〈修羅と淑男〉七、【修羅】
七、【修羅(しゅら)】
文淑は寝台のそばで追いすがって泣いた。文碧の体がだんだんと冷たくなっていくのがわかり、すっと体から熱が引いていった。
その時、蝶の巣から琵琶の演奏が聞こえてくるのがわかった。曲目は「十面埋伏」かき鳴らされる琵琶の音に文淑の心は震えた。まだ温かい文碧の頬に手を添えると血で濡れたその唇をゆっくりと親指で拭った。
指先についた兄の血。ずっと手に入れたいと思いながら、手に入らなかった兄の抜け殻が、まだ淡い熱を持って自分の前に横たわっている。文淑はその指をおもむろに口元に持っていった。なめると舌先がしびれるように甘く、そのままゆっくりと兄の上に覆いかぶさった。片手を顔の横に付き、もう片方の手は顔を少し上向きにして支えながら、顔を近づけ息を吸い込むと鉄と薬の匂いがして、またゆっくりと息を吐いた。近づけた唇を少し開くと、血で濡れた兄の唇に自分の唇が少しだけ触れて、かっと体が熱くなった。そのままゆっくりと文碧の下唇を吸い、舌先でただれた唇をなでた。柔らかな唇はじんわりと甘い血の味がして、頭の奥がむずかゆくなる。少し顔を持ち上げ口を開けさせると、今度は唇をピッタリと重ねた。舌先で撫でるつるつるとした歯、鉄の味がする口の中は乾いているがまだかすかに暖かく、甘く噛むと濃い血の味が口いっぱいに広がった。その血が混じったねっとりとしたつばを飲み込むと、喉の奥が焼けるように感じ、鼻に抜けるむせ返るような鉄の匂いにまぶたが震えた。
文淑は唇を離すと、今度は白衣の襟を引き、文碧の首元に噛み付いた。布団をはぐと顕になるいっそう痩せさらばえた兄の姿。上衣を剥がすと肋骨が浮いた上半身には内出血の痕が絞り模様のようについていて、満開の花の模様のようだった。その痣部分は皮膚がたわんで柔らかく、指で押すと腐りかけた肉のようにくぼんだ痕がつき、強く押すと、肌がパチンと裂けてどす黒い血が吹き出した。指にまとわりつく真っ黒な血、その体はもう人肌とは言えぬ冷たさで、文淑ははっと立ち上がった。
さきほど引き剥がした布団に黄色いシミや血の痕がついているのを見て、激しく頭を振った。自分が唇を重ねていた兄の姿を見て、その生気のなさととうとうと流れるどす黒い血に一歩体を引いた。頭の中でプチンと糸が切れた。
大好きな兄が生きた証である、質素な調度品の数々が陰鬱な影を持って見え、文碧を中心にしてその景色は魚眼で見たように歪んで見えた。文淑は足元に転がった布団を掴みあげ、両手で持つとそれを勢いよく振り回し、釉薬を薄く塗っただけの質素な壺に叩きつけた。壺を吹き飛んで粉々に割れ、文淑はそのまま机の上にある調度品も弾き飛ばした。彫刻をしてある筆掛けに竹模様の硯、竹の刺繍がしてある硯屏など勢いよく床に散らばり、兄が好んで使っていた薄く梳いてある紙は勢いよく舞い上がって床に落ちた。古琴に、香箱、蝋台に絵巻物、書物に書簡、薬箱に、香炉、声が擦り切れ、喉がちぎれるようなうめき声を上げながら、室の中を縦横無尽に駆け巡る、さいご、目についたのは寝台に横たわる兄の姿。勢いよく布団を叩きつけると、中に入っていた羽毛が飛び出し、粉塵が舞うように室の中に広がった。一面の白い羽毛が雪のようにゆっくりと落ちてくる。
瓦礫の上に立つ自分の肩に、寝台の上で横たわる兄の体に、ゆっくりと積もっていく羽毛を文淑はただ呆然と見つめた。
そのうち文碧の体はすっぽりと羽毛に覆われ、雪の中に埋もれているように見える。
文淑は一つ咳をした。喉に血の味がしてその口から血が少し垂れ、真っ白な羽毛の上に落ちた。
騒ぎを聞きつけた侍女が室の戸を開いて腰を抜かしたのはその直後のことだった。
「文碧は死んだ。文飛には死に顔を見られたくないだろう。室に入れるな」
文淑はただそうとだけ言った。
文飛が部屋を訪れて来た後、文淑は雨のふる音を聞いた。すっとその中に姿を落とした。
空を見上げると体に激しく叩きつける雨粒に、息もできなくなった。
✿✿✿
それからは葬儀があり、ことは滞りなく運んだ。
ただ、花衣が死に、蝶たちが文飛の前で本性を顕にした以上、蝶の巣を維持することにはなんの意味もなくなった。
✿✿✿
「お前たちは出ていけ。明日の朝までに荷物をまとめろ」
文飛が室から出ていった後、文淑はいつも文飛が腰掛けている椅子に深く腰掛け、女達に告げた。青黛はおとなしく引き下がり、紫翅は気を失った淡雪を支えながら淡霞と室を後にした。
「文淑様。私、あなた様のおそばに居たいです」
金檀はそう言って文淑のそばにひざまずいたが、文淑は先程淡雪が訴えたことを忘れていなかった。
