〈蝶の舞〉六、【三兄弟】

六、【三兄弟(さんきょうだい)】

 

 一月ぶりに家に戻ってきた文淑ぶんしゅくは蝶の宴の合間に聞き馴染みのある音を耳にして、離れまで歩いてきていた。屋敷の南側から流れてくる川は、蝶の西棟の下を通り、蝶の間室のあたりで二つに分かれる。一つは本殿の前の大きな方形の池、一つは先代の当主が療養のために作らせた離れの池である。その離れには皮膚に病気を患って自ら身を隠している現当主の文碧ぶんへきが住んでいた。細い川沿いに歩いていくと木蓮の木があり、そこからさらに進むと柱を塗っていない素朴な作りの小さな屋敷がある。ツツジの生け垣で一見入れないように見えるが、回り込むようにして進むと入り口があり、その入口を正面にして直ぐ側に池が、奥に屋敷があった。

 木蓮のあたりまで来て、文淑は足を止めた。文碧の奏でる古琴の音が聞こえ、胸が高鳴った。兄は人前で楽器を弾かない、その腕は確かだが、恥ずかしいのか何なのか、自分が行ってしまえば兄は演奏を止めてしまう。文淑はゆっくりと歩き出し、生け垣に隠れるように少しかがんで入り口まで進んだ、だが途端、「珀秀はくしゅう」とよぶ兄の声が聞こえ、立ち上がった。

 

「や、見つかってしまいましたか。兄上」文淑は、兄の様子を観察しながら近づいていった。よく使っている黒檀の古琴に、酒盃、普段はめったに酒を口にしない文碧がめずらしいこともあるものだと首を傾げた。

「なぜ、今日は古琴こきんを?」

「宴をしているみたいだからね。蓮灯が一つ迷い込んできたから」

 文碧の目線の先には緑の布を貼った蓮灯がプカプカと浮かんでいた。小さな池に浮かんでいると本当に咲いてしまった一輪の蓮の花のように見える。蝶の巣や本殿の池の方は蓮を植えているが、この池には長らく蓮の花は咲いていなかった。文淑はなるほど、と手を打ち鳴らしてから文碧の横に腰を下ろすと、今回の商談の話や、蝶の宴がどんなだったかを文碧に話した。文碧は膝の上に古琴を乗せたまま、ウンウンと頷いてその話を聞いた、しばらくすると「兄上!」という文飛の声がして、二人は入口の方を見た。文飛が手を振りながら近づいてきて、文碧はゆっくりと手を振って立ち上がった。

「碧兄上。今日は古琴を?」

「ちょっとした気晴らしだよ。宴は楽しかったかい?」

「ええ、もちろん」

 文飛は屈託なく笑ってそばに寄ってくる。藍色の衣に施してある刺繍が光の加減でチラチラとうかびあがる。

「涼春こそ、どうしてここに?」

 文淑は手で酒盃を掴みながら、座ったまま文飛を迎えた。

「碧兄上に会いたくて」

 文飛はそう言って文碧の隣に腰掛けた。文飛が座ると文碧も居住まいを正して座り直した。

 しばらく三人は、世間話などをして楽しんだが、文飛が「兄上の古琴の演奏を聞きたい」と言い出したため、文碧は簡単な曲をいくつか弾いたが、いつも蝶の演奏を聞いて眠りにつくせいか、その音を聞いて文飛はすっかり眠ってしまった。

「兄上の演奏を聞けるのに、眠りにつくとは」

 文淑は少し眉を寄せた。考えれば、文飛にとって兄の古琴の演奏はいつでも聞けるものなのかと少し羨ましくなった。文碧は古琴を片付けると寝入った文飛の頭をなでる。月はちょうど離れの真上まで上ってきている。

「むかし涼春りょうしゅんが熱を出したときも、そうしてやっていましたっけ」

 文淑の言葉に、文碧はゆっくり頷いた。遠くで虫の鳴く声がする。今日文飛がここにいる限り蝶の巣は音を立てることはない。

「兄上は少し、涼春に甘すぎるのですよ」

 文淑はそう言って、ため息を付いた。自分と血を分け合った兄は、自分よりもいつも文飛を気にかけていると感じていた。その声を聞いて、文碧は文淑の方に向き直った。赤んで少し腫れた目元は優しげに文淑を見つめていた。文碧は少し目を細めて、小さく笑った。

「弟に、当然のことをしているだけだよ。お前もなでてほしいかい」

「そんな、私もう、三十になるのですよ」

 文淑はそう言って少し身を引いた。だが文碧は文淑を追って、大きな手で文淑をなでた。あかぎれて筋張った手、一見小さそうに見えるが、どんな楽器でも器用に弾きこなせる兄の手は大きく温かい。髪を低い位置で結んでいる文飛と違って、髪を頭の上で結んでいる文淑の頭を、少しなでにくそうに文碧はぽんぽんと叩いた。

「まあ、そうですね。涼春は大切な弟ですからね」

 文淑は少しうつむいて、笑ってみせ、ちらりと文飛の方を見た。文家の当主である文碧、その右腕である自分。その確固たる自負が文淑にはあった。

 そしてまもなくして、文飛は目が覚めた。蝶の巣に行かなくては、とうわ言のように言いながら歩いていく弟を兄二人は見送り。その後に文淑も文碧の屋敷を離れた。

 

 ✿✿✿

 

 そしてこの夜文飛は悩んだ末に芳梅ほうばいの部屋に行くことにした、金檀きんだん霖鵜りんう、その他の姉妹を取りまとめる役割をしている芳梅は気疲れもしやすいだろうと、いたわる気持ちで選んだのだ。実は前日も琵琶の音色の聞きたさに芳梅のところへ訪れていたのだが、それでも一度行くと決めたら、なかなか変える気にはならなかった。提灯も出させていないが、夜も遅い。仕方なくそのままで戸を叩くと、中から髪を梳った芳梅が出てきた。もう寝衣に着替えていて、夏用の薄い衣は体の形がはっきりと見えた。

「金檀のことを褒めてらしたのに私のところへ?」

「いけなかったかな」

「いいえ、昨日もいらしたのに、他の姉妹に嫉妬されます」

「お前は一番はじめの蝶だからね、労ってやらなくては」

「死んでしまうとでも、言いたいんですか」

 芳梅はふふと上品に笑った、紅木の調度を基調とし、椿と梅を題材にした赤の部屋。壁には院体画の椿と梅の掛け軸が飾られ、真っ赤な珊瑚の置物に、芳梅が趣味でしたためた漢詩の書も壁に飾られている。椅子に腰掛けると、芳梅はひざの上に琵琶をのせ、ゆっくりと弾き始めた。

 

 そして次の日、文飛は青黛せいたいの部屋を訪れようとしたが、昨日の顔色が悪かったのは足を捻ったせいだと医者に伝えられた。文飛は見舞いに行こうとしたが、青黛は「自分の得意の舞で怪我をしたなんて、恥ずかしくて顔向けが出来ない」と文飛を拒んだ。文飛はその日どこへ行くか迷ったが、美しい箜篌の音が耳に入り、青黛の横の部屋でもあるために紫翅を選んだ。藤の花が刺繍された紫の提灯、戸を叩くと、紫翅が顔を出した。

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