〈修羅と淑男〉五、【焼心】その②

金檀の室には半刻もいなかった。一度本殿に戻り服装を正してから文碧の離れへ向かった。どうすれば兄は文飛でなく自分を見てくれるのか、兄が自分でなく、文飛のそばに駆け寄ったあの日から、ずっと考えてきた。文碧はその理由をただ、文飛から母親を奪ったのは自分たちの母親だからといった。幼いながらに事故であっても父殺しの業を背負った文飛を守るという考えも兄にはあったのだろう。

 しかし今、文飛は父殺しを受け入れ、母よりも今を生きる兄たちのほうが大切だと言った。兄たちを苦しめるぐらいなら蝶の巣を終わらせてもいい。と文飛はそういったのだ。文碧は文飛のことを誰よりも気にかけてきた。きっとそのせいで病状も良くならず、結婚もしないのだと文淑は考えていた。「もう、肩の荷を下ろしていいのだ」と兄に伝えたら、兄は自分を見てくれるだろうか「文淑、今までよく頑張った」とねぎらってくれるだろうか。冷えた指先を震わせる兄に、文淑は声をかけたが、文碧は目を細めて答えた。

「文淑。もしそんなことを文飛が言ったならきっと、それは私たちへの不信感だよ。足りないんだね、まだまだ」

 あかぎれた手の平を見つめながら、ゆっくりと話す兄、その声はいつだって自分の体をすり抜けて行ってしまう。

「兄上、こんな愛しかた間違ってると思います。なんでも与えて、なんでも思い通りなんて、それじゃやっぱり、はた目から見れば文景の言うように、都合のいいお人形に見えます」

 文淑は必死になって食らいつくが、目線は定まらずすぐにそらした。

「人形は不幸なのかな。文淑……。勝手なことを言っているかもしれないけれどね。」

 とたん、兄と目が合った。声だけでなくその目線までも自分の体をすり抜けて文飛に向いている。声や視線は体をすり抜けるたびに心に大穴を開け、自分の体の中の熱をごっそりと持っていってしまう。その瞬間、もう自分は何をやっても文飛に敵うことはないのだと言うことが心の中にストンと落ちてきた。

 

 ✿✿✿

 

 その心の隙間を埋めるように、文淑は芳梅のところに足を運んだ。できれば西棟に文飛がいることを願ったが、木蓮の木のそばまで来ると古箏の音がして顔をしかめた。愛してはいないが芳梅だけが文淑にとって唯一心の許せる女だった。淡姉妹のことで嘘をつかれてからは芳梅避けていたが、いまばかりは気取ることも、待つこともできなかった。

 そのまま文淑は芳梅の部屋に押し入り、抵抗するのを押さえて体を重ねた。

「芳梅、寂しかったか」

 手で金の蝶の耳飾りを弄びながら文淑は言った。芳梅は一瞬文淑の顔を見ると目をそらし、ゆっくりと起き上がって寝台から降りた。

「ええ」

 と答え鏡台の前に腰掛ける。艶のある黒い髪の束はサラサラと文淑の手をすり抜けていった。

「霖鵜の事だが、青黛は信じていいのか」

 文淑は鏡台の前で髪を結い直す芳梅のほうを見た。芳梅が私利私欲のためなら嘘をつくのだという金檀の言葉を試したくなった。鏡越しに二人は目が合い、芳梅はゆっくりと目を細めた。黒髪に赤い梅の簪を刺すと、文淑のほうにゆっくりと振り向いた。

「もし、青黛が嘘を言っているなら、ここから追い出してもいい。青黛を連れてきた金檀も、あれは生粋の嘘つきだからな」

 金檀、あれは他の女どもと違い、貞操を失っているのに蝶の巣に入ってきた女だった。豪商の妾をやっていたが、その夫を手にかけ獄門に処され、しかしずさんな管理の下、上玉という理由で売りに出されていた。金檀はここに来る前から性的に不能で気性も荒い。蝶の巣にやってきてからはかなり落ち着き、何も考えず手先で弄ぶのにはちょうどいいが、ただ貴族の出である芳梅を毛嫌いしていて、床に入るのが好きということ以外は何を考えているかわからなかった。

