元殺し屋の校長は生徒を愛していない
ガビ
第1話 変わり者の校長
「貴方の通っていた学校の校長の名前は?」という質問に答えられる人間は、はたして何人いるだろうか。
小学校でも中学でも高校でも良い。貴方は答えられますか? とっくに社会に出ている人間はもちろん、現役の学生でも答えるのか難しいだろう。
校長は校長でしかない。
役職でしか生徒に認識されない。それが校長というものだ。
しかし、ここ川井高校の校長は違った。
「安藤さん、おはようございます」
「アンドーさん、おはよー」
気怠いく蒸し暑い6月の朝。
できれば、一言も発したくない生徒もいるだろうが、校門に立っている安藤校長に生徒達は自ら挨拶をする。
「おはようございます」
愛想のカケラもないが、安藤昌哉は1人1人に挨拶を返す。
不快感が溢れる暑さの中、スーツをきっちり着こなして、その場から微動だにしない。汗はかいているが、綺麗にセットされた短髪によって清潔感が保たれている。
スーツ越しからでも分かる筋肉質な身体と、鋭い眼光で恐ろしい印象を与えてしまうが、多くの人間は彼の内面を知って、次第に心を開いていく。
安藤がこの川井高校に就任したばかりの2年前までは、この学校に挨拶をするという習慣はなかった。生徒はもちろん、教師陣もである。
なくても死ぬものではない。特に親しくもない相手にする挨拶を面倒に思う気持ちは分かる。
しかし、安藤は前職で挨拶をしないことのリスクを知っていた。大義のある女性は、裏稼業を生業としていたが、礼儀を大切にする人だった。
「いいかい、昌哉。<おはようございます>と声に発するには2秒ほどかかる。愚かな者は、この2秒を惜しく思ってしまう」
安藤を拾ったばかりの頃、幼い彼と視線を合わせるためにしゃがみながら彼女は、こう続けた。
「時間は確かに大事だ。場合によっては金よりも価値が上がる。でもな。2秒というのは信頼を犠牲にするほどのものではないと、私は思っている」
7歳の子供に語るには若干難しい表現を、彼女は使っていた。子供だからと極端に簡単な表現を使うことを嫌ってきたからだ。
だから、このクソみたいな世の中を生き抜く上での知識を、真剣に伝えてくれていたのだ。
そのおかけで、こうして表の世界に身を置いてからも、何とかやっていけている。
始業時間まで3分を切る。安藤もそろそろ職員室に戻ろうとしていると、ゆっくりとした足取りで校門に近づく女生徒がいた。
「おはよう。急がないと始業のチャイムがなりますよ」
「はい! 急ぎます! あ。おはようございます!」
「はい。おはよう」
最後に、茶髪と笑顔が似合う女生徒を見送り、安藤は校内に戻る。
4月頃は、安藤の挨拶を無視していた彼女だったが、今は笑顔まで見せてくれるようになった。
トップが誰よりも早く来て、毎日愚直なまでに挨拶を続けた結果だ。
午前8時30分。朝のホームルームの時間。
誰もいない廊下を歩いて職員室に向かう。
その道すがら、安藤は自分が川井高校に初勤務した日のことを思い出していた。
\
安藤昌也は、ジェネレーションギャップという言葉が嫌いだ。
「分かり合えない理由に世代という言い訳を使うのは卑怯だ」と思っているタイプの50代後半のおっさんである。
嫌いな奴は同世代だろうが嫌いだし、好ましい人は何十歳離れていても好ましい。ジェネレーションギャップなんて言葉は、コミュニケーションの努力を怠っている奴の言い訳だ。
そんな、SNSに投稿したら秒で炎上しそうな思想の持ち主の彼が、高校の校長になってしまった。
教育委員会の連中と仲良くやってこなかった自分が、校長なんて偉そうな役職に就くとは思わなかった。
(俺なんかを使わざるを得ないくらいの人手不足なのか。あの人達も大変だな)
余計なお世話も甚だしいことを考えながら、安藤校長は朝のワイドショーをやっていたテレビを消す。もう出なければならない時間だ。
「行ってきます」
もう1人の住人に声をかけるが、返事は返ってこない。まだ寝ているのだろう。
若干の心配を残しながら外へ出る。
さて。初陣だ。
\
「それでは、続きまして校長先生のお話です」
放送部の女生徒が、ハキハキとした声で言う。
しかし、彼女の努力は虚しく、体育館にいる人間全員がネガティブな感情になる。生徒のみならず、教員や保護者の大人達も時間をドブに捨てる覚悟をしたのが、安藤には分かった。
校長の話は長い。
こればかりは、どの世代でも共通認識として語られるだろう。
5分で済む話を、何倍にもする無駄話の達人。
それが校長だ。
安藤が数学教師をしていた学校の校長もそうだった。よくもまあ、あれだけスベッているのに話し続けるものだと、逆に感心したものだ。
しかし、この安藤という男は、長話をするのが苦手だ。
若い頃、無駄に長い会議中に「今日は結論が出なさそうなので、後日にしましょう」と発言してしまうくらいには短気だ。
そんな安藤が、壇上に立つ。
「本年度から校長に赴任しました、安藤と申します。皆さんと同じ1年生ですね。新参者として、一緒にたくさん学んでいこうと思っております。以上です」
10秒が経過したかどうかも怪しい、短い挨拶だった。
役割を終えて、さっさと壇上から降りる安藤。
「‥‥‥え? い、以上? 以上って言った?」
戸惑いによるひとりごとが、マイクに拾われてしまっている放送部の女生徒。同じく、呆気に取られていたその他大勢は、その如何にも人間らしい反応に共感していた。
「あ。し、失礼しました。では、これで入学式を終わりにします」
マイクに自分の声を拾われていることに気づいた彼女は、頬を真っ赤にしながらも仕事を全うしようとしている。責任感の強い子のようだ。
「それでは、3年1組から退場をお願いします」
それからも、スムーズに移動を済ませることができた。
安藤も移動しようとしていると、司会をしていた女生徒がとことこと寄ってきた。
今時は珍しい黒髪ロングのthe清楚系の彼女は、男子生徒から人気があった。
「あの‥‥‥校長先生。2年2組の早川ちとせです。お話が終わった後に巧く進行できずに申し訳ありませんでした!」
「気にすることはありません。自分が変わったタイプの校長であることは自覚しているので、焦る気持ちも分かりますし。そんなことよりも、他の箇所の進行が完璧だったことを、貴女は誇るべきです。あ、それと‥‥‥」
できるだけ、無駄な圧迫感を与えないようにと、安藤は次のセリフを発した。
「私のことは校長ではなく、安藤とお呼び下さい。そんな大した人間ではないので」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます