〈蝶の舞〉五、【蝶の川にて美楽に酔う】

 五、【蝶の川にて美楽に酔う(ちょうのかわにてびがくによう)】

 

 春の夜は甘く、鍋の中で煮詰まっていく砂糖の湯気のように鼻を撫でる。八つ全ての部屋が埋まった蝶の巣は日ごと異なる美しい音を立てる。芳梅ほうばいの琵琶、紫翅しし箜篌くご淡姉妹たんしまいそう霖鵜りんううた金檀きんだん胡弓こきゅう小雀しょうじゃくの笛。だが青黛せいたいの舞は音を立てることはない。文飛は趣味で少しはできる琴を弾いて、青黛を舞わせていたが、自分の拙い演奏では仕方がないと、蝶たちの演奏会を開こうと思案した。しかもただの宴ではいけない、より豪華なものを、より完璧なものを文飛は求めた。そうして文飛はちょうど戻ってきていた文淑に話をして蝶の巣の横にある舞台に飾る花や、川に浮かべる蓮灯を手配するように頼んだ。

  

 そしてその後、夏の盛りのある晩に、女達はそれぞれ三個ずつ、各々の色の絹布で作った蓮台を渡された。蓮台には蝋燭が立てられており、蝋燭に火をつけると蓮の花全体が淡く光り始める。この蓮灯を池の上に浮かべると、まるで夜闇に蓮の花が泳いでいるようで美しく、二十四個、すべての蓮灯を池に浮かべたところで、蝶の宴の始まりを知らせる太鼓の音が、文家に響きなった。

 

 太鼓の合図を聞いてから、文飛はこの日のために建て直した舞台の前に移動した。先代の時代、観劇のために作られた舞台は「永楽台えいらくだい」と呼ばれ、腰の高さほどの方形の舞台だったが、この日のために文飛は八角形になるよう作り替えた。良質な硬木で作った八角形の舞台には、飾り彫りがしてある豪華な木柵をつけ、角の頂点にあしらった八本の柱にはそれぞれ蝶の色をした房飾りを垂らした。

そして舞台の両端には満開の白い小花を咲かせたノリウツギの枝を飾り、周囲には白百合の花をみっちりと並ぶほど植え込んだ。文飛が手間ひまかけて作った舞台は月明かりが高く登る頃になると白く光を帯びるように輝いていた。風に揺られて小さな花を散らすノリウツギの枝と、芳醇な匂いを夜闇に溶かしていく百合の花が月明かりと溶け合っているその様子は、天界の花の園さえ嫉妬するほどだった。

 今、舞台の端には古筝が二本と、椅子が一つ、一番初めに演奏を披露するのは淡姉妹ともうひとり誰であるかと文飛は心待ちにした。

 

 文飛は舞台の前に座り、その様子を眺めた。文飛の隣には青磁の酒盃に入った白酒が置かれ、皿の上には干した山査子や焼き菓子が用意されている。藍色の衣を身に着けた文飛は月光に肌が白く照らされ、その端正な顔立ちがよく見えていた。ゆったりと寛ぎながら月を見上げれば、その瞳の中にころんと青い月が宿り、かすかに睫毛が震える。その姿の美しさはさながら、月の主がこの世に堕ちてきたようであった。

 文飛はしばらく美酒よりも甘い夜の空気を味わっていたが、満足気に蝶の舞台を見渡すと、腕を上げて合図をした。とたんに下男が太鼓をダンと打ち鳴らし、ノリウツギの枝がふるふると揺れる。体の芯にまで響いてくる太鼓の音に卓子の上の白酒に波がたち、鼓膜を破るような一声のあと、次いでシャンシャンと耳を撫でるように聞こえる鈴の音とともに、青黛が舞台に現れた。

 青黛の髪は踊りやすいようにすべてきれいに結上げられ、姉妹が施したのか、肌の白さが際立つ化粧と額に描かれた鴇色の花鈿が上品である。身につけているのは、遠くから見れば体が筒のように見える襟の高い上着で、全面に青いユリの刺繍がしてある重厚な作りなものの、首元に縫い付けられている小さな宝石が月明かりにチラチラと光っており風雅で、上着と対照的に、柔らかな刺繍靴に包まれている足元には鈴が、夏に似合わない厚手の上着の袖からは白い衣の端がちらりと覗いていた。

