〈蝶の舞〉十七、【蝶の諍い】 その③

「千泰円の女が妊娠しています!」


直後、蝶の間には青黛せいたいが連れてこられた。来る前によっぽど抵抗したのか、顔の半分が隠れるほど髪が乱れており、なによりその腹は分厚い上着越しにも、まりを抱えたような大きく見えた。

「部屋を閉め切っていらっしゃって、怪しいと思い中に入りましたら、この立派な腹を見まして。ここに連れてきました」

 下男はそう言って説明をすると、文淑が一歩前に躍り出て言った。

「医者。生み月はいつになる」

 医者は頭を下げながら、何度も小さな声で言った。

「来月ほどでしょうか」

「よくこんなにだらしない腹を、私に見せられたな。青黛。医者をどう欺いた?ん?」

 文淑はそう言いながら、青黛ににじり寄っていく、青黛は重そうに腹を抱えながら跪き、口を引き結んでいた。

「誰の子だ?」

 文淑のその声に、青黛は眉根を寄せたが、ゆっくりと顔を持ち上げ文淑の顔をまっすぐに見て言った。

「これが、大旦那様のお子だと言ったら。産ませてくださるのですか」

 その声には芯があり、その目にも強い意思が宿っていたが、文淑は動じず、今度は柔らかな声で言った。

「もう一度、その忌々しいことを言ってみろ」

「この私の腹に宿るのが、環叡様の子でしたら――」

 しかし途端、青黛の体は吹き飛んだ。手では必死に腹をかばい、床の上に倒れ込む。

「兄を汚すな!」

 そう叫ぶ文淑、片頬だけが赤く染まった青黛に紫翅が駆け寄った。

「それが兄の子であると言うなら、お前を今すぐに殺す。私の子だと言うなら、許してやろう。どらちだ!」

 文淑の声に、青黛は急いで身を起こして跪いた。

「嘘をついて申し訳ありません。これは珀秀様の子で、今まで隠しておりました。こう嘘を申せば、許してくださると思ったのです。私は、子を産めない体になるなど嫌です。姉さんたちのように、子の産めない体になるのは!私はこの子を生みます。必ず生みます」

「ああ、好きにすればいいさ。今すぐにこの屋敷から出ていけ。そしてまた奴隷商にでも世話になればいい」

 文淑はそう吐き捨て、芳梅をキッと睨みつけた。

  

「兄上。なぜ青黛が、兄上の子を。兄上は、青黛と、何を?」

 文飛はただそう言うことしか出来なかった。そう言いながら、文淑に近づいていきその腕をつかんで引き寄せた。答えぬ文淑の名を何度も呼んだ。袖を引いて、まるで駄々をこねる子供のように、文淑の名を呼んだ。

「黙れ!」

 

 という鋭い声、すんで

 「私は、お前が、嫌いだ」

  と兄が言う声が聞こえた。

 

「美しさを鼻にかけて、自分の有能であることを鼻にかけて、反吐が出る」

 

「蝶の巣。笑わせてくれる。ここにいる女どもは、すべて私の寂しさを紛らわす道具でしかない。なぜわざわざ、提灯を付けさせると思う、お前の行った部屋が分かるようにだ。なぜ他の女たちの部屋の明かりを消させるか分かるか、私が忍んで行きやすいからだ。なぜ必ず楽器の演奏をさせるか分かるか、演奏が続いている間、お前が部屋から出てくることはないからだ。すべて私が選び、すべてが私のために誂えられた。私だけの蝶の巣だ」

 そういう文淑の声を、文飛はおぼろげに聞いた。

 

 ✿✿✿

 

 文淑にとっての蝶の巣の始まりは、二番目の蝶、「紫翅」を連れ帰ったときだった。文淑は紫翅の部屋を芳梅の隣でなく、渡り廊下を渡った向かい側にきめ、その夜、密かに芳梅と体を重ねた。紫翅が演奏をしている間文飛は部屋から出てこず、その後蝶が増えていくに連れ、自分が蝶の巣に通いやすいように決め事を作り、芳梅の指導の元それを守らせ、また、文淑は、自分が文碧に嫌われるのを避けるため文飛に従順なように振る舞い、その証拠を抹殺してきた。蝶を姦淫しているなどは以ての外であり、その結果このようないくつかのルールを作り出した。

 

 一、文飛が訪れる部屋には提灯を付ける。

 二、蝶たちが演奏をするときは必ず窓を開け、演奏が文淑に聞こえるようにする。

 三、文飛は夜には一人の蝶のもとにしか行かせない。

 四、もし子ができれば、強力な薬で流し、もう二度と子ができないようにする。

 

 これはいつからか、蝶たちがここに来たときに真っ先に聞かされる決まりごととなった。

 子を宿すことなく、そのまばゆい美しさを後世に残すこともできずに、死んでいくしかない、「従順な女達の鳥籠」それが文淑にとっての蝶の巣だった。

 

 ✿✿✿

 

「兄上、そんな、兄上は僕を愛してくださっていたんでしょう」

 文飛は狼狽しながら、また、文淑の腕をつかんだ。目に涙を浮かべながらすがりつく、きっと涙を流せば、兄は優しく接してくれると信じたかった。

 

「一度だって、思ったことはない」

 文淑は冷たい声で突っぱねた。その瞳に熱はなく。ただ哀れみ、侮蔑するような面持ちで文飛から目線をそらした。 

「兄上、でも僕は、兄上を」

 文飛は声を上ずらせて、泣いてすがった。文淑の足元にへたり込んで、その足元でうずくまるようにして泣いた。兄がくれた翠玉の衣で床をこすりながら、地にすがりつくようにして泣きわめいた。

「お前さえ、お前さえ生まれなければ、兄上は、兄上は私のことを愛してくださった!」

 と、頭上で声が聞こえた。

「お前さえ、生まれなければ!」

 そう叫ぶ兄の声が、はっきりと耳の奥に入り込んできて、文飛はもうそれ以上何も聞こえなくなった。

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