〈蝶の舞〉ニ、【初春に蝶と戯れる】その②

その女の面立ちは観音菩薩のような優しげな垂れ目と真木の葉のように生え揃った濃いつり上がった眉とが、形のよい高い鼻と相まって淑やかに整い、かつ、肉厚な唇が、女性的な魅力を一層引き立てている、凛として強く、かつ強かで、この屋敷にいるどの女性とも違うものであった。

「なにか、しゃべってほしい、声が聞きたい」

 文飛ぶんひがそう言うと女は少しうつむいた。

「ここでは、旦那様に名前を頂くと聞きました。私は今年で十八になります。お気に召しましたら、お名前を頂きたい」

 その声に文飛ははっとした。やはりその声も優しさ溢れる春の陽光の裏に、真冬のつららのように強固で鋭利な芯ののようなものを感じる。やはりこの屋敷にいるどの女性とも違う女性だと引き寄せられるように、もう一度よく女の顔を見た。まるで戦場を潜り抜けてきたかのような精悍さ、芯の強さを感じ、その瞬間、青空よりももっと青い空、晴れた日の空を何重にも重ねたような深い青が文飛の脳裏に浮かんだ。

 

「青だ。君は、青黛せいたい、で、どうだろう」

 とたん、女は少し微笑んで頭を垂れた。他の女たちも互いに微笑みあいながら青黛せいたいを見つめた。これを機に女の名前は青黛と決まり、青色の着物一式が取り揃えられる。これに合わせて文景も文家を訪れ、青黛の部屋の調度、青の部屋の調度の買い付けに奔走する。ちなみに文淑ぶんしゅくの扇子には、青、の文字が刻まれており、今回も文淑の予想は当たったようだった。

 まず文飛は文淑とともに部屋の外に出る。青黛はあの部屋で七人の姉と一緒に、文飛に仕えるためのいくつかの規則や蝶の巣の生活でのあれこれを学ぶ。文飛が部屋を出ると腕組みした文景が兄二人を出迎えた。文景はがっしりとした体つきで、肌は浅黒く、毛髪、眉毛、睫毛もすべてごうごうとしていて、目鼻立ちのくっきりと整った顔立ちの青年になっていた。

「兄上、今度の女性は、何色ですか」

 文景は地鳴りのような低い声で尋ねた。

「青だ、文景。青い宝石や、香炉、壺なんかはあるかな」

 ただ文飛は柔らかな声で答え、景気よく手を打ち鳴らした。

 

 その言葉を聞き、文景は唸りながら商隊のもとへ向かい、色々の準備をさせ、小一時間ほどで文家の庭は青い調度、宝石、それと取り合わせのいい色の調度、宝飾で埋め尽くされた。文淑と、文飛はその調度や宝飾品を見回りながら、気に入ったものを取っていく。この調度、宝飾品の支払いは商隊の隊長である文景の持ち分だった。

 文飛は菊の紋様が美しい青磁の壺、取っ手が竜になっている花瓶。それから青瑪瑙が嵌め込んである黒檀のついたて、黒檀で作られた休息台、黒色の箪笥、枕、彫刻部分に青く彩色してある漆塗りの香炉、香炉台。金細工と青瑪瑙の髪飾り一式、銀細工の青瑪瑙の首飾り、ソーダライトの指輪。沈香、青い絹、青く彩色してある茶器一式、その他宝飾品などを選び、商隊の者共や文家の召し使いたちが部屋に運び込んだ。そうして夜までに青黛の部屋は完成し、晩には衣装合わせ、化粧などが行われ、完成した部屋で一晩、文飛とともに過ごす。

 

 文飛は青黛の部屋を細かく見渡した、調度の位置もさながら、素晴らしい部屋になったものだと鼻をならした。しかし文飛が作った部屋の中で傑作とも言える霖鵜の緑の部屋にはやはり敵わないとも思った。ぼんやりと光を眺めていると日はもう暮れようとしていて、灯籠にはすでにいくつか火が灯されていた。ついたての向こうではまだ侍女が二人がかりで青黛の身支度を行っていて、たまにあーでもない、こーでもない、という風な声が聞こえてくる。

 

