《裏》〈雪と飛影〉三、【楽園の真実】その①

 三、【楽園の真実(らくえんのしんじつ)】 

 

 しかし、その翌朝、二人が寝台から降り、室の外に出ると、そこには芳梅と紫翅が立っていた。

「昨晩、古箏を演奏するとき、窓を開けたの?」

 芳梅は腰まで垂らしてある長い髪の束を指で撫でながら言った。声色は優しげで、物腰は柔らかだが、大きな黒い目は狙い定めるようにじっと二人を見つめている。

「いいえ、すみません。お姉さん」

 淡雪は小さな声で答え、芳梅は小さくため息を付いたが、隣に立っていた紫翅は一歩前に出てきて淡雪の頬を叩いた。

「謝って終わることじゃないんだよ」

 そう吐き捨てる低い紫翅の声。突然のことに床にへたり込んだ淡雪に淡霞は駆け寄っていき紫翅を下から睨みつけた。

「昨晩夜が明ける前に、文飛様が部屋から出てきたようだけど、どうなっているの」

 きつくつり上がった目元。紫の着物で腰に硬い帯を巻いており、張り出した胸の上半分は零れ落ちそうになっていて、香りのする白い粉が叩いてある。背丈も姉妹より頭一つ分は大きく、その顔貌は今にも糸が切れそうに張り詰めていた。突然のことに芳梅は目を丸くして紫翅を淡姉妹から引き剥がそうとするが、紫翅は引き下がる素振りを見せなかった。

「文飛様が勝手に出ていったんです。私達が追い返したってわけじゃ……」

 それは淡霞の声だった。瞳孔は開き、歯を食いしばって、淡雪をかばいながら紫翅をにらみつける姿はまるで我が子を守る野良犬のようだった。芳梅はその勢いに押されて引き下がるが、紫翅は芳梅の腕を振り払って淡霞に向かっても腕を振り上げた。


「いいえ、文飛様は私に気を使ってくれていたのだと思います。引き止めるすべが、見つかりませんでした。すみません」

 淡霞の背にうずくまって片頬を赤く染めた淡雪は細い声を精一杯張り上げてそういった。それを聞いた紫翅は振り上げた手をゆっくりと戻して、今度は落ち着いた声でいった。

「このお屋敷の決まりを覚えているわよね」 

 紫翅は腕組みをして、淡雪と淡霞を見下していて、眼光は鋭い。負けじと淡霞も睨み返し、勢いよく立ち上がると吐き捨てるように言った。 

「でも、どうしてそんな事を守らなければいけないのです」

 威勢のよい淡霞の声、貴族での娘なら腰を抜かしそうな声の圧だったが、紫翅は構わずに淡霞に近づいていき、今度は眉を潜めながら低い声で言った。

「それはまだ、あなたたちの知ることじゃないわ。この家の決まりというだけよ」

 紫翅と淡霞は少しの間睨み合っていたが、間に芳梅が入り、淡雪に立つようにと声を掛けた。

「淡霞、姉をにらみつけるとは何事です。紫翅も、お粗末が過ぎますよ」

 芳梅の柔らかな声に二人はにらみ合うのをやめたが、芳梅が慌てるように深く頭を下げたので、それについで紫翅が頭を下げた。呆然と立ち尽くしていた淡雪と淡霞は二人の向いている方に向き直ると回廊の突き当りのところに木賊色の衣を着た文淑が歩いていてこちらにゆっくりと近づいてくるのがみえた。

 色の薄い茶髪を一つに束ねた文淑は丁寧に誂えた刺繍のある帯飾りをつけていて、翡翠で作った飾りを佩いていた。袖口の大きな上着を風にはためかせながら、真っ直ぐに進んでくると、一瞬だけ淡姉妹に目配せをし、芳梅に言った。

「何を話しているのだい」

 芳梅は胸の前で合わせている手をゆっくりと下ろして体を斜めにし、頭を下げたまま、ゆっくりと口を開いたが、その口から言葉が出る前に淡霞は文淑に言った。

「珀秀様、どうして、お屋敷の決まりがあるのです」

 その威勢の良さに、珀秀は面食らったような顔をして芳梅の方に向き直った。芳梅はただ少し微笑むだけで、紫翅は淡霞の肩をつかんで早口に言った。

「こら、なんてことを。珀秀様にっ」

 礼の姿勢を崩して言い始めた紫翅の方を珀秀はちらりと見ると、人差し指をたてて、紫翅の口を封じ、少しかがんで淡霞に目線を合わせて、朗らかに笑いながら言った。

「そうか、ではね……」

 


 その日の晩、侍女に言われて、二人の姉妹は芳梅の室に呼ばれた。戸を開くと、中には文淑と芳梅がおり、芳梅は汗ばんで寝台の上でぐったりとしているのが見えた。姉妹が室の中に入ると紙タバコと、麝香の香り、甘い木蓮の香りとが混ざり合って目の奥がかき回されるような瘴気がし、耐えられず寝台の前に行く前に歩みを止めた。

「こちらまでおいで」

 と艶めかしい声がして姉妹はゆっくりと寝台のそばまで寄った。仰向けに横たわる芳醇の成熟した流線型の体は羽のように背中にせり出した骨と、ハリのある臀部、腰についた小さなくぼみにぼんやりと影が落ちていて、呼吸するたびに浅い皿の上で揺れる水のように揺らめいていた。二人は寝台のそばに立ったまま、息を呑んで、芳梅を見つめた。芳梅は二人の足音を聞いてゆっくりと頭を上げると、そのまま体を起こして寝台に腰掛けた。

 

 結い上げられた髪には汗がしたり、きりりとした眦は溶け、唇は紅を挿したように鮮やかに見え、ハリのある乳房には桃色の乳頭、胸元から首に続く三つの黒子は二人の目に妙に焼き付いた。芳梅は真っ赤な纏足靴を履いた足で立ち上がると、そのまま爪を長く整えてある指を伸ばして、ゆっくりと淡雪の首元に触れた。

「あなたの、主人は文飛様ではないのよ」

 芳梅はそう言うと、そのままゆっくりと淡雪の唇に、自分の唇を近づけた。しかし吐息が鼻先をかすめたその瞬間、芳梅の体は勢いよく淡雪から引き剥がされた。汗ばんだ柔肌は文淑の腕の中にすっぽりと収まって、小さく震える。文飛に仕え、文飛の前でにこやかに笑っていた芳梅は、今は文淑の腕の中で、酒に溺れるような悦の目をしていた。

 二人にはこの光景に見覚えがあった。見世物小屋にいるとき、狭い荷馬車の中で体を重ねて駄賃を稼ぐ者もいた。その手伝いや後始末をしたこともあった。身を売られた以上、避けきれないことなのだと言うことも重々承知していた。

 

 文飛は仮の主、女はみな年頃になれば文淑に体を捧げ、文飛はその事を知らない。この蝶の巣に設けられた決まりの数々が文淑のためにあり、それを守れなければここから追い出されるということ。二人がこの事を理解するのにそう多くの時間はかからなかった。

「次、決まりを破ったら、蝶の巣にはいられないよ」

 赤の室から出る間際、二人は文淑から声を掛けられ、振り向くと不遜に笑う文淑の顔がみえた。

 

 ✿✿✿

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る