 

 ドンとまた下男が太鼓を打ち鳴らすと、青黛は手を天に掲げて体を落とし、顔をうつむかせた。頭に飾ってある金の冠から無数に垂れている細い金板が揺れ、ちらちらと光って月光と戯れる。

 ドン、と今度は軽やかに太鼓の音がなり舞台袖から、芳梅、淡雪、淡霞の姉妹が舞台に上がってくる。淡姉妹は古筝のそばに腰を下ろし、琵琶を持った芳梅は椅子に腰を下ろした。

 淡姉妹は姉が雪、妹が霞、双子で顔もそっくりだが、髪の色と目の色がそれぞれ違う。雪は髪や肌、まつげまで白く、目は紫色。霞は肌は白く目は青色だが髪は黒かった。二人は髪を低い位置でゆったりとまとめ、銀細工の小梅の簪を挿している。ふたりとも薄手で作った膝まである丸襟付きの上着を着つけていて、胸のあたりには同じ図用の丸菊が刺繍されており、丸みを持っていてゆったりと長い袖口と、上着から見える馬面裙が歩く度に揺れていた。

 

 ドンとまた太鼓の音がなる。椅子に座った芳梅は、赤い裙に黒い胸当て、薄い絹で作ってある濃い赤の上着を身に着け、大きな袖が風に揺れている、今日は髪をまとめて編み込んでいる鬢に金の簪を数本飾っていて、なんともきらびやかで、垂らしてある襟元の髪が風に揺れていた。

 文飛がその姿に目を奪われていると、芳梅は足を組んで、ひざの上に琵琶を乗せ鼈甲の爪先で弾いた。花びらの息のような軽い音をピンと鳴らし、そして一拍置いて、カラカラと軽快に琵琶をかき鳴らしはじめ、青黛はその音に乗ってゆっくりと舞い始めた。初冬に着るような重い上着を着ているにも関わらず、まるで重さのないような華麗な足さばき。文飛が見惚れていると、後ろから蓮灯を持った文淑が現れた。

「もう始めたのなら、私にも一言いっておくれよ。この舞台を作れたのは私のおかげだろう」文淑は文飛の横に腰掛けてはにかみ、舞台の方に目をやった。

 とたん、いままで軽快にかき鳴らされていた琵琶の音は、二本の箏の連弾の音にかき消され、荒々しい水の流れを思わせるような力強い音の響きに変わる。二人が呆然としていると、琵琶をザンと弾く音に合わせて青黛が上着を脱いだ。夜闇と月明かりの境目のような濃い青い衣、薄く風になびき、袖口の狭い袍からは蝶の刺繍がしてある長い袖が水が流れるようにさらさらと出てきて、文飛は息をするのも忘れてその姿を見た。

 楽器の音は止み、青黛も動きを止める。体はおろか、まぶたの一つすら動かさない青黛の姿。悠久の間そこに立ち続けている木のような芯のある立ち姿と対照に、薄い衣服の袖や冠についた装飾は柳の葉のようにゆらゆらと揺れる。青白い月光の下で、文飛は青黛に静の美しさを見出し、その姿をじっと見ると、その指先に蝶がとまり鳥がさえずりを奏でる幻想を見た。それは朗らかな春の陽気をそのもので、柔らかな気配をまとっていたが、風に踊る小さな花びらが金の冠の上にひらりと乗ると、打って変わって、押し寄せるような古筝の音色が、初夏の風が吹き付けて来るように流れ込んできた。風が運んだ甘い百合の香りに酔い、次に文飛が気づいた頃には、青黛は澄んだ夏の夜空を背景にして、衣を翻し、足を天高く掲げながら、舞い踊っていた。

 舞台の上で縦横無尽に舞う青黛の姿は、さながら、籠の中で動き回る蝶の姿そのものであった。

 

 青黛の舞が終わると、今度は金檀の馬頭琴と紫翅の箜篌の演奏、小雀の竹笛の独奏や芳梅との合奏も行われ、霖鵜の歌と金檀の胡弓こきゅうの合奏には蝶たちもうっとりとして聞き入った。そして宴も終盤になると、文飛が舞台の上に招かれ、蝶たちは皆、薄い絹布を手に持ってその周りを回りながら舞った。

