〈蝶の舞〉三、【蓮聯舟に風を待つ】その①
三、【蓮聯舟に風を待つ(れんれんしゅうにかぜをまつ)】
夜闇にころんと朧月が浮かぶ夜、
女達の部屋にはすべて明かりが灯されていて、室の前には室の色と同じ色で作った提灯が吊るしてある。色とりどりの提灯は今では八色。紅、緑、水色、白、金、青、黄色、紫と鮮やかで、その室の中には蝶たちが、粋を凝らして着飾った姿で、文飛のことを待っている。
その夢の園のような蝶の巣の中を、文飛は薄手の衣を風にはためかせながら、しばらくぐるぐると悩み歩く。色とりどりの提灯の前を通り過ぎ、女たちの名前を口ずさみながらも、引き寄せられるように緑色の提灯の前で立ち止まって、その戸を叩いた。
「霖鵜」
と文飛が声をかけると、中から霖鵜が顔を出した。
「旦那様!来てくれたの!」
そう言ってにこやかに笑う霖鵜に手を引かれて、文飛は室の中に入った。文飛が霖鵜の部屋に入ったとわかると、侍女たちが他の色の提灯を片付けていく。選ばれなかった女達は室の明かりも消され、霖鵜の部屋以外はまるで水面のように静まり返った。
霖鵜は
室に入るとまず、蓮の形をした蝋燭台が見える。明かりを灯すと壁に蓮の模様が浮かび上がるように細工してあり、この緑の部屋にぴったりだと購入したものだ。タンスは明るい色の花梨材、その上には白磁に緑色で蓮の葉が描かれている壺。蓮池の風景が緻密に描かれた衝立、足の長い香炉台の上には、孔雀をかたどった翡翠づくりの香炉。寝台の垂れは薄い緑と濃い緑の布を何枚にも重ねて柔らかに作ってあり目にも華やかで、天井からぶら下がる翡翠を連ねて作った宝玉のカーテンは室を二つに分けていた。風に揺られてチラチラと光るその宝玉のカーテンの奥に進むと、孔雀の翅をふんだんに使って本物そっくりに仕上げた木工細工や蓮花を描いた凧が飾られ、室の至るところに蓮花の紙細工が飾ってある。
霖鵜が歩くたびに靴に付けさせた銀の鈴がなるのはもちろん、窓辺につけられた無数の細い緑色の絹布も先に鈴と房飾りを縫い付けているため、風に揺れて音を出すようになっている。
室の扉を開ければ、吹き込んだ風にそれらが耳に心地よく鳴り始め。寝台に腰掛けると、舟で爽やかに蓮池の中を進んでいくような心地がするのだ。
✿✿✿
霖鵜はまず小さな緑色の靴をしゃんしゃんと鳴らしながら、宝玉のカーテンの後ろに走っていくので、文飛はそれをゆっくりと追いかけた。
「見て、見て、旦那様、こうすると雨にふられてるみたい」
霖鵜はいいながら宝玉のカーテンの後ろに立ってくるくると回ってみせる。
「なるほど」
珍しい宝玉のカーテンは文飛が特注して作らせたものだった。かなり無理を言って作ってもらったのだが、霖鵜もそれを気に入ってくれているとわかってつい破顔して、花梨材の椅子に深く腰掛けた。元気に揺れる霖鵜のお下げ髪、無邪気なその笑顔に、文飛は満足げな表情で、顎に手をおいてわざとらしく少し顔を傾けた。
「あ……そうだとおもってないでしょ」
高い霖鵜の声に文飛ははっとして目を開くと、からかうように鼻で笑った。
「ばれてしまったか……」文飛のその声に霖鵜は頬をぷくりと膨らませる。活発な霖鵜、この蝶の巣にやって来たばかりのときは内気だったが、今ではそれが嘘のように思えた。
「いいこと、旦那様、よく見ていてね」
霖鵜はそう言うと得意げな顔でカーテンを少し手で揺らした。玉がこすれあって玲瓏な音を立て、まるで初夏の長雨のような、耳に心地よい音が室に響いた。文飛がその音に耳を済ませていると霖鵜はカーテンの間から、くりくりとした大きな目をのぞかせ、薄い唇をニッコリとさせて、耳の上で束ねてある二つのお下げをゆらゆらと揺らした。
