《裏》〈雪と飛影〉ニ、【出逢い】

二、【出逢い(であい)】

 

 姉妹が文家の屋敷についた頃には、もう雪は溶けかけて春になっていた。春の陽気漂う蝶の巣は豪華絢爛な装飾が施された屋根や柱、庭の雪の中で咲く唐紅の梅の花は名画を切り抜いたようで眩しく、軽やかになく鳥のさえずりも心地いい。もし楽園があるのならこの場所のことを言うのだろうと姉妹はお互い眼を見合わせ、そのまま二人は蝶の巣の回廊を渡り、特別豪華に飾られている室の前まで連れてこられた。

 

 姉妹らを案内したのは珀秀という男で、名を文淑といい、皆からは四菊君と呼ばれて慕われていた。いつも派手な衣を身に着けていたが、この屋敷に戻ったときは地味な衣に身を包んだ。いつもは木で作った扇子を持っているが今朝は紙で作った扇子を持っていて、姉妹は文淑に指示されてしばらく室の前で待たされた。中からは文淑と何者かが楽しげに話す声が聞こえ、すんで扉は開かれた。


 その室は艶のある赤い木で作られていて、梅の枝を飾ってある大きな壺が両端に置いてある。天井からは蝶の飾りが垂れていて、部屋の両脇には天女と思われるような美しい衣に身を包んだ二人の女性と文淑が座っていた。二人は文淑に手招きされ、室の中に入っていったが、姉は室の奥に白い衣を身に着けた男が座っているのに気づき、妹も追ってそのことに気づき顔を前に向けた。文淑とその男はなにか言葉を言い交わしていたが、姉には聞き取れず、笑うと無邪気な子供のようになるその男の横顔を、目で追いかけた。

  

「そなたは今日から淡雪だ。白い部屋を与えよう」

 

 “淡雪”それがこの少女にとって生まれて初めてまともにもらった名前と言えるものだった。淡雪にはその言葉だけははっきりと聞き取れ、とたん体は石になってしまったようだった。

「ほら、旦那様があなたの名前をお呼びなすったのよ」

 赤い衣を身に着けた女性がそう催促するので、淡雪はゆっくりと頭を下げた。 

「文飛、やはり私の予想はあたったぞ」

 そういう文淑の声を聞いて、淡雪は小さな声でその名を口ずさんだ。だがそれに気がついてかちらりと文飛がこちらを見て、淡雪は目線を下げた。目の奥がかっと熱くなるような感覚がして歎息した。

 妹も、淡霞と名付けられ、自分の隣でうつむいている姉の顔を訝しく見ていた。淡霞にとって姉のその表情はどこか見慣れなく、一瞬胸の奥で火花が散ったような心地がしたからだ。だが淡雪はそんなことには気づかなかった。

 

 程なくして文飛は文淑とともに室から出たので、淡雪と淡霞の二人は、蝶の巣についての話を姉である芳梅と紫翅から聞いた。このとき二人が聞いたのは、文飛が室に来たときには窓を開けて楽器の演奏を披露すること、芳梅や紫翅のことは姉として慕うこと、文飛が部屋に来たときは一晩を区切りに相手をするということだった。

 

「あのひと、雪なんて。姉さんが嫌いな雪を選ぶなんて。あの人も、あの見世物小屋の男と同じよ」

 芳梅と紫翅が出ていった後、淡霞は首を掻きながら言った。揃いの真っ白な綿の着物を着せられた二人は、蝶の間の長椅子に隣り合うように身を寄せ合って座っていた。すんでゆっくりと淡雪の顔を覗き込むようにして見る、唇を尖らせて無造作に束ねられた黒髪がサラサラと肩から流れ落ち、淡雪は霞と目があうとゆっくりと目をつむって言った。

「淡霞。それは違うと思うの」

 その声に淡霞はビクリと震えて、目を丸くした。

「あの人、真っ直ぐな目をしてたから」

「もう、姉さんてば、悪いものに当てられたのだわ」

 そう言って淡霞は唇をとがらせた。

 

 ✿✿✿

 

 しばらくして二人は別室に通され、文飛と文淑が選んだという着物に着替えた。爪には油を塗り、侍女たちの手によって精緻に化粧まで施された。低く束ねてあっただけの髪は切り整えられ、二人の髪は編み込むように結い上げられ、本物の花のように作られた布製の髪飾りを挿し、玉が飾ってある靴を履いた。

 日暮れ近くになると、今度は部屋に連れて行かれた。先程通された蝶の間から少し歩くと、四つの室が向かい合って連なっている場所にでた。奥の二つの室の前にはそれぞれ提灯が吊るされていて、その光はまるで春の夜の夢のようにぼんやりと光っており、その色は水色と白、それ以外の室は驚くほどに静かで、ただひっそりと歩く靴音だけがしていた。

 