「お前が霖鵜を殺したそうじゃないか。やはり、一度あることは何度でもあるものだな」
文淑はそう吐き捨て、金檀に目もくれなかった。すんで金檀が顔をあげようとしているのを見て声を上げた。
「出ていけ!」
「金檀。行きましょう」
芳梅はひざまずいた金檀の腕を掴んで立ち上がらせ、蝶の間から出ようとしたが、文淑はそれを呼び止めた。
「待て、芳梅。お前には話がある。私に嘘をついた理由を、教えてもらおうか。」
金檀を先にいかせ、芳梅はゆっくりと振り向いた。白い顔に赤い紅、きれいに梳られた黒髪は腰のあたりまでまっすぐと垂れている。
「ひとえに、あなたを愛しているからです」
芳梅はそう言って、目線を下げた。少し頭を下げ腰を低くし、半分ひざまずくように姿勢をしてみせる。他の女達にはできない、教養のある美しく流麗な作法だった。
「愛だと?文景を陥れ、金檀のこと、青黛の妊娠も隠していただろう。それが愛だと?」
「金檀の失敗をかばったのは、涼春様に姦通のことをバラさぬため、私は子を産めない体なので、青黛にはあなたの子を生んでほしいと思ったのです。それに珀秀様は、環叡様が亡くなられたときから、この蝶の巣を必要としてらっしゃらない。涼春様を幸せにしたいという環叡様の願いは、蝶の巣などなくても、叶えられると、わかっておいででしょう」
芳梅は淡々と言い、言い終えるとゆっくりと顔を上げた。夕暮れが迫り、戸の外は赤く染まった。芳梅の姿は影になって、燃えるような夕焼けの光の中で浮かび上がった。
「もういい、出ていけ」
文淑は生気のない声で言い、芳梅は礼の姿勢を崩して蝶の間の扉を開いた。するとちょうど金檀が文飛の室に歩いていくのが見え、文淑はなんとなくその姿を目で追った。芳梅もその様子が気にかかるようで戸口に立って金檀の姿を見ていた。
金檀の髪に挿してあるかんざしが鋭く光る。すんで文飛の室の扉が開き、中から出てきた文飛は生きているように見えず、膝から崩れ落ちた。腹に刺さる刃物と、衣にしみた血色が見えたが、驚くほどに心は静かなままだった。自分から兄を奪った文飛のことがにくかった。愛しているものに裏切られる苦しみを存分に味わえばいいのだと、ただそう思うだけだった。
夕日のオレンジ色の光が雪の色を染め、建物の柱も壁もすべて薄っぺらな一枚の絵巻物のように思え、その中でもがき苦しむ文飛の姿など絵巻物の小さな紙の歪み程度の些細なことに思えた。
「医者を呼びましょうか」
芳梅はゆっくりと文淑の方に振り向いて言ったが、文淑は平坦な声で言った。
「いや、放っておけ」
それを聞いて芳梅はゆっくりと扉を閉めた。蝶の間は薄暗く、文淑には芳梅の姿が灰色の影とおなじように見えた。
「環叡様が悲しみますよ」
その声に文淑は顔を上げた。眉を垂れた顔をした芳梅はゆっくりと文淑に近づいた。
「兄上は死んだ。文飛がどうなろうと知らない。」
そう吐き捨て、芳梅から目をそらす。ただ芳梅は構わない様子で文淑の足のそばまで歩いてきた。
「私は、貴方様のことを思っていっているんです。だって、きっと後悔なさる」
文淑が顔を上げると、芳梅と目が合い、投げやりに言った。
「なぜだ」
「それは……」
芳梅は少し目線を下げた。赤い唇を少し開き、すんでゆっくりと言った。
「涼春様は、環叡様のお子だからです」
すとん、と蝶の間に静寂が落ちた。
「デタラメを言うな」
文淑は芳梅から目をそらし、吐き捨てるように言った。
「環叡様から聞いたのです。環叡様が亡くなった日に」
芳梅はそう言うと椅子のそばにかがんで、胸元から一枚の手紙を取り出した。
古ぼけて、茶色に染まった手紙を文淑は受け取り、ゆっくりと開くと、見間違えるはずもない兄の字が短く連ねられていた。
『文淑 文飛は私の子だ。私は文飛の母親を守れなかった罪滅ぼしをしたかった。お前には苦しい思いをさせてすまない。景のように、離れていっても構わない。ただもし、こんな兄を許してくれるのなら、文飛を守ってほしい』
文淑の手は激しく震え、勢いよく立ち上がると、蝶の間から飛び出そうとして芳梅に腕を掴まれ、呆然としたまま
「飛を……」
と短く言った。文淑の手をつかむ芳梅の力は強くはなく、手を引けばすぐにでも振りほどけそうなのに、文淑はそれができなかった。
「涼春様は、もう助かりません。もうあの方の心は死んだのです。あなたが殺したのです」
という芳梅の声に、文淑はただそこに立ち尽くすことしかできなかった。
ふ、と昔のことが思い起こされた。
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