姉さん。大丈夫だった?」
そう扉越しに尋ねる淡霞に、淡雪は小さく言った。
「大丈夫」
その声に淡霞は薄い唇を噛んで、踵を返した。夏の夜は短いというものの、この日の夜は永遠と思われるほど長かった。真夜中には芳梅の流麗な琵琶の演奏が蝶の巣を包み、淡雪は布団を頭まですっぽりと被って眠り、淡霞はうまく寝付けなかった。
✿✿✿
翌朝、淡雪が一人で琴の調整をしていると、霖鵜が室にやってきて淡雪は戸を開いて霖鵜を招き入れた。
「雪姉さん。昨日、文飛様に抱き寄せられて、良かったわね」
霖鵜はおさげ髪を揺らしながら椅子に腰掛ける、淡雪は出してある道具を片付けながら霖鵜の正面に座った。
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蝶の巣 小原楸荘 @obarasyusou
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