〈蝶の舞〉一、【夢幻に翅音を聞く】


 

「蝶はどこに巣を作るの?」

 文飛ぶんひは父親の顔をじっとりと見上げた。蝋燭の火が、父の顔に影を一層濃く映し出していた。


「蝶には巣なんかない。帰る場所なんかないんだよ」

 父は、優しい声色で答え、文飛の頭を優しく撫でた。

 

「じゃあ、僕の飼ってる蝶は逃がしても帰ってこないの?」

 文飛は消え入りそうなほど小さな声で呟いた。視線は遠く空に投げ掛けられ、遠く蝶に思いを馳せているようだった。

 

「帰ってこないさ」

 ただ父はまた、優しくささやくと、こちらをお向き、と耳元で囁いて、文飛の肩を優しく撫で付けた。

 

「僕が卵から育てたんだ。僕ん家に、帰ってくる……」

 そう言って文飛は恐る恐る父の顔を見上げた。その浅黒い瞳に自分の白い顔がうつると、まるで父が、蝶は何をしたって二度と帰ってくるものでないと、心で唱えているのが透けて見るように感じた。文飛はその瞳の奥の淀みに小さく震えると、父は目を細め、何か哀れなものでも見るような目付きで文飛を見下ろした。そうして震える文飛をなだめるよう、何度かその細い腕や、横腹を優しく撫でた。こそばゆいかい、父はそう問うてきたが、この時幼い文飛は、もう蝶のことで頭がいっぱいになっており、上の空のようだった。


「じゃあ、小飛、お前が、作ればいいさ。蝶の巣を」

 ただ父がそう言ってにこやかに微笑むと、文飛は引き寄せられるように父の顔をまた見上げた。するとその様子に満足したように、父は文飛の柔らかい髪を撫で付け、何度か頷いた。蝶の巣を作れる。そう聞いて文飛は堪らなかった。頭の中で色とりどりの蝶が鈴なりに群れて飛びはじめ、体を小さく揺すると、まるで自分の頭の中に蝶を閉じ込めているような感覚がして、頭の中がこそばゆくなった。

 

「こそばゆいのかい?」

 そう言って父がもう一度優しく微笑みかけると、文飛は小さく頷いて、今度は弾けるように笑った。文飛が笑うと、柔らかな頬が団子のように艶めいて膨らみ、薄い眉毛がこぼれるように垂れる。その様子に父は満悦し、文飛の細い太ももを優しく撫で付け、胸部に何度か接吻をし、文飛の性器をおもむろにまさぐった。

 

「お前は蝶だ。美しく可憐だろう。それに脆い。一度失った美しさは、二度と戻ることはないのだよ」

 父の言葉はもう文飛には届いていなかった。文飛の頭の中では一匹の銀色の蝶が飛んでおり、そのうち、自分の体がすっかり鳥籠になってしまって、体の中でなん十匹もの蝶が飛んでいるように思えた。蝶の羽は体の内側から何度も文飛をいたずらにくすぐり、そのうち、だんだん蝶が多くなると、文飛は体の中が全部蝶の翅でいっぱいになってしまうようだった。

 

 

 ーー蝶の巣をつくる。

 

 頭の中で文飛は何度も唱えた。美しい蝶を閉じ込めておける巣をつくる。自分の手で。必ず。つくる。

 

 ✿✿✿

 

 文飛はこのとき七つの歳だった。毎晩、父である文宝ぶんぽうの寝室に行くと、わかったように服を脱いで、寝台に寝て父の事を待った。文飛の四肢は白く、柔らかで暖かくて、子供特有の甘い香りがした。その目鼻立ちはすっきりと整い、端正な面立ちを子供らしい潤んだ目がさらに際立たせ、血色のいい薄い唇、綿雪のような頬、磨かれた貝のような小さな爪に、絹糸の束のような細い髪。すべてが文宝を満足させる玩具としてふさわしかった。

 文飛のほかに、文家には二人の兄と一人の弟がいたが、誰も文宝を満足させるには至らず、三人とも文飛とは腹違いで、年も離れていた。

 一番上の兄はへき、すでに成人しており字を環叡かんえいといった。漢詩を好み風流を愛する男で、器楽に詩文にも秀でていたが、その体は貧弱で、顔は細長くひどくやつれていた。何より幼少の時から皮膚病にかかっているため、肌は赤みがかったオレンジ色で、勉学もでき、聖人君子と評される性格ではあったが、父である文宝の期待には沿わなかった。

 二番目の兄はしゅくといった。文家の四兄弟の中では最も勉学に優れていたが、風流を理解できず、象棋も馬術もなんにかけても抜きん出ない質であった。しかしその面差しは清閑に整っており、琥珀色の瞳と美しい髪を持っていたが、文宝への反抗心が強く、従順でなかったため、文宝も従順な文飛ばかりを気をかけるようになった。

 四番目の息子、けいは、文飛より一つ年下の弟だったが、生まれたときから肌の色が浅黒く、まるで猿のように毛深かった。眉、髪もごうごうとして、体つきもしなやかでないため、文宝は気にかけることすらしていなかった。