 思えば小雀しょうじゃくがやって来たのは去年の秋で、半年近く文景とは顔を会わせていない。文家の家業を継いだ文淑ぶんしゅく文碧ぶんへきとは月に一度は必ず会うし、特に文淑とは、乗馬や流鏑馬等もしている。いつも文淑は的を外し、文飛の方が幾分か優秀な結果になるが、やはり勉学の面では文淑には敵わない。また兄文碧も風流人で、漢詩、歌も上手く、どんな楽器も器用にこなす。兄は、病弱ですることもなかったからだと言っているが、兄の底知れない才を文飛はつねに感じていた。ただ、文飛の中での文景といえば、葬儀の日に喪着を着て、刺繍毬を持ったまま鼻水を垂れて、霊廟の前に呆然と座り込んでいたいがぐり頭の弟だった。髪を切る、まして剃ることはよくないことだったが、文景の頭にしらみが湧き、痒さに耐えかねて三日三晩わめいた結果のいがぐり頭であった。そんないがぐり頭の弟も凛々しく成長し、今や商隊を率いているのに、ふと、弟の刺すような視線を思い出す。文景の母は文景が幼いときに文家を出ていってしまった。理由は定かではない。文景が父好みの男児でなかったから散々揶揄されて耐えかねたとか、文景の母が父の趣味に愛想をつかしたとか、なんにせよ、父の趣味に振り回された結果文景の母が居なくなったということはなんとなく察しがついた。では、自分の母は、どうだっただろう。もし自分の母が生きていたら、どうだっただろうか。反対しただろうか、それとも受け入れたのだろうか。自分のことを愛してくれただろうか、父のように、父のように?

 

 ふと体の奥で何かがぞくりと疼いた気がして、文飛は目を閉じた。夕日が沈む直前の一瞬の閃光に視界が飲み込まれて、目の前が白飛びし、先ほど自分が見立てた沈香の香りが鼻を撫でたその瞬間、文飛には目の前に青い蝶がひらひら飛んでいるように見えた。銀の砂塵を散らしながらゆっくり、そう、この光景を、光景を、どこかで、なにかで、なにかを思い出せるかもしれない、とふと手を伸ばした。

 

 

「旦那様」

 気づいたら日はすっかり沈んでいて、寝台の横に据え付けた灯籠がゆらゆらと燃えている。色だけ暖かい燈赤色の光が、青黛の凛々しく、艶のある顔を照らし、小さく揺らめいており、文飛が見惚れていると、青黛はもう一度、旦那様、と声を上げた。その声はまるでしなる枝の中に鋼鉄の針金を通してあるようで、真っ直ぐに文飛の心に入ってきたので、文飛は小さく返事をした。

「旦那様、お休みになるのですか。こんなにめかし込んだのに、女は、十八を過ぎると、あとは枯れるだけです。今、私は一番美しいときです。明日の私はきっと、今日よりも……」 

「今日よりも美しくなるかもしれない。女は年を重ねるたび、美しくなくなるかもしれない。ただ知識や、経験が、女を艶がからせる。そんな美しさも、いいと思う」

 文飛は寝台の上に横たわったまま、仰向けになって呟くように言った。青黛は寝台の上に座り、文飛とは逆の窓側を見つめ、遠く彼方を見つめたまま「そうですね」と、呟いた。文飛はその何処かさみしげな背を見て、ゆっくりと起き上がった。肩に触れようとすると、また青黛の口がゆっくりと開いた。

「それなら、女たちはずっとここにいられるというわけですね」

 その視線は灯籠を見つめており、何処か神妙で、文飛は手を引っ込めた。

「年をとっても、女として遜色ないなら、構わないさ」

「あなたは老婆も蝶として見るのですか。それはもう蝶の巣とは言えないのでは」

「なにも、女の盛りが蝶ではない。翅がボロボロになっても、私は知っている。美しかったときの蝶を」

 文飛は蝋燭の光に揺れる青黛の顔に見惚れながら、恍惚とした艶のある声で言った。

「蝶が翅をッ……なんのために傷つけるのかッ」

 ただその声色に青黛は少し眉をひそめたように見えた。口をつぐみ、その顔はまるで文飛をいとおしむようでもあわれむようでもあった。

 

 蝶の巣にいるための条件が、生娘であることであるように、文飛は女たちに決して手出しはしなかった。蝶は撫でるだけで翅が破れ飛べなくなるので、文飛は女性たちの体を鑑賞し、時には撫で慈しんだが、彼女たちの貞操を奪うことは無く。清らかなまま甘美な時を楽しんだ。これを以て蝶の巣は、美しき八人の女性たちを鑑賞する、文飛だけの虫籠となったのだ。

 

 この晩、文飛は文淑から聞いた通り、青黛が得意だという舞を披露させた。青黛は纏足てんそくをしていないので、その舞は優艶で幽玄、実に花びらそのものが舞っているかのように軽やかであった。話によって青黛はもともと踊り子だということも分かった。四方八方から買い手が殺到するなかで、一番の高値で買い付けたのが文淑だったというわけだ。

 

 こうして夜は明け、文飛は今日も花に心動かし、蝶に心踊らせる。春の陽気麗らかな日、文飛は女たちを庭に呼んで花の下で自由に遊ばせて、それを見て楽んだ。文飛は昼の間は女たちの戯れを鑑賞し、夜は蝶の部屋に行って話をしたり、楽器の演奏を聞いたりして過ごした。

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