【表】第二章〈修羅と淑男〉
〈修羅と淑男〉一、【嘘】
一、【嘘(うそ)】
それはまだ
「兄上、これはなんと読むのですか」
文淑に気づいた
「そうだねえ。両人対酌山花開、一盃一盃復一盃、我酔欲眠君且去、明朝有意抱琴来。両人対酌すれば山花開く、一杯一杯また一杯、我酔って眠らんと欲す、且く去れ、明朝意有らば、琴を抱きて来たれ」
「なるほど、そうなのですね。兄上はすごい」
文淑はそういって、今度は次の詩を指さした。
「これは、なんと読むのですか?」
「これはね……」
文淑はどの漢詩の意味も心得ていた。どんな学問でも、文淑に出来ないことはなかった。だがそれでは兄が自分に構ってくれないとわざとわからないふりをしてみせた。書画でも、器楽でも、何でも、出来ないふりをして見せれば、兄は丁寧に教えてくれた。
「そんなことより、支度をなさい!」
と母の声が聞こえて、二人は扉の外に向いた。蝶の刺繍のしてある黒い纏足靴を履いた母が、室に入ってきて、文淑の手を引いた。
「ほら早く、来るんだよ」
「いたい、やめて」
そう言っても母はやめなかった。文淑の体を丁寧に洗い、爪を整え、柔らかな絹の着物に着替えさせ、本殿の裏にある真っ赤な扉の室の前まで連れてきた。
「いいかい、淑、失礼のないようにするんだよ」
母はそう涼しい顔で言い、文淑の顔を睨んだ。侍女によって扉が開けられると、部屋の奥には赤いベールのかかった寝台があり、両脇に真っ赤な提灯が灯されていた。
文淑が中にはいると、父がその名を呼んだ。ベールの奥で手招きする父の姿が見え、文淑は駆け足で寄っていった。
目を凝らすと、父の黒い手の中には七色の糸で刺繍してある毬があった。転がすと鈴の音色がする毬は太い刺繍糸で蝶の図様が施してある。
「これをくださるのですか?」
文淑がそう言うと、文宝は目を閉じながらゆっくりとうなずき、文淑に毬を差し出した。ころんと音をたてる毬に文淑はゆっくりと手を伸ばしたが、まりと指先が触れそうになった時、父は寝台の中にその手を引っ込めた。寝台の中は空気がこもっていて、濃い栴檀香の匂いがする。文淑は少し寝台に乗り上げ、その毬に手を伸ばした。しかしその瞬間、自分の腕がさらわれて、視界は大きく揺れた。腕の骨をまるごと掴まれているような感覚に、体がひどくこわばった。
気づくと文淑は外に出ていた。見慣れない本殿の廊下はどこまでも続くようで、太い柱は迫り来るような錯覚さえし、出口のない迷路を走っているようだった。濡れた頬に吹き付ける風はひどく冷たく、柔らかい靴は脱げてしまって足の裏が痛かった。屋敷に働く者共はひとりとして文淑を引き留めようとしない。自分は透明になってしまったのではないかと文淑は錯覚さえした。もしかしたら自分は父の部屋で殺されてしまい、魂だけがさまよっているのではないかという考えさえ浮かび、頭の中はドブの油のようにごちゃ混ぜになっていた。
その時、文淑は視界の中に文碧の姿を捉えた。引き寄せられるようにそばに行き、その足に抱きつくと、文碧は震える文淑の体を抱きしめた。優しく背中を撫で、ゆっくりと文淑をなだめた。
「大丈夫。大丈夫だよ。淑」
その声を聞いて、文淑は、自分の味方は兄だけなのだと悟った。兄に触れられると、荒波のように打ち寄せる不安も、業火の如く立ち上る怒りさえ、すべてが晴れやかな風一つない水面のように静まるようだった。その日だけ文淑は兄の住む離れで身を寄せ合って眠った。
✿✿✿
そして文淑が十五歳の時、二回目に文宝の寝床に通された時。父は昔とおなじように自分の手を固くつかんだ。すんで体はこわばり、蛇に睨まれたカエルのようだった。父は耳の中に舌を押し入れてねっとりと舐める、体中に駆け抜ける悪寒、自分の体にムカデが這って登ってくるのをただ見つめることしかできない恐怖に、その腕が少しだけ動いたが、父はその手を更にきつく掴んで椅子から引き下ろし、衣服を乱暴に引き剥がした。
「淑、○○○○」
