〈修羅と淑男〉六、【狂笑】

六、【狂笑(きょうしょう)】

 

 翌朝、文飛が自室におり、しばらく起きてこないと読んで、文淑は蝶の巣に渡った。霖鵜の室の戸が少しだけ開いていて、引き寄せられるように中に入った。

 静まり返った室の中を少し歩き回る。昨夜自分と文飛が体を重ねた寝台はまだ乱れていて、文飛の衣がそのままになっていた。夜明け近くまでこの部屋におり、侍女に桶を持ってこさせて体を少し洗ってから、室を後にした、ほんの三刻ほど前のことだった。文淑は寝台に近づいて、文飛の上着を指でつまんで持ち上げ、ばさり、と落とした。

 とたん、ふ、と口から声が漏れ出た、一拍おいて、腹の底から侮蔑とも言える感情が湧き上がってきて、口を歪めて、笑い始めた。一度ほころぶと、刃物で傷つけた砂袋のように、その勢いはもう止まらなかった。腹が熱くなって、体が軽くなる、顎を引いて抑えようとするが我慢できず、文淑はすんでおとがいをといた。息苦しく湧いてくる嘲笑はとどまるところを知らず、指先がしびれるほどその室の中で笑い続けた。

 だがふと我に戻ると、自分の中が空っぽになってしまったようで、怖くなった。顔を押さえるとその手に涙が伝い漠然として、立ち尽くして、室を後にした。

 

 文淑はその後も何度か霖鵜の室で文飛と体を重ねた。そしてその翌朝には必ず蝶の巣に通った。

 この生活は二月ほど続いた。冬には商談はなく、文景が文家の悪い評判を立てていたので、仕事も入ってこなかった。


 ✿✿✿

 

 そして冬の始まり、みぞれが降る朝。兄に呼ばれてその室に向かった。赤くなった火鉢の炭を熨斗にいれ、上着をシワ一つないように整える。冬物の木賊色の内衣、綿をよって作ってある帯と、琥珀の玉佩、髪は油できれいに固めて、新しく出した黒い靴を履いた。木蓮香をよく染み込ませ、椿の彫刻がしてある黒檀の扇子を挿した。

 

 文淑が離れについた頃、中から文飛が出てきて入れ替わりになった。二ヶ月前に話してから、文碧に会うのが怖くなって訪れることができなかったが、室に入るとまずその匂いに驚いた。兄の室は香木と花油の匂いが混ざった香りがしていたのに、薬草と鼻につく酸っぱい匂いがした。商談に行ったときに嗅いだことがある。気がめぐらなくなり、肌が黒くなった老人からする臭い。もう半分腐りかけた人間の汗がしみた病床と、苦い煎じ薬が混ざった臭いだった。寝台の上に横になる文碧は頬もこけ、腕は細く、髪には艶がなくなっていた。肌は全体が赤くただれ、息をしているのが不思議に思えた。文淑はゆっくりとそのそばに駆け寄って、寝台のそばにある椅子に腰掛けた。これはなにかの冗談で、元気な顔をした兄が室のどこかから出てくるのだと思いもした。

「碧、兄上」

 文淑は恐る恐るこえをかけた。するとその寝台に寝ているものはまぶたを重たそうに持ち上げて、ゆっくりと文淑の方に向いた。その瞬間、文淑はその顔貌を見て戦慄した。瞳は白く濁っていて、肌にも艶がなくひどくただれている。つい顔をそむけゆっくりと手を握ったが、それは棒切れのようで筋張っていて、指先は小さく曲がる程度で精一杯にみえ、屏息して小さく声を漏らすと「淑」と呼ぶ小さい声が聞こえた。

「兄上。嘘でしょう。ただの病気ではないんでしょう」

 文淑はそう言って文碧の顔をもう一度見た。首には紫色の内出血があり、たわんだ皮膚がただれて犬のぶち模様のようになっている、木苺を踏み潰したような鮮やかな紫色の模様は綿の白衣の中に続いていた。

「そうだね」

 と文碧は消え入りそうな声で答えた。

「なぜ、隠したのです」

 すんで文淑は言った。声は震え、手を握った腕も少しわななくが、文碧は一拍おいて少しだけ口角を上げた。

「誰も、聞かなかっただけで」

「うるさい!違う!」

 文淑はそう叫んだ。勢いよく立ち上がって、兄の姿を見下ろした。だが文碧は落ち着いた様子で、取り乱した文淑の姿を見あげるとゆっくりと言葉を紡いだ。

「淑……ごめんね」

 白く濁った目は確かに文淑をじっと見つめていた。たとえ白く濁っていようと、かすれていようと、その確かな視線の強さと、独特の息遣いは痛いほどに兄のものだとわかった。

「やめて……やめてください」

 文淑は顔を俯けた。手を固く握りしめ拳が真っ赤になった。

「淑、文飛は、お前に相当なついているみたいで、さっきも話を聞かせてくれたよ。ありがとう」

 文淑は真っ赤になった拳をゆっくりと解くと、顔を上げた。口を開いて、息を噛み殺し、何度か言いよどみながら、言葉を吐いた。

「もし、兄上は、私が、兄上を裏切っていると言ったら、どう、しますか」

 それは文淑がずっと前から兄に聞きたいと思っていたことだった。誰にも責められることなく抱え続けてきた罪の意識は体を徐々に蝕んでいった。どうすれば自分の罪が裁かれるのか、そう考えては罪を犯した。そうすれば兄は、一瞬でも自分のことを見てくれると思った。

「淑、お前はいい弟だ。私を裏切りはしない」

 文碧は優しい声で言い、また少し微笑んだ。

「私は、そんなではなくっ……」

 文淑は一歩踏み出して顔をゆっくりと上ると、兄と目があって、名前を呼ばれた。

「お前はよくできた弟だ。お前ならできる」

 文碧の声は言いながらだんだんと小さくなっていった。口からは血が滴り、目はゆっくりと閉じられた。文淑はそのそばに駆け寄り、兄の名を何度も呼んだ。

 

 だが文碧が目を開けることはなかった。

 

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