 

 そしてこれは、文碧、二十三歳、文淑、十五歳 、文飛、七歳、文景、六歳のときのこと。

 その日は、ひどく寒く、外ではごうごうと吹雪に近い風が吹き、雨戸がギシギシと揺れるような恐ろしい夜だった。文飛は冷気に当たって熱を出し、侍女がそれを看病していた。文宝は文飛が風邪なのを哀れんでいたが、それよりもその日の晩の供が居ないことの方が気にかかっていた。病弱な文碧は、もう戴冠を終え、環叡と名も変わり、背も自分を越すほど嫌に高い。文淑と最後にまともに会ったのは七歳の時だが、ひどく我が強く、優しく抱えた腕の中で暴れたのを思い出すと気が進まなかった。かといって幼い文景は、まだ幼げがあることは確かであるが、よく寝小便をすると乳母から聞いていた。そうなると、選択肢は文淑しか残らなかった。文宝は手慰めにしなくても、ちょっとした話し相手にはなるだろうと考え、その夜部屋に文淑を呼んだ。文淑はすぐやってきて、部屋へ入ると嫌な顔をせず卓子につき、難しそうな漢詩の書籍を広げた。なるほど、やはり七歳の頃とは違い、物わかりも良さそうなものだと、文宝は自分の息子に期待の眼差しを向けた。

 

「文淑、なぜ、呼ばれたと思う」

 文宝は寝台の上で身を起こし、薄い絹ごしに文淑様の顔を見た。

「わかりません父上。ただ、本でも持ってきていいということなので、勉強でも見てくれるのですか」

 文淑の声はもうすでに子供らしいとは言えなかったが、とても安らかで、落ちついた気持ちになるような声だった。文宝は息子の変わりように一層期待を膨らませ、話を続けた。

「父は、この寒い中、一人で寝るのも寂しい身なのだ。何か、お前の好きな話でも聞かせてくれまいか。お前の近頃の話でもいい」

 文宝は寝台の上で膝をたてて座った。

「それならば、ひとつ、昔話を、父上がよく眠れるように」

 文淑はそういうと、緑の冊子を取り出して広げ、少し下にうつむいて音読を始めた。うつむいた文淑の顔は灯籠に照されて妖艶に浮かび上がり、細いまつげは明かりを透かして、月光下のすすきのようであった。ふいに風が入り込み、灯籠の灯が揺れると、文淑の顔は湖面の月のように揺らめいた。

 哀愁を含んだ息子の透き通るような顔立ち、まだ男になりきっていない細い肩。文淑の声は心を落ち着かせるようでいて、文宝の心を乱すようであった。

 ふとまた、灯籠の灯が揺れると、文淑は灯籠に目をやった。

「どこからか風が吹き込んでいるようです。寒くありませんか」

 文淑は文宝に視線を投げた。その刹那、文宝は文淑とふと目が合った。ただ、薄い絹ごしにもそれは鮮烈だった。息子の目の中に灯籠の光が宿ってゆらゆらと揺れ、まるで琥珀の宝玉のような澄んだ瞳を文宝は捕らえた。文宝はゆっくりと立ち上がると、また視線を落として本を音読する息子の前までゆっくりと歩いた。文宝が文淑の前に立つと、灯籠の明かりは遮られ、文淑は自分の目の前に立ち尽くす父をゆっくりと見上げた。

「父上、この話は…」

 文淑の視界はこれより暗転し、訳もわからずあがくと、手は卓子に置いてあった青磁の壺に当たった。

 ガシャンッ という音がして、衣擦れの音、父の優しい囁きと、湿った鼻息とが首筋を這った。父の囁きはもはや言葉に聞こえず、耳の中に泥水を詰められ、言葉の形をしたミミズがその中で這っているようだった。

悪夢にうなされていた文飛は身体中じっとりと濡れていた。そばには火鉢が二つも置いてあり、頭元で侍女と文碧が頭垂れるようにして寝ている。おそらく文碧は弟を心配して面倒を見てくれていたのだろうと文飛は考えてゆっくりと起き上がった。兄の細長い顔が光に照されて、なんだか大根のように見える。文飛はいたずらにその黒髪を何度か引っ張ってみたが、兄は一向に起きる気配はなく、不満げな顔をした。しかしそのとき、何かが割れるような鈍い音が文飛の頭に響いた。高熱の折り、まだ、意識がはっきりとしていなかった文飛の詰まったような頭の中に、その音は大きな音叉を何度も耳元で叩かれているように響きなり、続いて、何かが倒れる音、そして、壁に叩きつけるような音、と、頭を割るような雑音が、よせては返す波のように何度も文飛の頭の中を洗った。かろうじて戻ってきた意識も、その雑音が波のように拐っていってしまうのに、文飛は耐えられなくなって、よろよろと寝台から降りて、その音の方へ歩いていった。体は鉛のように重く、足は雲の上を歩いてるように浮き沈みするようで意識もはっきりとしない中、文飛はかろうじてその音のする場所にたどり着いた。いつも自分が通っている父の部屋からその音はしており、慣れた手つきで扉を開けようとするものの、近づいてみると部屋の中からは何か悲鳴めいたものがきこえるようだった。それは、兄文淑の悲鳴だと、文飛は朦朧とした意識の中で気がついた。文碧が風流を教える師ならば、文淑は優しい学問の師である。文飛は兄を思う気持ちを込めて、扉を思い切り押した。しかし扉は、何かがつっかえているようで重たく文飛には開けることが出来なかった。