 月明かりに光る八色の絹布。薄く光りながら時に文飛の頭の上に折り重なって舞う。まるでこれは蝶の川のようだと文飛は思い、自分もくるくると回りながらその中を泳いだ。そのうち楽しげに笑う蝶たちの声が聞こえてきて、一つの絹布をおもむろにつかむと、それを引き寄せる。白い色の絹布、文飛の腕の中にはすっぽりと淡雪が収まり、元気よく走り回っている霖鵜がズルいと言って文飛に抱きつくと、他の蝶たちも押し合うように文飛の近くに集まっていった。

「霖鵜が一番なの!」

「霖鵜姉さん。それはすこし傲慢チキよ」

 高い声で早口に喋る霖鵜とゆっくりと甘い声で話す金檀、二人が言い合っているのを聞くとなんだか滑稽で面白いと文飛は思った。

「ふたりとも、旦那様は、順位なんておつけにならないわ」

 ただそこに芳梅が口を挟むと、二人が母親に怒られたときのようにしゅんとするのが分かって、文飛は更におもしろく思った。

「順位はつけられないが、金檀、今日の胡弓の音色は素晴らしかった」

「やっぱり。旦那様ならそう言うと、私思っていましたわ」

「でも、でもでも!霖鵜もっ」 

「こら、もう、いい加減におし」

 文飛の回りで押し合っている金檀と霖鵜、二人をなだめる芳梅の後ろには青黛がおり、霖鵜は青黛とめがあうと、ハッとしていった。

「でも!今日の主役は青黛だもの」

 それを聞いて皆、一斉に青黛の方を見た。部屋に行っていいかと文飛が聞くと、青黛は首を横に振った。見ると顔色が悪そうで少しよろめく、蝶たちは青黛がこの日のために寝る時間も惜しんで舞の練習をしていたと告げると、文飛は青黛をいたわって、侍女に命じて部屋に返させた。

 

 ✿✿✿

 

 その後文飛は金檀に連れて行かれる霖鵜、一人巣に戻る芳梅を見送ってから、自分の腕の中にすっぽり収まった淡雪に目をやった。普段自分を遠ざけている淡雪と、ここまで近くに寄ることはなかったが、近くに寄ってみると自分の選んだ爽やかな百合の香りが鼻を撫でた。蝶たちは皆が皆文飛に従っているわけではない。この蝶たちは別に文飛の妾というわけではないのだから、何よりも自由に、そして巣で暮らしてさえいれば、あとは文飛を受け入れようが受け入れまいが、蝶の勝手なのだというきまりがあった。だがその中でも特に、淡雪は集まったときでも一番離れたところに腰掛け、いつも妹の淡霞に頼んで伝言のようにして文飛と話していた。話しかけても言数は少なく、笑うこともなければ、優艶に誘惑することもない。いくら蝶の川に魅了され、酔っていたとはいえ、淡雪に失礼なことをしただろうかと文飛はゆっくりと腕を解いた。まるでモンシロチョウの翅を手で毟るような、そんな失礼な行いをしたのではと思い、近くに立っていた淡霞の方を見た。

「姉さん、良かったですね」

 ただそういった淡霞の言葉に文飛は眉をしかめたが、淡雪は妹の言葉にもそしらぬふりをして黙ったまま顔をうつむけ、蝶の巣の方に走っていってしまった。舞台から降りて白い髪をなびかせて行く後ろ姿を、文飛は百合の花がひとりでに動き始めたかのようだと思った。

「失礼なことを、したかな……」

 文飛は上の空でふと呟いた。淡霞の方に向くと、その透き通った水色の瞳が目に入る。

「いいえ、姉は照れ隠ししてるだけです。いつでも私達の部屋に来てくださいね」

 淡霞はそう言うと頭を下げて、姉を追いかけて行ってしまうので、文飛はその姿を見送り呆然と立ち尽くした。頭の中では先程の宴会の演奏の名残が燻っており、ふいに頭の中に蝶が飛んでいる心地がした。

 

 気づけば文飛は舞台の上に一人立っていた。舞台の真ん中に描かせた八色の蝶の姿を見て、もう一度月を見上げる。夏の夜は透き通った菓子のように、甘く頬を撫で、体を満たしていく花の香りに、文飛はゆっくりと目を閉じた。

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