【表】 第一章〈蝶の舞〉
〈蝶の舞〉一、【夢幻に翅音を聞く】その①
「蝶はどこに巣を作るの?」
「蝶には巣なんかない。帰る場所なんかないんだよ」
父は、優しい声色で答え、文飛の頭を優しく撫でた。
「じゃあ、僕の飼ってる蝶は逃がしても帰ってこないの?」
文飛は消え入りそうなほど小さな声で呟いた。視線は遠く空に投げ掛けられ、遠く蝶に思いを馳せているようだった。
「帰ってこないさ」
ただ父はまた、優しくささやくと、こちらをお向き、と耳元で囁いて、文飛の肩を優しく撫で付けた。
「僕が卵から育てたんだ。僕ん家に、帰ってくる……」
そう言って文飛は恐る恐る父の顔を見上げた。その浅黒い瞳に自分の白い顔がうつると、まるで父が、蝶は何をしたって二度と帰ってくるものでないと、心で唱えているのが透けて見るように感じた。文飛はその瞳の奥の淀みに小さく震えると、父は目を細め、何か哀れなものでも見るような目付きで文飛を見下ろした。そうして震える文飛をなだめるよう、何度かその細い腕や、横腹を優しく撫でた。こそばゆいかい、父はそう問うてきたが、この時幼い文飛は、もう蝶のことで頭がいっぱいになっており、上の空のようだった。
「じゃあ、小飛、お前が、作ればいいさ。蝶の巣を」
ただ父がそう言ってにこやかに微笑むと、文飛は引き寄せられるように父の顔を見上げた。するとその様子に満足したように、父は文飛の柔らかい髪を撫で付け、何度か頷いた。
蝶の巣を作れる。
そう聞いて文飛は堪らなかった。頭の中で色とりどりの蝶が鈴なりに群れて飛びはじめ、体を小さく揺すると、まるで自分の頭の中に蝶を閉じ込めているような感覚がして、頭の中がこそばゆくなった。
「こそばゆいのかい?」
そう言って父がもう一度優しく微笑みかけると、文飛は小さく頷いて、今度は弾けるように笑った。文飛が笑うと、柔らかな頬が団子のように艶めいて膨らみ、薄い眉毛がこぼれるように垂れる。その様子に父は満悦し、文飛の細い太ももを優しく撫で付け、胸部に何度か接吻をし、文飛の性器をおもむろにまさぐった。
「お前は蝶だ。美しく可憐だろう。それに脆い。一度失った美しさは、二度と戻ることはないのだよ」
父の言葉はもう文飛には届いていなかった。文飛の頭の中では一匹の銀色の蝶が飛んでおり、そのうち、自分の体がすっかり鳥籠になってしまって、体の中でなん十匹もの蝶が飛んでいるように思えた。蝶の羽は体の内側から何度も文飛をいたずらにくすぐり、そのうち、だんだん蝶が多くなると、文飛は体の中が全部蝶の翅でいっぱいになってしまうようだった。
ーー蝶の巣をつくる。
頭の中で文飛は何度も唱えた。美しい蝶を閉じ込めておける巣をつくる。自分の手で。必ず。つくる。
✿✿✿
文飛はこのとき七つの歳だった。毎晩、父である
文飛のほかに、文家には二人の兄と一人の弟がいたが、誰も文宝を満足させるには至らず、三人とも文飛とは腹違いで、年も離れていた。
一番上の兄は
二番目の兄は
四番目の息子、
そしてこれは、文碧、二十三歳、文淑、十五歳 、文飛、七歳、文景、六歳のときのこと。
その日はひどく寒く、外ではごうごうと吹雪に近い風が吹き、雨戸がギシギシと揺れるような恐ろしい夜だった。文飛は冷気に当たって熱を出し、侍女がそれを看病していた。文宝は文飛が風邪なのを哀れんでいたが、それよりもその日の晩の供が居ないことの方が気にかかっていた。病弱な文碧は、もう戴冠を終え、環叡と名も変わり、背も自分を越すほど嫌に高い。文淑と最後にまともに会ったのは七歳の時だが、ひどく我が強く、優しく抱えた腕の中で暴れたのを思い出すと気が進まなかった。かといって幼い文景は、まだ幼げがあることは確かであるが、よく寝小便をすると乳母から聞いていた。そうなると、選択肢は文淑しか残らなかった。文宝は手慰めにしなくても、ちょっとした話し相手にはなるだろうと考え、その夜部屋に文淑を呼んだ。文淑はすぐやってきて、部屋へ入ると嫌な顔をせず卓子につき、難しそうな漢詩の書籍を広げた。なるほど、やはり七歳の頃とは違い、物わかりも良さそうなものだと、文宝は自分の息子に期待の眼差しを向けた。
「文淑、なぜ、呼ばれたと思う」
文宝は寝台の上で身を起こし、薄い絹ごしに文淑様の顔を見た。
「わかりません父上。ただ、本でも持ってきていいということなので、勉強でも見てくれるのですか」
文淑の声はもうすでに子供らしいとは言えなかったが、とても安らかで、落ちついた気持ちになるような声だった。文宝は息子の変わりように一層期待を膨らませ、話を続けた。
「父は、この寒い中、一人で寝るのも寂しい身なのだ。何か、お前の好きな話でも聞かせてくれまいか。お前の近頃の話でもいい」
文宝は寝台の上で膝をたてて座った。
「それならば、ひとつ、昔話を、父上がよく眠れるように」
文淑はそういうと、緑の冊子を取り出して広げ、少し下にうつむいて音読を始めた。うつむいた文淑の顔は灯籠に照されて妖艶に浮かび上がり、細いまつげは明かりを透かして、月光下のすすきのようであった。ふいに風が入り込み、灯籠の灯が揺れると、文淑の顔は湖面の月のように揺らめいた。
哀愁を含んだ息子の透き通るような顔立ち、まだ男になりきっていない細い肩。文淑の声は心を落ち着かせるようでいて、文宝の心を乱すようであった。
ふとまた、灯籠の灯が揺れると、文淑は灯籠に目をやった。
「どこからか風が吹き込んでいるようです。寒くありませんか」
文淑は文宝に視線を投げた。その刹那、文宝は文淑とふと目が合った。ただ、薄い絹ごしにもそれは鮮烈だった。息子の目の中に灯籠の光が宿ってゆらゆらと揺れ、まるで琥珀の宝玉のような澄んだ瞳を文宝は捕らえた。文宝はゆっくりと立ち上がると、また視線を落として本を音読する息子の前までゆっくりと歩いた。文宝が文淑の前に立つと、灯籠の明かりは遮られ、文淑は自分の目の前に立ち尽くす父をゆっくりと見上げた。
「父上、この話は…」
文淑の視界はこれより暗転し、訳もわからずあがくと、手は卓子に置いてあった青磁の壺に当たった。
ガシャンッ という音がして、衣擦れの音、父の優しい囁きと、湿った鼻息とが首筋を這った。父の囁きはもはや言葉に聞こえず、耳の中に泥水を詰められ、言葉の形をしたミミズがその中で這っているようだった。
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