「蝶を疑っておられるのです?文景様でなければ、犯人は蝶だと?」

 ゆったりとほほえみながら言う芳梅の顔を見て、文淑は訝しげに眉を潜めた。

「青黛の言うことを信じてやってください。それに金檀は、ただあなた様のことを愛しているだけです。あの子の前じゃ、愛していると嘘を言うんでしょう」

 芳梅はそう言うと、またゆっくりと鏡台の方に向き直った。下に垂らしてある髪を結い上げると、今度はザクロを模した前髪飾りを飾った。

「今から髪を結い上げて、誰に見せるつもりだ」

 そう言って、文淑は帯を締めた。声は少し低く、あざ笑うような声色だった。

「なにも、誰に見せるというわけでなく、自分の心の安息のためにやっているのです」

 芳梅は答えると、今度は眉墨を取り出し、擦れて薄くなった眉を少しだけ書き足した。

「お前はどうなんだ。信じていいのか」

 文淑は上着を羽織りながら言った。鏡台越しにまた芳梅と目があい、少しだけ眉をひそめる。

「お前、嘘をついただろう」

 とたん、芳梅の髪飾りが小さく揺れた。鏡台のそばに一本だけ立ててあるろうそくの火がかすかに揺らいだ。

「淡雪のことだ」と文淑が言うと、芳梅はゆっくりと目を瞬き、目線を下げて鏡台から紅の入った青絵付きの皿を開いた。

「女は嫉妬します、それで私は嘘を付きました。しかし、女が女を辱めるでしょうか?」

 そう言いながら、芳梅は唇に紅を乗せた。

「お前はいつもそうだな。自分でこうなのだと、答えを言えないのか?」

 文淑は鏡越しにその美しい顔をあざけるように笑ったが、芳梅は耳飾りをつけながら、眉一つ動かさずに言った。

「女であるので、旦那様に従っているだけです」

 そう言い終えると、古箏の音がよく聞こえるようになり。鏡台のそばにある小さなろうそくだけがゆらゆらと燃えていた。

「白梅」

 と呼ぶ。すんで芳梅の動きが止まった。間を置いてゆっくりと文淑の方に振り向くと蝶の飾りがチラチラと光った。

「今、この名を呼ぶのはもう私だけになったな。故郷に帰りたいか?」

 文淑は立ち上がり、上着の袖の合わせを揃えながら、ゆっくりと芳梅に近づいた。

「いいえ、私はどのような形であっても、貴方様をお慕いしています」

 芳梅は文淑を見上げながらそういった。長いまつげで風をなでおろすように瞬き、つやつやとした唇は少しだけ開いて、白い歯が覗いていた。

 

「信じていいんだな」

 文淑はそう言って、芳梅の耳飾りを指先で弄んだ。

「はい。愛していますから」

 と、芳梅は答えた。

 文淑はその顔を見て踵を返し、部屋の戸に手をかけた。ただ戸を引こうとすると芳梅に呼び止められて動きを止めた。

「旦那様は、涼春様を愛してらっしゃるのですか?」

 意図せぬ質問に、文淑はハッとして戸を離した。響きなっていた古筝の音も掻き消えて静寂がストンと落ちた。文飛を愛しているかなんて芳梅には関係のないことだ。芳梅の質問の意図はなにか。と考え、一拍おいて答えた。

「愛せると思うか?あいつさえ生まれなければ、文家はもっと豊かになっていただろう。兄上も気を揉まずにすんだ」

 

 そう言って室から出ると、文飛と鉢合わせた。名前を呼ばれ、その声色だけで文飛が壊れそうになっているのだとわかって、そのまま霖鵜の室になだれ込んで体を重ねた。

 緑の室で抱くと、文飛が蝶になったようでますます滑稽だった。耳元で愛の言葉を囁やけば、目に光が宿る。自分が一番ほしいものは手に入れられないのに、兄が一番求めているであろう文飛の安寧や幸せは今にも壊れそうに自分の手の上にある。何もかも自分のさじ加減、いっそすべて壊してしまいたいと思っても、文飛を抱いている間は自分で自分の舵を取れず、まるで目の前で演じられる喜劇や悲劇のように見えた。

 

 息を切らした文飛の耳元に手をつく、そっと言葉を囁やこうとすると、手に鈍い痛みが走った。見ると芳梅の耳飾りが手に刺さっている。先程服に引っ掛けたままで来てしまったらしかったが、文淑はその耳飾りを外さずにそのまま拳を固く握り

「文飛」

 と甘く名を呼んだ。

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