〈蝶の舞〉一、【夢幻に翅音を聞く】その②

その時、悪夢にうなされていた文飛ぶんひは身体中じっとりと濡れていた。そばには火鉢が二つも置いてあり、頭元で侍女と文碧ぶんへきが頭垂れるようにして寝ている。おそらく文碧ぶんへきは弟を心配して面倒を見てくれていたのだろうと文飛ぶんひは考えてゆっくりと起き上がった。兄の細長い顔が光に照されて、なんだか大根のように見える。文飛はいたずらにその黒髪を何度か引っ張ってみたが、兄は一向に起きる気配はなく、不満げな顔をした。しかしそのとき、何かが割れるような鈍い音が文飛の頭に響いた。高熱の折り、まだ、意識がはっきりとしていなかった文飛の詰まったような頭の中に、その音は大きな音叉を何度も耳元で叩かれているように響きなり、続いて、何かが倒れる音、そして、壁に叩きつけるような音、と、頭を割るような雑音が、よせては返す波のように何度も文飛の頭の中を洗った。かろうじて戻ってきた意識も、その雑音が波のように拐っていってしまうのに、文飛は耐えられなくなって、よろよろと寝台から降りて、その音の方へ歩いていった。体は鉛のように重く、足は雲の上を歩いてるように浮き沈みするようで意識もはっきりとしない中、文飛はかろうじてその音のする場所にたどり着いた。いつも自分が通っている父の部屋からその音はしており、慣れた手つきで扉を開けようとするものの、近づいてみると部屋の中からは何か悲鳴めいたものがきこえるようだった。それは、兄文淑ぶんしゅくの悲鳴だと、文飛は朦朧とした意識の中で気がついた。文碧が風流を教える師ならば、文淑は優しい学問の師である。文飛は兄を思う気持ちを込めて、扉を思い切り押した。しかし扉は、何かがつっかえているようで重たく文飛には開けることが出来なかった。

 そこで文飛は、力任せに思い切りその戸を押した。それでも扉は開かなかったが、今度はなにか大きなものが倒れる音がし、また耳を裂くような高い音が頭に刺さった。少しの間耳を塞いでその場にうずくまる文飛であったが、戸が少しだけ開いているのを見て、震える細腕で戸を軽く押すと、木の軋む音がして今度は簡単に戸が開いた。

 

 

 その時文飛の目の前に広がる光景はこのようであった。衣をほとんどの剥がされて震えている兄と、割れた青磁と白磁の破片。倒れた本棚に、目を開けたまま倒れた父。父親はひくひくと痙攣して、頭からとうとうと血が流れ出していた。幼い文飛には、それが何を意味しているのか分からず、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 

「……文飛」

 ただ、呆然としている文飛を見て、文淑は優しく声をかけた。一見繕っているようにも見えるが、その声は震えていてた。

「淑兄上、父上はどうしたのですか、淑兄上は大丈夫ですか」

 汗を滴らせながら、やっとの事で立っている文飛は名を呼ばれると、よろよろと兄の元へ進んだ。

「おいで、文飛。」

 文淑は、こちらに向かってくる文飛を見て、ゆっくりと手を広げた。

「僕が、父上を?僕が、扉を開けたから」

「いいや違うよ」

 ただ、途中で立ち止まってしまった弟を見て、文淑はとっさにかけよって優しくその身を抱き締めた。文飛は湯を入れた皮袋のように暖かく、柔らかだった。

「悪い盗賊が、父さんを殺していってしまったんだ。兄さんも殺されるところだった」

 文淑は声を押し殺しながらそう言って文飛をきつく抱き締め、汗で濡れた文飛の髪を撫で付けながら、何度も謝った。

「ごめんよ、兄さん、父さんを守れなかった。ごめんよ、ごめんよ。ごめんよ…」

 文淑には、そうするのが一番だと思えた。文飛は声を絞るように兄の腕の中で泣いたが、熱で疲れているせいか、すぐに寝付いてしまった。


 ✿✿✿

 

 翌日、寝台で目覚めた文飛の頭の中には昨晩のことは靄がかかったようにしか思い出せなかった。ただその後、自分を置いて義母が首を吊ったことで、釣り下がって奇妙に揺れる義母の小さな足。父の葬送の線香の匂いが染み付いた霊廟で、兄弟四人で膝をついて泣いたことのほうがよほど記憶に残っていた。亡くなった義母は文碧と文淑の母で、まだ、幼い文景は死を悼むことを理解できないでおり、兄たちの悲しむ顔を見て泣いているようであったが、文飛もまた、兄二人に比べれば、心の痛みは少ないのだろうと思っていた。なぜなら、文飛の母は文飛を産んですぐ亡くなってしまっていたので、母が亡くなることの悲しさや、母の慈しみ深き愛というものもわからなかったからだ。

 

 ただ、父の霊廟を前に「蝶の巣」という言葉が文飛の頭の中に何度かよぎった。そしてその言葉を思うたび、自分が蝶の籠になったようなあのこそばゆく、満たされる感覚がした。蝶の翅音、美しい翅、鱗粉、羽ばたきのわずかな風、体を撫で付ける蝶の翅が体を暖かく満たしていくのだ。

 ただ、蝶の巣を思うたび、ふいに目の前に倒れた父の姿も浮かんだ。父の遺体からとうとうと流れる赤い血。その血から赤い蝶が生まれ出てきて、その蝶は宝玉を身につけているようにちりちりと光りながら部屋を飛び回る。蝶は金色の鱗粉を散らしながら飛んでいた。そのうち、父の脱け殻から遠く離れて、瞬くように暗闇のなかを飛んだ。その姿は美しく、くるくると回りながら燃えつきていった。

 

 燃え尽きて蝶は灰となり、灰からまた、赤い蝶が生まれた。そしてその蝶も金粉を巻き上げながら飛び、燃えて、また、生まれ、飛び、燃えて、生まれ、燃えて、生まれ、燃えて、生まれ燃えて、生まれ燃えて生まれ、燃えて……文飛はそうして、父から切り離された赤い蝶だけを夢に見るようになった。

 

 燃えては、また生まれ、体の中を暖かく満たし、そしてまた燃え尽き……美しい金の鱗粉を撒き散らしながら……飛んで……



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