〈修羅と淑男〉八、【淑男】
八、【淑男(しゅくなん)】
「兄上、これはなんと言いましたっけ」
それは文飛がまだ四歳ほどの頃、文淑が昔手習いで使っていた冊子を見つけて兄の部屋に持っていったときだった。
「淑はこの詩がすきだね」
文碧はそう言って、仕事の書類を少し片付け、ゆっくりと詩を読んだ。
「両人対酌すれば山花開く、一杯一杯また一杯、我酔って眠らんと欲す、且く去れ、明朝意有らば、琴を抱きて来たれ。」
その声に、そばの椅子で碁盤遊びをしていた文飛が椅子から降りてきた。
「兄上、それは、どういう意味?」
小さな手を机にのせ、丸い大きな目をぱちぱちさせながら舌足らずに言うと、文碧は文飛の方に向き、持っていた冊子を置いて、少し眉をひそめた。
「ううん。文飛には難しいね。そう、例えば……。とても仲のいい友達が家に遊びに来ているんだけど、自分が寝たいから、帰ってくれと言うんだ。そして朝、気が向けば琴を持ってまた遊びに来いって言っているんだよ」
いい終えると、文飛は感心した顔をしたが、すんで顔をしかめて言った。
「でも、それは少し、わがままです。兄上」
文碧はそう言って膨れ面をする文飛を見て破顔すると、その頭を優しくなでた。
「そんなことを言えるぐらい、仲がいいってことだよ」
「では兄上!古琴を弾いて。今、聞きたい」
目を輝かせる文飛、突然のことに、文碧は短く声を上げた。机の上にある書類と一瞬だけにらめっこをする。
「参ったな、今かい?」
「いいですよ、兄上、行ってやってください」
困っている兄の顔を見ると、無意識に文淑は言っていた。文飛を抱き上げて、古琴のある室の奥の方に歩いていく兄の後ろ姿をじっと見ていた。自分だけが取り残されたようで歯がゆかった。兄に古琴を弾いてくれと無邪気に頼める文飛が羨ましかった。
そして父の死んだあの日、床に寝ている文飛を抱き起こす兄の姿、本当なら自分の体を優しく包んでいたはずのその腕を、文飛に奪われ、咄嗟についた嘘。「父を殺した腹違いの弟」を兄は責め立てると思った。だが自分がどれだけ訴えても、兄は揺るがなかった。
「文淑、このことは二人だけの秘密にしよう。文飛を守るんだ」
このとき、文飛を腕に抱える兄の視線はずっと文飛に向けられていてるのをみて、すぐに後悔をした。
日頃兄が文飛を見る眼差しは時分と違っているのだとなんとなくわかっていたのに、兄が文飛を責めるはずがないとわかっていたのに、心の中で張り裂けそうになっているものは抑えられなかった。
ただ今となってはわかる。何もかも、文飛が兄の子であることを考えれば、当たり前のことだった。
✿✿✿
ふと意識が引き戻されると、戸の外は赤く燃え始めていた。灯籠や提灯の明かりではない轟々と燃えたぎる炎の色は、父の頭から流れた鮮血によく似ていた。
兄と手をつないだ文飛が、にこやかに笑い合いながら、じっと炎の中に消えて行くように思えた。そして自分に、こんな自分にそれを追いかける資格はなかった。
「お前は出ていけ。故郷にでも帰ればいい」
文淑はそう言って振り返り、炎を背にして芳梅の横を通り過ぎた。芳梅の腕を振りほどき、室の奥に向かって歩いた。
「両人対酌山花開、一盃一盃復一盃、我酔欲眠君且去、明朝有意抱琴来。」文淑は歩きながら頭の中で唱えた。長なりをして美しい余韻を持つ兄の古琴の音は、指の隙間から砂がこぼれ落ちるように頭から抜けていった。体の熱は自然と抜けていった。思い起こせば数日の間何も食べていなかった。
そうして膝から崩れ落ちそうになったとき、その体は後ろから支えられた。ふと身を寄せると、いままでさんざん卑しめてきたその小さな体は、意外にも丈夫で、ふっと体の力が抜けた。
顔を上げると芳梅が、自分の半身を支えて立っていた。その顔はいつもと変わらず、安らかで、美しく飾られている。
とたん、文淑の頭の中には母の顔が浮かんだ。
父が亡くなった翌日の晩、暗闇で、ろうそくに照らされた母の顔。いびつな形で暗闇に浮かび上がる母の裸体は重たく覆い被さり、人の形とは思えないように身をくねらせていた。顔は情欲に歪み、目からは涙をこぼしながら父の名を呼ぶ。強いおしろいの香りと甘い香の香りに嗚咽しそうになった。母は、ついには母でもなくなり、ただの情痴に狂う女に成り下がり、その女という生き物はもはや同じ人間とは思えなかった。棒のように細い足にくっついた蝶の刺繍のついた黒い纏足靴と、髪を振り乱しながら情交にふける生き物が文淑にとっての女であり、そしてそれがかつて自分が慕っていた母だということが何よりも恐ろしかった。
文淑はこのことを文碧にも言えなかった。ただ思い起こさないように必死になった。思慕の情を抱こうとしても、母の姿が思い出されてできなかった。女は皆道化だと思うと心が楽で、蝶の巣はそれを確認するために作り上げたものでもあった。
「文淑様が、死を選ぶなら、私も」
ただ芳梅は、まっすぐに自分を見つめてくる。もういいのだろうか。自分が誰かを愛してもいいのだろうか。そう思い、ゆっくりと手で芳梅の体を引き寄せた。あのとき、兄の体に身を寄せたように、ただの肉体でなく、心を引き寄せるようにしてその身をきつく抱きしめた。
すんで顔が熱くなる、肩は震えて、顔は歪んだが、芳梅はその肩をじっと掴んで、背中を優しくなでた。
室の中に火の手が迫ってくるのに時間はかからなかった。木でできた調度や、大きな梁を持った天井は火の粉を上げながら轟々と燃えた。だがその火の中で身を寄せ合う二人の顔はとても安らかに見えた。
轟々とした炎に浮かんだ二人の姿は、鈍い音をたてて落ちて来た梁に押しつぶされて見えなくなった。
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