父は何かを口走ったが、もうそれも聞こえなかった。父の顔貌は激しく歪み、顔を何度か打たれたのがわかった。しかしその肌の上に縫い付けられた鈍い痛みが、自分の形を思い出させてくれたようで、一瞬だけ手足の感覚が戻り、文淑は力に任せて父の体を引き剥がした。飾り台に置いていた壺が落ちて割れ。素足で陶器の破片を踏みながら、室の外に出ようと逃げ回るが父に腕を引っぱって跳ね飛ばされ、肩の骨と肉が離れる音を耳は捉え、半身に激痛が走った。
その痛みに床の上へへたりこむと、父は息が上がったまま、戸を塞ぐようにして手早く本棚を移動させた。自分はただ精一杯に身を起こして立ち上がり、腕をかばいながら父に向き合った。だがその瞬間。本棚は倒れ、父は仰向けにその下敷きになった。本棚の下でもがく父に一瞬怯むと、父はもう自分の足首を引っ掴んでおり、力強く引っ張られて地面の上に倒れた。この時文淑のすぐ手の届くところに本棚の上に置いてあった景徳鎮の白磁の壺が、割れずに石床の上に転がっていた。
文淑は急いでその壺を拾い上げた。そして、本棚の下でうつ伏せになっている父の後頭部めがけて勢いよく投げつけた。
骨の砕けるような、鈍い音がした。壺は床の上に転げ落ち、父はぜんまい人形が止まるようにゆっくりと動かなくなった。
その顛末を見て、文淑は腰が抜けて地面に座り込んだ。父の頭から滔々と流れ出る血が、自分の足先に触れて、その生暖かさに悪寒がして、体が激しく震えた。
ガタン、と扉が開く、目線の先には、まだ幼い弟が立っていた。なんの前触れもなく本棚は倒れたのでは無いのだと文淑はこの時理解した。文家に嫁いできた年若く美しい娘の子、父が1番気に入っていた美しい男児文飛、そのせいで本棚の下敷きになったのだと思うと、父のことが哀れで滑稽に思えてならなかった。
「……文飛」
と弟の名を、文淑は呼んだ。父に愛されている文飛の顔は美しく整い、熱を持って赤く染まっていた。
「僕が、父上を?僕が、扉を開けたから」
そういう文飛の言葉に、文淑ははっとした。もし自分が父を手にかけたと言えば、父に懐いているこの弟は一体どんな顔をするだろう。泣きわめいて言いふらすかもしれない、ともなれば自分は、兄はどうなってしまうのだろう、文淑の頭の中では最低の展開が繰り広げられた。
「悪い盗賊が、父さんを殺していってしまったんだ。兄さんも殺されるところだった」
と、とっさに嘘をつき、文飛をきつく抱きしめた。その体は熱く、全身が心臓になったかのように脈打っていた。
文飛が腕の中で眠りにつくと、文淑はその体を冷たい石床の上に寝かせた。文飛は冷えた床が気持ちいいのか起きる気配はなく、ぐっすりと眠っている。安らかな弟の眠り顔を見ながら、文淑の心のなかでは「全部文飛のせいにしよう」という心と「嘘をついてはおしまいだ」という心がうごめいていた。
そして考えた末「兄にだけは。兄文碧にだけは本当のことを言おう」と決心した。ともに父親のこの特殊な趣向のせいで、苦しんだ身。痛みを分け合い、熱を分け合いながら生きてきた。そうして一歩踏み出すと、回廊を忙しく走ってくる足音があり顔を上げた。
「文飛!文淑!」
それは文碧の声だった。
「兄上」
とつい声が漏れ出た。兄の胸に飛び込もうと手足の痛みを忘れて駆け寄った。あの時と同じように、兄は自分に大丈夫だと言ってくれる。この乱れた心を慰めるように、自分の体をなでてくれる。文飛にだって自分はそうしたのだ。きっと自分もそうしてもらえるのだ、と文淑は期待に胸を膨らませた。今にも壊れてしまいそうな風船を心の中に抱えながら、張り裂ける寸前の思いに顔が熱くなった。
だが、兄は自分を通り抜け、文飛に駆け寄っていった。自分の体がすり抜けて、透明になってしまったかのように感じた。心にポッカリと穴が空き、次いで口は無意識のうちに言葉を紡いだ。
「文飛が、父を殺したんです」
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