〈蝶の舞〉六、【三兄弟】
六、【三兄弟(さんきょうだい)】
一月ぶりに家に戻ってきた
木蓮のあたりまで来て、文淑は足を止めた。文碧の奏でる古琴の音が聞こえ、胸が高鳴った。兄は人前で楽器を弾かない、その腕は確かだが、恥ずかしいのか何なのか、自分が行ってしまえば兄は演奏を止めてしまう。文淑はゆっくりと歩き出し、生け垣に隠れるように少しかがんで入り口まで進んだ、だが途端、「
「や、見つかってしまいましたか。兄上」文淑は、兄の様子を観察しながら近づいていった。よく使っている黒檀の古琴に、酒盃、普段はめったに酒を口にしない文碧がめずらしいこともあるものだと首を傾げた。
「なぜ、今日は
「宴をしているみたいだからね。蓮灯が一つ迷い込んできたから」
文碧の目線の先には緑の布を貼った蓮灯がプカプカと浮かんでいた。小さな池に浮かんでいると本当に咲いてしまった一輪の蓮の花のように見える。蝶の巣や本殿の池の方は蓮を植えているが、この池には長らく蓮の花は咲いていなかった。文淑はなるほど、と手を打ち鳴らしてから文碧の横に腰を下ろすと、今回の商談の話や、蝶の宴がどんなだったかを文碧に話した。文碧は膝の上に古琴を乗せたまま、ウンウンと頷いてその話を聞いた、しばらくすると「兄上!」という文飛の声がして、二人は入口の方を見た。文飛が手を振りながら近づいてきて、文碧はゆっくりと手を振って立ち上がった。
「碧兄上。今日は古琴を?」
「ちょっとした気晴らしだよ。宴は楽しかったかい?」
「ええ、もちろん」
文飛は屈託なく笑ってそばに寄ってくる。藍色の衣に施してある刺繍が光の加減でチラチラとうかびあがる。
「涼春こそ、どうしてここに?」
文淑は手で酒盃を掴みながら、座ったまま文飛を迎えた。
「碧兄上に会いたくて」
文飛はそう言って文碧の隣に腰掛けた。文飛が座ると文碧も居住まいを正して座り直した。
しばらく三人は、世間話などをして楽しんだが、文飛が「兄上の古琴の演奏を聞きたい」と言い出したため、文碧は簡単な曲をいくつか弾いたが、いつも蝶の演奏を聞いて眠りにつくせいか、その音を聞いて文飛はすっかり眠ってしまった。
「兄上の演奏を聞けるのに、眠りにつくとは」
文淑は少し眉を寄せた。考えれば、文飛にとって兄の古琴の演奏はいつでも聞けるものなのかと少し羨ましくなった。文碧は古琴を片付けると寝入った文飛の頭をなでる。月はちょうど離れの真上まで上ってきている。
「むかし
文淑の言葉に、文碧はゆっくり頷いた。遠くで虫の鳴く声がする。今日文飛がここにいる限り蝶の巣は音を立てることはない。
「兄上は少し、涼春に甘すぎるのですよ」
文淑はそう言って、ため息を付いた。自分と血を分け合った兄は、自分よりもいつも文飛を気にかけていると感じていた。その声を聞いて、文碧は文淑の方に向き直った。赤んで少し腫れた目元は優しげに文淑を見つめていた。文碧は少し目を細めて、小さく笑った。
「弟に、当然のことをしているだけだよ。お前もなでてほしいかい」
「そんな、私もう、三十になるのですよ」
文淑はそう言って少し身を引いた。だが文碧は文淑を追って、大きな手で文淑をなでた。あかぎれて筋張った手、一見小さそうに見えるが、どんな楽器でも器用に弾きこなせる兄の手は大きく温かい。髪を低い位置で結んでいる文飛と違って、髪を頭の上で結んでいる文淑の頭を、少しなでにくそうに文碧はぽんぽんと叩いた。
「まあ、そうですね。涼春は大切な弟ですからね」
文淑は少しうつむいて、笑ってみせ、ちらりと文飛の方を見た。文家の当主である文碧、その右腕である自分。その確固たる自負が文淑にはあった。
そしてまもなくして、文飛は目が覚めた。蝶の巣に行かなくては、とうわ言のように言いながら歩いていく弟を兄二人は見送り。その後に文淑も文碧の屋敷を離れた。
✿✿✿
そしてこの夜文飛は悩んだ末に
「金檀のことを褒めてらしたのに私のところへ?」
「いけなかったかな」
「いいえ、昨日もいらしたのに、他の姉妹に嫉妬されます」
「お前は一番はじめの蝶だからね、労ってやらなくては」
「死んでしまうとでも、言いたいんですか」
芳梅はふふと上品に笑った、紅木の調度を基調とし、椿と梅を題材にした赤の部屋。壁には院体画の椿と梅の掛け軸が飾られ、真っ赤な珊瑚の置物に、芳梅が趣味でしたためた漢詩の書も壁に飾られている。椅子に腰掛けると、芳梅はひざの上に琵琶をのせ、ゆっくりと弾き始めた。
そして次の日、文飛は
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