第6話 先手
遊佐二月の座右の銘は「今日の一針明日の十針」だ。
今日1針縫うことを怠れば、明日はほころびが大きくなって10針も縫わなければならなくなることの例えである。
今日、やるべき簡単なことを怠ったが故に、後で大変な苦労をすることになる。これは、かつて二月がやらかした失敗だ。
面倒くさがりなクールを気取っていた結果、救える可能性のあった生徒を救えなかった自分を、二月はまだ許していない。
だから、この闇の空気を隠しきれていない校長との対話は、今のうちにやっておくべきだと判断した。
もう二度と、失敗しないために。
\
「お時間頂いてありがとうございます」
「いえいえ。急に担任をして頂いている遊佐先生に比べたら、私なんか暇なものですよ」
校長室の来客用のソファに座る遊佐二月と、彼のためにコーヒーを用意する安藤。
本物のマニアに比べては劣るが、安藤は人にコーヒーを振る舞うのが好きった。だから、この状況を少しだけ楽しんでいる。
「どうぞ」
自分なりのベストを出せた1品を二月に出す。
「ありがとうございます」
そう言い終わるかどうかのスピードで、角砂糖をドバドバと入れられた。おそらく10個は入っていただろう。
「‥‥‥」
いや、別に「コーヒーはブラック以外認めない!」とかうるさいことを言うつもりはない。安藤だって、その日の気分によっては角砂糖を入れることはある。
しかし、それはもはや致死量なのではないかと感じる砂糖の量に、危うく顔をしかめそうになった。
液体から、甘い泥と化したコーヒーをズルズルと飲んでいる二月の前に、安藤も座る。
「美味しいです。他の先生方から安藤校長の入れるコーヒーは上品で美味だと伺っていたので、こうして飲むことができて光栄です」
「ありがとうございます」
礼儀正しい言葉遣いだし、自分のコーヒーが他者に評価されていたと聞けて嬉しい。
しかし、その言葉を吐いた二月が飲んでいるものは、安藤が知っているコーヒーではない。
悪い奴ではなさそうなのが余計に、感情の持っていき方が困難になってくる。マズイな。完全に場を支配されている。なんとか立ち直らなければ。
「いきなりで失礼なのですが、安藤校長は裏の世界に身を置いていた経験がおありですよね?」
「‥‥‥はい」
ここで、中途半端に否定することは、後に自分の首を絞める要因になりそうだと、安藤は静かに認める。
場の空気の作り方、ぶっ込むタイミング、全てにおいて対応できなかった安藤の敗北だ。相手が若いからといって油断していた。
「仰る通り、私は20年ほど前まで、殺し屋をしておりました」
「やはりですか」
再び、ズズズとコーヒーという名の泥を飲む二月。
その間、安藤は今後の己の身の振り方を考えていた。もう教師は続けられないだろうから、またどこかで1からやり直すしかない。ツテがあるとしたら、星田探偵事務所だろうか。あそこのギャル所長にこき使われるのも悪くはない。
「それを聞けて、安心しました。では、私は業務に戻ります」
残りの泥コーヒーを一気に飲み切る二月。糖尿病にならないかと、本気で心配になってくる。
「‥‥‥教育委員には報告しないのですか?」
「いえ。安藤さんの昔は知りませんが、今はこんな若造にも真摯に向き合ってくれる人だと分かったので、それはしません。‥‥‥面倒ですし」
「‥‥‥フフ」
最後に小声で呟いた本音に聞こえて、つい笑ってしまう安藤。
そして、呼び方が「安藤校長」から「安藤さん」に変わった。少しは心を許してくれたのだろうか。
「でも、安藤さんの影響で生徒が傷つくことがあれば、然るべき手順をとらせて頂きますので、そこ辺りはご理解下さい」
「はい。肝に銘じておきます」
「失礼致します」
やっと、校長室から退室していく二月。
「‥‥‥ふぅ」
一気に襲いかかる疲労感から、ソファに横になる。
「‥‥‥久しぶりに緊張した」
額に冷や汗をかいているのを自覚しながら、そう呟いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます