【裏】第一章〈雪と飛影〉

《裏》〈雪と飛影〉一、【雪の記憶】

一、【雪の記憶(ゆきのきおく)】

 

「あ、蝶」

 

 馬車に揺られながら少女は言った。風にのって吹き込んできた雪は、あかぎれた手の上にゆっくりと落ちてきて、溶けずにそのまま風に流される。少女はふわふわと舞っていく雪を手で追いかけたが、その冷ややかな空気に触れると身震いして手を引っ込めた。雪と同じ色をした真っ白な髪と濃い色をしたルビーのような瞳を少し震わせ、ひどく冷えた指先を息で温めた。肩に掛けてあるおおきなズタ袋を膝の上にかけてその中で小さく丸まった」 

「こんな季節に、蝶なんていないわ」

 隣でうずくまっている少女はその白い少女と同じ顔貌をしていたが真っ黒でカラスの濡れ羽のような髪をしていた。ただその眼はうつろで馬車が行き過ぎてできた車輪の真っ直ぐな痕を呆然と目で追っていた。

 

「でも、いたのよ。ほら」

 白い少女はそう言って雪の中を指さした。少女の目はめっぽう光に弱かったがしかし、だからこそ少女にははっきりと分かった。蝶の影は軽やかで、眼の中がこそばゆくなる。真っ白な雪の上に戯れて舞う二匹の蝶の影が確かにこの少女には見えていた。 

「そうね、蝶ね」

 隣でうずくまっている少女は少し顔を上げて言った。その顔には殴られた痕があって固まりかけた血が黒い塊になっていた。

 

 

「私達みたい」

 白い少女はポツリと言った。少女に名前はなかった。ただその白い見た目から、白女と主人からは呼ばれていた。「奇怪館」と書かれた立て看板と、黄色い垂れ幕の荷物の間で、この二人の少女は息を潜めながら、そっと肩を寄せ合う。後ろの方で水っぽい咳をする声と、女の嬌声が行き交っていた。

 しばらく行くと馬車は止まり、その勢いに扇倒しのように二人は倒れた。すんで荒々しい声が二人を呼ぶ、白い少女はズタ袋を剥がされ、薄手の白い服に着替えさせられた。

 

「さあ、よってらっしゃい!見てらっしゃい!中華の西方の果てで生まれたこの少女。母親が雪の精に取り憑かれたもんで、髪も体も真っ白け。ここでしか見られないよ!これが本当の雪女!」

 

 小太鼓を鳴らしながら、陽気な演説を飛ばす店の主人、隣に止めてある馬車から腕を引かれて青い布を被った少女が出てくる。少女は裸足で、乱暴に雪の上に投げられると、雪の上に倒れ込み、おぼつかない足つきで立ち上がると見物人の前まで歩み出て、青い布をそっと外した。

「さあ、どうですか、なかなか見られないでしょう!」

 

 見物人は、行き過ぎて行くものがほとんどだが、物珍しさにずっと立ち止まっているものもいる。その真っ白な顔貌はもの好きなら何刻見ても飽きが来ない。そのうち少女の息は白く細くなり、足は病的な赤さになる。だがそれでも見物人がいる限り、主人は少女が荷馬車に戻ることを許さなかった。

 

「雪女と言うなら、雪の中に埋めてみろ!」

 その声に、白い少女はゆっくりと顔を上げた。

「そんなことしたら!死んじまうってわからないの!」

 急に荷車から黒髪の少女が降りてきた。粗暴な声はしゃがれていて野良犬の唸り声に似ており、その少女は鋭い目つきで見物人を睨みつけ、すぐさま主人からとっておきの一発をお見舞いされた。雪の上を細い体が飛び、目と鼻の先で雪の上に垂れる血に、白い少女は瞳の奥が冷える感覚がした。雪の上に倒れて動かなくなった黒髪の少女を見ると、その白いまつげは震え、目の前の景色が急に眩しく見えた。

「お前たちは非人のくせに!人語を話すな!」

 そう行き交う声に、白い少女は、雪の上に倒れ込んだ。目を開くと、自分の体に雪が真っ直ぐに降ってくるのが分かる。美しく白い雪は体の熱を無慈悲に奪っていく。真っ白な雪、真っ白な自分の体。

 “雪なんて、嫌いよ”

 少女は雪が嫌いだった。もし普通に産み落とされていれば、今頃どのように暮らしていたか、母は泣かずにすんだのか、妹はまともに生きられていたか、そんな事を毎日考えていた。いやいっそ、自分さえ生まれなければ良かった。と数刻も間を空けずに思うことすらあった。

 “もう何もかもおしまいにしてしまおう”

 白い少女はゆっくりと息を吐いた。体の中にある熱も、空気も、何もかもすべてが体のそこかしこから砂がこぼれるように抜け落ちていく。するととたんに周りの喧騒は蓋をしたように聞こえなくなった。灰色の空の下。また瞳の奥がこそばゆくなった。

 

 そして少女はこの時初めて、雪にも音があることを知った。それはいままで聞いたことのない音だった。そっと耳を撫でるような音。小さな雪片が一面の銀世界に抗うこともできずゆっくりと吸い込まれて消えていく。

 そうして少女は自分の体に降り注ぐ雪の音に耳を傾けながら、ゆっくりと目を閉じた。

 

 ただその時、体をゆっくりと起こされるのがわかった。まぶたを重たく持ち上げると、目の前に濃い朱色の着物を着た貴公子が立っていた。

 

「買おう。この娘。言い値でいい」

 

 その声を聞いてすぐ、少女は自分のそばにすぐ妹が駆け寄ってくるのがわかった。

  

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