〈修羅と淑男〉三、【空の盃】 その①

三、【空の盃(からのさかずき)】

 

 宴会が行われる一週間ほど前から、文淑は仕事で家を開けていたが、帰ってきてみると、庭の池の上に蓮の灯籠が浮かんでおり、急いで蝶の巣に渡った。見ると流麗に踊る青黛の姿が見えた。

 あの後青黛には医者をつけた。子供が出来てもすぐに流すように口を酸っぱくして伝えておいた。医者からの報告では無事に流産させたということだが、薬の具合が悪いのか、また懐妊する可能性もあるということだった。

 ならいっそ、青黛のもとには行くまい、と文淑は思った。もしまた行って、子ができたとして、それを生みたいなどと言われたらたまらない。黙って踊っていればどれだけ美しいか。文淑はそう思いながら青黛の舞を見つつ、すぐに目をそらすと、後ろで古筝をかき鳴らしている淡姉妹が目に付いた。帰宅してすぐに芳梅に二人の具合を尋ねたが、まだ女の体にはなっていないということだった。だが見るに、その細い体にかぶさった服越しにも、体のかすかな流線が見て取れる。

 文淑は淡姉妹の軽やかな弦の指さばきに注目しながら、横目で芳梅もちらりと見た。琵琶をかき鳴らすその姿。情熱的で紅色の裙がよく似合っていた。

 

 ✿✿✿

 

「兄上も、顔を出せばいいのに」

 宴会の途中で抜け出した文淑は、兄への報告が終わり、冗談めかして言った。池の上に浮かぶ緑の蓮灯を落ちていた棒切れで引っ掛けて川から引き上げてみせるが、文碧は困った顔をして笑った。

「こら、睡蓮は水の上に浮かべておきなさい」

 文碧は青磁の酒盃を置くと、立ち上がって池のそばまで歩いてきた。文淑から蓮灯を取ると、池のふちにしゃがみ、ゆっくりと池の上に蓮灯を離した。

「すみません」と文淑は小さな声で言った。すかさず文碧の横にしゃがみ込むと、入れ替わりで文碧が立ち上がって、またいそいそと立ち上がるが、裾に木っ端をつけてしまい、あ、と声を上げ、両手でバサバサとはたいた。

「落ち着いたかい?」

 文碧にそう声をかけられ、文淑は少し顔をうつむけた。小さな声で返事をして、池の真ん中に流れていく蓮灯を目で追った。

「でも、兄上にも、みせたかったのですよ。蓮灯だってもっとたくさん流れています」

 文淑は室に戻っていく文碧の後ろ姿を追いかけた。いつもこうやって、子供の頃も兄の後ろ姿を追いかけてきたと懐かしい。文碧が好きでよく着ている上着は軽くつくられていて大きな裾が風になびく。

「しかしねえ。こんな私を見たら、蝶たちが震え上がってしまう」

 言いながら文碧は腰を下ろした。

「私から、説明しますよ」

 そう言って、文淑も文碧の隣に腰を下ろす。

「いやいや、私は蝶から嫌われているだろうし。大丈夫さ」

「いったい誰ですか、私からきつく言っておきますよ」

 文淑は控えめな兄の顔を見て、陽気な声色で言った。景気良く自分の膝を打ち鳴らす。

「誰ってことはないが、特に芳梅には嫌われているだろうし」

 そう言って、少しうつむいた文碧の横顔を見ながら、文淑は水を指すような少し冷めた声で言った。

「あの女は、そんなじゃありません」

 すんで声色を取り繕おうとすると、文碧が顔を上げ、一瞬だけ目があった。首元が一気に熱くなる。息が詰まってしまう感覚がして、文淑は少しだけ身を引いた。

「本当かな」

 と優しい声でいい、文碧は遠くの山々を見るように顔を上げた。小魚が池の中で跳ねる小さな飛沫の音が文淑には耳元で聞こえる気がした。 

「はあ、女というやつは、仕方がありませんね。伝染らないと言ったら、伝染らないのに。なんと愚かなのか」

 文淑はまた陽気な声で話し始め、はは、と豪快に笑ってみせたが、その様子を見た文碧は文淑をなだめるように言った。

「でも、何事も、絶対はないからね」

 すんで、少しほほえみながら、文碧は続けた。

「絶対を盲信してはいけないよ。これが伝染らないと、盲信しているお前はどうだ。それに私を慰めるために、女達をけなすことは愚かでないと言えるかな?」

「え……」

 文淑はすっかり面食らって、また少し身を引いた。兄は自分の一枚上手を行く。いつだって言葉巧みに。自分が作り笑いをして慰めようとしたことも、文碧にはばれていた。

「これは、失礼を……。確かに。何事も、盲信するのはいけませんね。愚弟ですみません」

 文淑は言い終えて、肩をすぼめた。兄が注いでくれた酒は一口だけ飲んだだけで、なみなみと残っていて、白磁に注がれた白酒には満月がポッカリと浮かんでいる。二人の間にまた静寂が落ちた。

 

 ✿✿✿

 

「文飛はどうだった」

 文碧の言葉に文淑は顔を上げた。心は小さな穴が空いたようだった。いつだって自分は、兄にとって文飛を見るための道具でしかないのだと思えてならない。だが心中で歔欷する自分の幼心を押さえつけて文淑は笑って答えた。

「ええやはり、顔がいいですからね、なにをさせても様になる。舞台の上で蝶と戯れ合ったりして、まるで絵巻物かと思いましたよ。」

「それは良かった」

 そう言って少し安心したように微笑む文碧。自分が仕事で功績を上げたときもそうやって笑ってくれれば、どれだけいいか。まだ自分の頑張りが足りないのか考えると、眉間にシワが寄りそうになった。

「でも、兄上、兄上は少し、文飛に甘すぎやしませんか」

 文淑は意を決してそういった。声は甘く繕い、顔には優しげな微笑みを浮かべるが、心の中では轟々と炎が燃えたぎっていた。

「甘いことないさ、可愛い弟だからね。お前だって、そうだ」

 文碧は言葉を紡ぐようにゆっくりと言った。声にはぬくもりがあり、その息遣いには真実味が宿っている。

「いやでももう、私は……」

 そう言いかけると、文碧は文淑から目をそらした。目線の先には文飛がいて、少し唇を引き締めた。

 今ここで、酒盃をひっくり返しでもすれば、兄はこちらを見てくれるか、そう考えて文淑はやめ、立ち上がって笑顔で文飛を迎えた。

 

︎✿︎✿︎✿

 

 文飛が文碧の演奏を聞いて眠りにつき、起きてから蝶の巣に行った後。琵琶の音が離れまで届き、文淑は蝶の巣に向かった。芳梅の演奏だということ、赤の部屋にだけ明かりがついていることの二つを確認し、金檀の部屋の前に立った。

 

 すると戸はおもむろに開く。金檀は扉を開くと、ニヤリと笑った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る