〈修羅と淑男〉五、【焼心】その①

 五、【焼心(しょうしん)】

 

 秋の入り、長雨が続く頃になると、文淑は仕事に追われていた。文景が一商人として文家に仕事を申し込んだため、その契約と始末、準備に忙しく立ち回り、蝶の巣には顔の出せない日が長く続いていた。ふと鬱憤がたまり、机の上にあるそろばんを無作為に弾く、思い出したように玉をいくつか弾きあげて、ため息をついた。

 

 「芳梅に倹約に務めるように言おう」と頭の中で考えるものの、前それに似たようなことを文碧に相談して叱られたこともある。「あれは文飛の蝶の巣なのだから。文飛の好きにさせなくてはだめだよ」と。いっそ、蝶の数が減りでもすれば、食費に装飾費用も浮くのに、と文淑は考えもした。駄賃でかった女。二束三文で手に入れたものもある。自分に逆らった青黛か、自分好みでない霖鵜、追い出すならこのどちらかではないか、と眉を潜めたが、そんな考えはすぐに心の中から追い出した。蝶が減ればまた、新しいのを連れてこいと言われるのが落ちだろう。その蝶が新しい色なら、調度や服を揃えるのにまた金がかかる。文淑はまたため息をついた。首の骨を鳴らし、ふと回廊の方を見ると、ポツポツと雨粒が落ちてくるのがわかった。

 文淑は気晴らしに少し回廊の方に出た。土の香りが立って、本殿前の池には蓮の葉が、雨粒を受けて小さく揺れている。瓦に打ち付ける雨の軽やかな音は段々と激しくなり、雨の匂いを運んでくる。ここ数日は雨が降ることが多かった。商団の進路を塞ぐ長雨を、文淑は好きではなかった。踵を返して室の中に戻ると、そのまま寝ずに仕事をし、昼頃にやっと横になろうとすると、「蝶が死んでいる」という知らせが文淑の耳に入った。

 

 死んでいたのは霖鵜、文景付きの侍女である花衣の証言によって犯人は文景となり、文飛が与えた罰則は文景を去勢するというものだった。そのような酷い罰則をあの温厚な兄が与えるはずがないと思っていたが、文碧は文飛の言葉にゆっくりとうなずいた。そして文飛が室を出た後、文碧は言った。

 

「淑、文飛が、父上のことを知ってしまった。私達の母上のことも。わかるね。」

 文碧はまっすぐに文淑の顔を見つめていた。

 『文飛兄上の母様への償い?は、笑わせてくれますな、我々の父上を殺したのこそ、その文飛兄上なのに!』と文景は叫んだ。途端頭の中に文碧の姿が浮かんで、文淑は文景を打った。あの日、自分の罪を文飛になすりつけたあの夜。文碧は文淑に言った。「この事は二人だけの秘密にしよう、文飛に知られてはならないよ」と。

 

 ✿✿✿

 

「あの日何が起きたのか、文飛に話せ、と言うのですか」

 文淑はゆっくりと文碧の顔を見上げた。文碧は少し目を細め、目線を少しだけ下げたと思うと、今度は真っ直ぐに文淑の目を見た。心がドキリとして、一瞬だけ体が強ばった。

「一人で不安になるよりも、いいだろう。淑ならできるよ。大丈夫」

 そういって、文碧は優しく微笑みかけた。文淑はきつく拳を握り、咄嗟に兄から目を逸らした。

「兄上はもし、私が……」

 文淑はいいかけて、口を噤んだ。兄の手が震えそうになっている肩にそっと触れ、その温もりに文淑は顔を上げると、ゆっくりとうなづいた。

 

 ✿✿✿

 

 文飛の室は本殿と蝶の巣の丁度間にある。四枚のはめ扉を全て開けば室の中は風通りが良く、室の奥には翡翠をはめ込んだ箪笥に庭に出られる蝶番の戸口、紅木で作った天蓋のついた寝台があり、手前には掛け軸や名品の香炉、玉璧の瓔珞、吊り下げ式の銅鐘に宮廷式の籠灯など様々な調度が並ぶ。天井には八個の提灯を連ねた西洋風な灯篭も吊るしてあり、壁にはズラっと蝶の標本が並んでいる。

 侍女が室から出てくるのを見て、文淑が侍女に目線を送ると、侍女は急いだ様子で文飛の室の戸を叩いた。室の中からは文飛の声が聞こえる。先程言い合いの時に、人形のようになって動かなくなり、茫然自失として部屋に戻った弟は、まだ瞳に光を取り戻せぬまま、長い髪を肩に振り分けて、気だるそうに安楽椅子に腰掛けていた。どうにかしてこの弟を元気づけなければ、と文淑は景気よく卓子の上に将棋を置いた。象棋、人間は頭を使いながら話そうとすると、つい本音が出やすくなる。その上自分が碁盤で優勢にたつとその微かな優越感から、心の奥に秘めたものさえ明らかにしてしまう。そして人は自分より哀れだと思うものを疑いはしない。