 淡雪は侍女に案内されて室の中にゆっくりと入った。室内は白く塗ってある箪笥や白磁の壺などが整然と並べられており、室の奥には蔓草模様が掘り出されている透かし細工のついた寝台が置かれている。寝台を囲むように掘られてる細工部分はよく見ると百合の文様もあり、寝台の長辺には丸い形の出入り口、中には絹で作った俵型の枕と綺麗にたたまれた厚手の布団が置いてあった。

 

「気に入ったかな」

 と言う声に淡雪は驚いて後ろに振り向いた。向いた先には白い上着を着た文飛が立っていた。

「は、はい……」

 淡雪はいってすぐにうつむいた。あかぎれている指を見せるのが恥ずかしくて衣の中に隠すと自然と一歩後ずさったが、文飛はその手をゆっくりとすくい上げ布を掛けてある壁の前まで案内した。淡雪が不思議そうに文飛の顔を見上げると、文飛は壁に掛けてある布をはぐり、淡い青磁のような色合いの室がそこから現れた。淡雪がキョトンとしていると文飛は子供らしい笑みを顔に浮かべ、室の中にゆっくりと手を引いた。すると程なくして青磁色の布がかかった寝台から淡霞が顔を出し、淡雪ははつらつとした声でいった。

「淡霞!」

「兄上から仲の良い姉妹だと聞いてね。壁に穴を開けさせたんだよ。これでいつでも姉妹と会うことができるね。」

 淡霞に駆け寄る淡雪の姿を見ながら文飛は言うと、姉妹に琴を弾くようにと頼んだ。姉妹にとって琴は見世物の一つにもなっていて、母親が唯一教えてくれた芸でもあった。

 一通り演奏を披露したあと、淡雪は指先で弦をいたずらにつま弾いて顔をあげると革を貼った四脚の椅子に深く腰掛けている文飛と目があった。淡雪はまた急いで目をそらしたが文飛はゆっくりと立ち上がり、蓮歩のような軽やかな足音がゆっくりと姉妹に近づいた。

「綺麗な髪だ。淡雪」

 そういう文飛の声に淡雪は少し身を引いた。白い上着は乳香の香りがし、その爽やかな香りが鼻先をなぜ、文飛の白い手がそっと束ねられた髪に伸びた。

「文飛様、姉はあまり人に触れられるのが好きではありません。怖がっています。」

 淡霞は言い、文飛の手をつかんで、少し文飛のことを睨みつけていった。見世物小屋で姉の髪に触れようとする輩は大体が乱暴人で、淡霞はついいつもの癖が出てしまった。淡霞に睨まれた文飛は白い髪の束に指先が触れていたが、驚いてはっとした顔をすると、淡雪の顔色を伺うように覗き込んだ。

「あ、それは失礼を。すまなかった。淡雪。大丈夫かい?」

 文飛は眉を垂れ、伸ばしたてを上着の中に引っ込める。淡雪はその指先を目だけで追いかけながら「はい」と少しうつむいたままで返事をした。

 

 文飛はその後、また古箏の演奏を聞いて、淡雪のことを気にかけてその日は夜が明けるのを待たずにそのまま室に戻った。

「姉さん、さっき大丈夫だった?」

「大丈夫よ。少し、怖くなっただけ。ほんの少し、苦しかっただけ。ありがとう」

 淡雪はそう言って、淡霞の手をなでつけ、一拍置いて古箏を片付けようと立ち上がると不意に細い弦で指を切った。白い指先に血の玉が成っていくと、すんで淡霞は声にならぬような小さな悲鳴を上げた。目の色を変えて淡雪に駆け寄り、自分の着付けている絹の着物で血を拭い、布の上から強く指を握って、血を止めようと努めた。その姿を見て淡雪は少し笑った。昔から体の弱い自分をかばい、守ってくれた妹を抱きしめ、そのまま二人で淡霞の室の寝台で横になった。

「姉さん。姉さんは、私が守るからね」

 眠たげな声でそういう淡霞の髪をなでつけながら、淡雪はゆっくりと目を閉じた。目を閉じると、爽やかな乳香の香りが、まだ鼻の奥に漂っているような気がして、細く目を開けた。霞が小さな寝息を立てているのを確認すると、文飛の指先が触れた髪の束をそっと鼻に近づけた。

 文飛のまとう香りはしないがそれでもなぜか、冷え切った体の中にひらりと花びらが舞い落ちてくるような心地がした。淡雪はゆっくりと息を吐いて目を閉じる。きれいな寝台に温かい布団、異臭が鼻をつくこともなければ、髪を引かれて引きずり回されることもない。こんなに静かな夜は、淡雪には初めてだった。今まで二人は臭い荷車の上で一枚の毛布を分け合いながら身を寄せ合って寝ていたからだ。もうこれからは食に困ることもない。美しい衣を着て、文飛と淡霞とともに楽しく暮らせていける。淡雪は今まで自分が苦労した分のつけを神様がやっと払ってくれてのだと思いながら、ゆっくりと眠りについた。

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