「うむ、たしかに、雨の音のようだ」
文飛はそう言うと、ゆっくりと目を瞑った。霖鵜の靴の鈴の音、珠のこすれ合う音、それらが混ざりあい、まるで長雨に降られる蓮池の真ん中にいるのようだと文飛は錯覚した。
「でしょう。そうでしょう」
ただ霖鵜はもうすっかり満足したようで、カーテンで遊ぶのをやめると、文飛のそばに駆けよってきた。膝の上に頭を乗せて来る霖鵜を見て、文飛はその頭を撫でてやってから、膝の上に乗せ、おさげを指先で弄んだ。
「だが霖鵜。雨の色は、緑じゃないさ」
そう言って霖鵜の頭をなでながら、元気よく揺れる霖鵜の足先に目をやる。蓮花の刺繍がしてある刺繍靴。霖鵜はこの靴を気に入っていて、めったに脱ぐことはなかった。
「緑よ。だって、雨は透明で、色んな色になれるもの。ここから見ると、山の色を写して、緑に見えるの」
その声に文飛は視線を靴から霖鵜の顔へと移した。くりくりとした大きな目はガラス玉のようにつややかだった。
「そんな、あまりまじまじと見たことがないから、わからないな」
文飛はそう言ってまた少しはにかみ、霖鵜は文飛のことを見上げた。蒸したての饅頭のようなつやつやとした頬は霖鵜がニカッと笑うと本当に食べられそうに思える。文飛がおどけて指で頬をぷすりと差すと、霖鵜は満面の笑みを見せた。控えめなエクボが浮かび上がり、粒揃いの歯は、血色の良い桜色の唇から覗いていた。
「私、雨になるね」
ただそう言うと霖鵜は文飛の膝から降りた。顔は幼気な少女らしく笑ったままだったが、瞳には先程まではなかったいたずら好き特有の輝きが宿っている。
「何?」
文飛がそういったのもつかの間
「私、雨になる!」
と言って、霖鵜は置いてあった薄緑色の布をひっつかんで外に飛び出した。月の光を透かすほど、薄く作られてある絹布はまだ裁断もしておらず霖鵜はそれを少し引きずっていた。
「それは、これから上着に仕立ててもらうものだぞ、霖鵜」
「雨!」
文飛の声も聞かず霖鵜は勢いよく走り出した。他の室の明りはもうすでに消えていて、その薄緑色の絹布だけが月の光を集めて白く光っていた。
「旦那様!早く!」
霖鵜の足は早い、纏足されていないということもあるが、まだ幼気の残る霖鵜は下手をすればそこらにいる男童よりもすばしっこかった。二人は何度か蝶の巣の回廊をぐるぐると回ったが、文飛は息を切らして、霖鵜の部屋の前で立ち止まり、走っていく霖鵜の姿を目で追いかけた。霖鵜は一度青黛の部屋の前で止まりかけたものの、また元気よく走り始める。
霖鵜は雨になると言った。薄い衣は風になびいていて雲をまとって走っているように見える。霖鵜の靴につけられた鈴の音、高い娘のコロコロとした笑い声が蝶の巣に響いていた。
「旦那様!遅い。全然追いついてな……」
後ろばかり見ていて、文飛が自室の前に立っているのに気づかなかった霖鵜はその胸に勢いよく飛び込んだ。「いつの間に、追い抜かしたの!」と初めは目を丸くしていたが、少し間をおいてそのからくりに気づくと、頬を膨らまして「ズルい!」と文飛の胸をパタパタと叩いた。
霖鵜はそれから少しの間へそを曲げていたが、くしゃみが出ると文飛に抱えられて大人しく室の中に戻った。汗をかいてたため別の寝衣に着替えると、今度は歌を披露する。霖鵜の特技は歌。室の窓を開いて、霖鵜は歌い始める。どこまでも透き通る高い声、なめらかなその旋律に乗って文飛は眠りについた。
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