「珀秀兄上。どうして象棋ですか?」

 将棋をはじめて十六手ほどになったときに文飛は言った。文淑はそれを聞いて盤上で手を右往左往して見せた。

「喋り始めるということは、余裕ということかな。涼春」

 そう言いながら、渾身の一手という風に見当違いな駒を動かすと、文飛は得意げになってこちらに攻め込んでくる。

「兄上は、僕と象棋をして楽しいですか。負けるのに」

 そう言って文飛は文淑の駒を手早く取っていく。勝負事に負けている人間をこっぴどく責め立てる人間はいない。少なくとも文飛はそうでないと分かっていた。

「負けるけれどね」

 文淑は、盤の上で手を泳がせながら、落ち着いた声色で言った。

「負けるけれどね。私は、こんなものでもないと、弟と面と向かうのも難しいんだよ」

 その一瞬、文飛のまつ毛が少しだけ揺れたのがわかった。口は口角を下に少し歪み、眉の頭が少しだけ傾く、その顔を見ると、文淑は心の中で少し笑った。

 まず手始めに文淑は文飛の母の死について話した。文飛はそれを聞いて、文景が今回反抗した理由を言い当て、そしてそのまま流れるように王手をかける。文淑は絶好のタイミングだと俯いて、文飛が駒をとるのを待った。しかし文飛は王手をとることは無かった。顔を背け、眉根を寄せ、つぐんでいた口をゆっくりと開く。

「でも兄上、兄上たちだって関係ないじゃないですか。兄上たちの母上がやったことなんて。」

 とたん、文淑は顔を上げた。文飛は自分の思いを試しているのだと悟り、いつも文碧が自分にしてくれているように、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「文飛、私は、お前のことを大切な弟だと思ってるよ。だからね……。大丈夫」

 そう言うと、文飛の顔は見てわかるほど解けていくのがわかった。

 

 ただ、文飛と唇が触れた一瞬、文飛の体をいたずらに弄んでいた父と、自分が重なる気がして、体は無意識のままそれを拒絶した。だが同時に取り乱した文飛を見ると落ち着けなかった。もしこのまま文飛が絶望にくれてしまったら、蝶の巣など終わらせようと言い始めれば、自分は兄の期待に答えられなかったことになる。どうにかして文飛をつなぎとめなくてはならないのだ。と、その考えに行き着くとあとはもう容易いことだった。慈しむように文飛を抱き寄せ、唇を重ねる。腕の中で密かに暴れる腕を押さえつけ、声も息も何もかもを奪った。自分の体で文飛をつなぎ止めれば、回りくどいことをしなくて済む、ただ文飛が不安を訴えれば、その隙間を埋めてやればいいだけだ。


 ✿✿✿ 

 

 ぐっすりと眠りについている文飛の髪をなでつけながら、文淑は憎らしく思った。


 もしこの男が生まれなければ今頃どうなっていただろうか。父は自分の趣味を息子でなく、養子で補っただろうし、母は文飛の母親に嫉妬することもなかった。自分と兄は不遇な子供時代を送らずにすみ、兄が「大丈夫だよ」という相手は自分だけだった。

 

 文飛は言い合いのさなか「もし自分が熱を出さなければ、父上は死なずにすんだのですね」といった。だがその時文淑はこう思っていた。

「お前が生まれなければ、父も母もしなずにすんだ」と。安らかな寝顔、細く通った鼻に、長いまつげ、生え揃った流線型の眉に、白い肌。閉じられた薄い唇は桃色で柔らかく濡れ、シミ一つない肌はろうそくの光を受けて艶めいている。文淑はおさえられなくなって文飛の髪の束をついと引いた。すると文飛の目がゆっくりと開く、母譲りの文淑とは違う、少しグレー味のある瞳が自分の顔をじっと見上げる。

「起こしてしまったかな?」

 文淑の声に文飛は首を振った。

「兄上。兄上は、僕のことを、愛していますか」

 文飛のその言葉に文淑は目を細めた。蝶の巣の女達にこれを言われれば、卑下した目つきをして、身の程を弁えろと告げるだろう。

「そうだねえ、文飛。大切にしているということは、愛しているということではないのかな」

 文淑はそういって唇を重ねた。ただ少し自分が触れてやるだけで、眦は溶け、硬い体がほぐれていく。腕で抱き寄せるとその体の重みをずっしりと任せて、細く寝息を立てる。文淑は文飛が愚かな蝶たちと何ら変わりないものに思え、滑稽に思えた。

 

 翌朝、文淑は文飛の室を出て、なんとなく蝶の巣に渡ると、金檀が室から出てくるのが見えた。金檀は文淑の姿を認めると、フフと笑った。

「こんな朝早くに、他の姉妹に見られたら、どうしますの」

 その声を聞いて、文淑はその肩をひっつかんで金の室になだれ込むようにして入っていった。 

「悪いお方」

 寝台に押し倒された金檀はただそうつぶやいて、文淑の顔をじっと見つめた。

 

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