 そこで文飛は、力任せに思い切りその戸を押した。それでも扉は開かなかったが、今度はなにか大きなものが倒れる音がし、また耳を裂くような高い音が頭に刺さった。少しの間耳を塞いでその場にうずくまる文飛であったが、戸が少しだけ開いているのを見て、震える細腕で戸を軽く押すと、木の軋む音がして今度は簡単に戸が開いた。

 

 

 その時文飛の目の前に広がる光景はこのようであった。衣をほとんどの剥がされて震えている兄と、割れた青磁と白磁の破片。倒れた本棚に、目を開けたまま倒れた父。父親はひくひくと痙攣して、頭からとうとうと血が流れ出していた。幼い文飛には、それが何を意味しているのか分からず、ただ立ち尽くすことしか出来なかった。

 

「……文飛」

 ただ、呆然としている文飛を見て、文淑は優しく声をかけた。一見繕っているようにも見えるが、その声は震えていてた。

「淑兄上、父上はどうしたのですか、淑兄上は大丈夫ですか」

 汗を滴らせながら、やっとの事で立っている文飛は名を呼ばれると、よろよろと兄の元へ進んだ。

「おいで、文飛。」

 文淑は、こちらに向かってくる文飛を見て、ゆっくりと手を広げた。

「僕が、父上を?僕が、扉を開けたから」

「いいや違うよ」

 ただ、途中で立ち止まってしまった弟を見て、文淑はとっさにかけよって優しくその身を抱き締めた。文飛は湯を入れた皮袋のように暖かく、柔らかだった。

「悪い盗賊が、父さんを殺していってしまったんだ。兄さんも殺されるところだった」

 文淑は声を押し殺しながらそう言って文飛をきつく抱き締め、汗で濡れた文飛の髪を撫で付けながら、何度も謝った。

「ごめんよ、兄さん、父さんを守れなかった。ごめんよ、ごめんよ。ごめんよ…」

 文淑には、そうするのが一番だと思えた。文飛は声を絞るように兄の腕の中で泣いたが、熱で疲れているせいか、すぐに寝付いてしまった。


 ✿✿✿

 

 翌日、寝台で目覚めた文飛の頭の中には昨晩のことは靄がかかったようにしか思い出せなかった。ただその後、自分を置いて義母が首を吊ったことで、釣り下がって奇妙に揺れる義母の小さな足。父の葬送の線香の匂いが染み付いた霊廟で、兄弟四人で膝をついて泣いたことのほうがよほど記憶に残っていた。亡くなった義母は文碧と文淑の母で、まだ、幼い文景は死を悼むことを理解できないでおり、兄たちの悲しむ顔を見て泣いているようであったが、文飛もまた、兄二人に比べれば、心の痛みは少ないのだろうと思っていた。なぜなら、文飛の母は文飛を産んですぐ亡くなってしまっていたので、母が亡くなることの悲しさや、母の慈しみ深き愛というものもわからなかったからだ。

 

 ただ、父の霊廟を前に「蝶の巣」という言葉が文飛の頭の中に何度かよぎった。そしてその言葉を思うたび、自分が蝶の籠になったようなあのこそばゆく、満たされる感覚がした。蝶の翅音、美しい翅、鱗粉、羽ばたきのわずかな風、体を撫で付ける蝶の翅が体を暖かく満たしていくのだ。

 ただ、蝶の巣を思うたび、ふいに目の前に倒れた父の姿も浮かんだ。父の遺体からとうとうと流れる赤い血。その血から赤い蝶が生まれ出てきて、その蝶は宝玉を身につけているようにちりちりと光りながら部屋を飛び回る。蝶は金色の鱗粉を散らしながら飛んでいた。そのうち、父の脱け殻から遠く離れて、瞬くように暗闇のなかを飛んだ。その姿は美しく、くるくると回りながら燃えつきていった。

 

 燃え尽きて蝶は灰となり、灰からまた、赤い蝶が生まれた。そしてその蝶も金粉を巻き上げながら飛び、燃えて、また、生まれ、飛び、燃えて、生まれ、燃えて、生まれ、燃えて、生まれ燃えて、生まれ燃えて生まれ、燃えて……文飛はそうして、父から切り離された赤い蝶だけを夢に見るようになった。

 

 燃えては、また生まれ、体の中を暖かく満たし、そしてまた燃え尽き……美しい金の鱗粉を撒き散らしながら……飛んで……



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